第三話 『赤く染まる雪 前編』
今後のメインメンバーがそろい始めてきます
雪が降る。
しんしん、しんしんと、世界を穢れなき純白に染めながら。
ある詩人が雪を乙女に例えたのは、暖炉の温もりの中で外を眺め、白い世界の美しさに心奪われたからか。
恋に浮かれた世間知らずの青年が「真実の愛」と家を飛び出し、彼女の白い柔肌に抱かれて凍りつく。
それを永遠の愛と感動するのは、夢に酔った愚者だけだ。
春が来て想いが「冷」めれば、彼女は去っていく。
後は、空腹に目覚めた獣たちが、永遠の愛とやらを美味そうに咀嚼するだけ。
だから、山の民は知っている。
彼女を愛したければ、蹂躙せよ、と。
極寒をものともしない屈強な体と、処女雪を散らすように己の痕跡を刻む強靭な精神を持つ者だけが、彼女の魔性の愛を受け、生を得るのだ。
何しろ、彼女を犯したところで、何度でも白に塗り替えられるだけだ。
雪が降る。
しんしん、しんしんと、吹雪くことなくただ積もる。
絶世の美女にして狂気の魔性を宿すと謳われるクェルリマ山は、優しく白い死の化粧を施していく。
恋人を待つ乙女のように。
そして――
「なぜだ、なぜ裏切った!」
「……俺が、信じるもののためだ」
柔肌の上で殺し合う戦士たちを、祝福するように。
「頼む、投降してくれ! まだ間に合う! 俺はお前を殺したくない!」
「ああ、俺もだ。そして今からでも戻れば殺されずに済むと知っている。だが――俺は行く。だから引いてくれ」
それは互いの本心だったが、譲れない信念を再確認するだけ。
鉄の音が何度も山に響き、そして止む。
その場に立つのは、一人の男。
手にしたものは、赤く、赤く。
滴る鮮血が、破瓜の証のように雪を朱に染める。
男の目から頬を伝う透明な雫は凍りつき、悔恨すら許さない。
「……おおおおぉぉぉぉぉぉ!!」
すべてを呪う獣の咆哮が響く。
おおおん、おおおんと、慟哭のように山に伝わり、消えていった。
雪が降る。
しんしん、しんしんと、雪が降る。
大陸北東部有数の寒冷地帯、マカル山脈。その白く染まる光景が名所となるガダン領。
人々はマカルの山々に敬意と畏怖を抱き、距離を置いた山林や裾野に生活圏を築いた。
そんなガダンの僻地で、山から降りてきた狩人と、山菜や魚、木材を採りに山へ向かう樵が、村から続く小道で出会う。
「ほーい、今日も寒いねぇ」
「あーい、寒かなぁ」
出会い頭に寒さを口にするのは、この地域の挨拶だ。
寒さが日常であり、逃れられない現実なら、むしろ受け入れて組み込んでしまえ――そんな諦めと逞しさで生まれた文化である。
のどかさでは生き残れない。だが、ユーモアを失えば人は緩やかに死ぬ。
絶望が病魔に等しいことを、生き物は本能で知っている。
寒さの挨拶が済めば、次はマカル山脈の話題だ。
「綺麗」「壮大」
そんな言葉を交わし、ようやく仕事に戻るか本題に入るのが暗黙の決まりだ。
だが、今日には変化があった。
「しっかしまぁ、今日は『お山』が騒がしいなぁ。んだば、獣たちもいつもよりビクビクしとる。まぁ、よぉく警戒してオラをすぐ見つけたり、逆に何かに脅えるように動かず震えてたり。……足して引いて、結局いつもの数しか仕留められんかったわい」
「だなぁ。遠くから見りゃ、鳥たちが騒がしく飛び回っとった。『向こう』で何かあったんかね?」
狩人と樵は、マカル山脈を見上げる。
彼らの言う「山」には二つある。一つは普段狩りや採取に使う「ただの山」。国に名前があっても、彼らには「山」でしかない。名を知る者は少ない。
もう一つは、マカル山脈だ。「お山」と言えばこちらを指すのが通例である。
「『向こう』か……まぁ、オラたちはマカルには近づかねぇ。気にしても仕方ねぇけどな」
彼らはマカルに入ったことがない。
法律や慣習があるわけではなく、単にマカル踏破が危険だからだ。そして、そこは実質的な国境線でもある。
ガダン領を擁するガダン国は、マカル山脈を挟んだ東部全域を領土と主張していた。
だが、周辺国は認めていない。それが火種にならなかったのは、領域が広大ではなく(とはいえ国一つ分の大きさはある)、ガダン領を超える極寒地であること。そして最大の理由は――
「ただ、亜人たちのすることだしなぁ。警戒はしとくべぇ」
亜人、それも「神に見放された者たち」だ。
フェリス教により大陸東部に追いやられた土着信仰の人間と亜人たち。
「神に許された者」――四腕族や風鳥族、三眼族などは人間と同等に扱われるが、多くの亜人は「神に見放された者」として異端とされ、迫害されてきた。
人間と亜人の最大の差は個体数だ。個体性能が優れていても、「社会」では必然的に弱者となる。
フェリスという強者に蹂躙され恨みつつ、自分たちも同じことをして正当化する。
マクロからミクロへ、変わらぬ構図が繰り返されるだけだ。
結果、亜人たちは、北東部でもフェリス信者が多い地域で、異端の人間同様、社会の隅で怯えながら生きるか、過酷な地域へ生存圏を移した。
強靭な力を持つ者は、より過酷な環境に住むことで人間の干渉を防ぎ、そこで小さな街や国を築く。
マカル東部に住む夜叉族は少数ながら、単体では魔鬼族や天翼族に匹敵する力を持つ亜人だ。
土小人族や雪樹族の協力の下、非公式ながら国を築き統治しているという。
マカル東へ行くには、海を回るか、南部を迂回するか、マカルを横断するしかない。だが、海は危険な海流と魔獣に阻まれ、小船のルートしかなく、南部に軍を通せば宣戦布告だ。マカルの横断は死の行進に等しい。
たとえ辿り着いても、そこはガダンを超える凍てつく世界。待ち受けるは最強の夜叉族。
つまり、領土を主張しても、占領も統治も実質的に不可能なのだ。
こうして、「存在しない国境線」としてマカル山脈が聳える。
『向こう』とは、夜叉族の「あるはずの国」を指し、近くて別の世界だった。
「やっぱ、『あの方』がガダンに視察に来てることと、なんか関係あるのかのう」
狩人が呟く。
四腕族の治めるアフェバイラ王国。ガダン国の隣国――だった国の第三王子。
今やガダンを統治し、マカル東部を除く大陸北東部をほぼ制圧した大国アフェバイラの、事実上の最高権力者だ。
彼がなぜガダンに来ているのか、ただの村民の二人にはわからない。
ガダンは最近アフェバイラに属した辺境の地。観光でもマカルを眺めるくらいしかないのに、と。
アフェバイラとガダンの関係は、近年築かれたものだ。
20年前、大陸北東部の国々を吸収しガダンに迫った時、戦争かと誰もが不安に陥った。
だが、彼らは攻めず、友好的に接した。それどころか、「贈呈」と呼べるほどの支援を提示し、実現した。
マジックアイテムの提供、インフラ整備、移住の簡略化、留学費の全額負担など。
当時、大臣たちは「ガダンの権威に平伏したのだ。『神に許された者』とはいえ亜人には眩しかろう」と傲慢に笑った。
だが、5年後、その笑みは凍りつく。
設備が整い、物資が安定供給された頃、アフェバイラは「支援はもう十分」と贈呈を打ち切った。
それを当然と思っていた彼らは、初めてアフェバイラへの完全依存に気づく。
マジックアイテムは魔力切れや故障で終わる。再入荷が必要だ。インフラ運用には職人や亜人の協力が欠かせない。
『あの方』の力に惹かれた人材は留学し、亜人が堂々と暮らせるアフェバイラへ移住した。
一度知った「便利さ」は忘れられない。
だが、正規の取引では膨大な費用が国家を揺るがす。
追い打ちのように、『あの方』の力は国民の意識すら変えた。
そんな中、アフェバイラからの通達はこうだ。
「アフェバイラに帰依すれば、自治権を認めた上で『我が国のため』に今まで通り支援するよ。もちろん、今までの『友好』関係でもいいよ」
しかも、ガダン国民に伝わるよう、商人に大々的に告知。
国民は「戦争などありえない」「アフェバイラは誇りと自治、王家を認めてくれる」とアフェバイラに傾いた。
とどめは、ガダン王の言葉だ。
「物資や設備が止まれば苦しむだろう。だが、最も恐ろしいのは『あの方』の力が国民に届かず、その笑顔が消えることだ」
ニスティア暦1012年。
アフェバイラ帝王の生誕を起点とする大陸暦113年のことだった。
常識を覆し、幸福を導く奇跡を起こすアフェバイラ第三王子。
フェリス教に代わる「道」として力を惜しまない彼は、マカルの異変すら関連づけられるほど、ガダン辺境の民にも信奉されていた。
「うーん、さすがに考えすぎだとは思うが……まぁ、『あの方』だしなぁ。亜人にも色々いるって考えさせられたのは、あの方のお陰だ。『向こう』との交流も、いつか実現するかもな」
「だなぁ。……さて、オラはそろそろ獲物を捌かねぇと」
「ああ、んだな。俺も樵小屋に戻るべぇ」
話し込んだせいで少し震えるが、挨拶以外で寒さを口にすれば情けないとばかりに触れない。
何より、アフェバイラから届いた火の精の力を鉄片に封じたマジックアイテムの懐炉が、服の下で温めてくれる。
二人が離れる際、樵が「ほーい」と別れの声をかけ、狩人も同じく返す。
太陽はまだ真上に昇っていないが、ガダンの昼は短い。
仕事は、まだまだ残っている。
樵が自分の小屋に辿り着いた時、最初に感じたのは妙な不安だった。
命の危機というより――
そうだ、数年前に嫁いだ妹が幼い頃、寂しくて泣き出し自分を困らせた時の感覚に近い。懐かしさに納得した。
だが、小屋の扉に近づくと、ざわりと明らかな敵意が襲い――
ドスン、と。
「……あ?」
樵が身構える間もなく扉が開き、倒れ込むように現れたのは、全身赤毛に覆われ、手に赤黒い何かで染まった鎚を持つ巨体だった。
人間種の成人男性の1.5倍はある体と赤い体毛に、樵は一瞬、こんな場所にいるはずのない魔獣かと息を呑む。
だが、それが鎚を杖のように支えに上半身を起こし――
「あ、亜人?」
見たことのない亜人だった。
燃えるような赤い髪と体毛、冷たい宝石のような青い目。無骨ながら狼を思わせる二本の牙には、獲物の生き血か自らの吐血か、鮮血が滴る。
何より、巨木を片手で持ち上げそうな豪腕と体躯。
見たことはないが、知識なら該当するものがある。
「や、夜叉族!?」
魔獣よりあり得ない、いてはならない存在がそこにいた。
腰を抜かしそうになる。
だが、逃げる術を失えば生きる道はない。震える足を押さえ、背中の斧を取り出す。
それを見咎めたのか、血走った青い目で睨み、夜叉族は鎚を振り上げ――「ごふっ」と血漿を吐き、どさりと完全に倒れた。
鎚を振り上げた瞬間「ひっ」と固まった樵は、唖然としつつ、生きているか斧でつつこうとして――
「やめて!」
突然の声に驚き小屋を見上げると、扉の縁を支えに立つ5歳ほどの白い肌の少女がいた。
「おじ……ちゃんを……いじめないで」
先の制止とは打って変わり、か細い声で言う。
ふらつく足取り、顔は手足と違い熱病のように赤い。
「あ、いや、別にいじめるつもりじゃ……って、お前、熱あるんじゃねぇか!?」
そう言う間、少女は夜叉族をかばうように彼の背に倒れ込む。
呆然としつつ何かを考えようとするが、樵の頭は混乱の極みにあった。
「なんてこった……あー、もう、何が起きてんだ。わっけわかんねぇ!」
無理もない。
戦争に一度参加しただけの、平穏に樵として生きてきた男だ。
教養は読み書きと簡単な計算程度。誇れるのは山の知識だけ。
「た、助けなきゃ? でも夜叉族だぞ? てかなんでこんなとこに? 女の子だけ助けても見殺しは罪悪感が、うあああ!」
もし、このまま混乱していたら。
もし、ガダンが20年前にアフェバイラに統治されていなかったら――この物語はここで終わっていただろう。
治療できず、夜叉族を危険と見て命を絶っていたかもしれない。
夜叉族の男と謎の少女が死に、大陸の未来が変わっていたかもしれない。
「……見捨てられねぇよなぁ……」
だが、彼らを救い、樵の気高き精神を救ったのは、『あの方』の導きだったと、歴史家は後に述べる。
「俺だって、見捨てるような小悪党や脇役じゃなく、ヒーローになりたいからなぁ……」
こうして――
十数年後、自由帝国アフェバイラの精鋭武将、「常勝将軍」「アフェバイラの鬼神」、「赤い月光」「千種のUNKNOWN」「死を生み出す者」「精神戦車」など、数々の異名を誇る夜叉族の戦士、オアド。
「神に見放された者」と人間種、「許された」亜人との友好の架け橋となり、朝日に祝福された少女と謳われたモニン。
二人の伝説が、ここに始まった。
自由帝国建国まであと17年、大陸暦133年のことである。