第二十二話 『新約聖典:革命期 ~第四節~』
雪が王都を白く覆い始めたころ、工房のベルトコンベアは静かに止まっていた。
材料の供給が途絶え、工房は改造のために一時休止を余儀なくされたのだ。
豚鼻族の女は、工房の隅で仲間たちと顔を見合わせた。
彼女の鼻が、冷たい空気で小さく鳴る。
これまでの賃金で貯蓄はある。
子供たちに温かいスープを飲ませ、暖炉に薪をくべることはできる。
だが、動かないコンベアと、鉛色の雪空を見上げるたび、胸に冷たい不安が広がる。今はいい。だが、さすがに冬を越せるほどのたくわえはない。
以前の暮らしに戻るだけ、と言ってしまえばそれまでだが、自分は良くても子供たちにあの苦労を再びさせたくはない。
牛角族の男が元気づけようと笑おうとするが、その目は曇り、肩がわずかに震えるだけだ。
「ブモ……王子なら、きっと何かしてくれるよな?」
豚鼻族の女は、鼻を鳴らし、凍えた手を擦りながら頷く。
「ぶひ……うん、きっと……」
その日、彼女たちは貯蓄の銅貨を握り、凍てつく王都の市場へ向かった。
石畳に雪が積もり、足元で軋む。
露店では、干し肉や固いパンが並び、スープの湯気が白く立ち上る。
豚鼻族の女が銅貨を差し出すと、露店の男が心配そうに目を細めた。
「おい、工房の姉ちゃんだよな。大丈夫か?材料が手に入らなくて工場が止まったって聞いたぞ」
彼女は驚き、鼻を鳴らす。
かつて、彼女たちの鼻は嘲笑の的だった。
だが、今、男の皺だらけの顔には、純粋な心配が宿っている。
彼女の胸に、温かい喜びが灯る。
「ぶひ……ありがとう、なんとかやってるよ」
夜、酒場に立ち寄った家族のいない亜人たちは、木のテーブルを囲み、熱いスープをすすった。
暖炉の火が赤く揺れ、壁に長い影を映し出している中、職人や平民が、酒杯を手に近づいてくる。
「工房、止まったって本当か?お前らの椅子、うちの店で評判なのに!」
「ああ、お前らの家具のおかげで俺たちの給料も上がってたんだ。俺たちはまた元の通りに家具を作ればいいが、お前たちは……」
そこにいた豚鼻族の女は、慣れない同情に照れくさそうに鼻を鳴らし、けなげに微笑む。
「ぶひ……きっと大丈夫」
すると、酒場の隅から一人の男が、耐えきれず立ち上がった。
彼の顔は赤く、酒のせいか羞恥か、額に汗が光る。
頭を下げ、嗚咽するようにつぶやく。
「すまねえ……本当にすまねえ……」
それまで黙っていた牛角族の男が、角を傾け、碗を置いて尋ねる。
「ブモ?どうした、急に?」
男は、震える声で答えた。
「俺……材料の取引を止めた商人の一人なんだ」
酒場の空気が凍る。
暖炉の火がパチリと弾け、静寂を裂く。
職人たちが碗を握り、怒鳴る。
「なんだと!?お前、亜人たちを裏切ったのか!」
「お前らだって儲けてただろう!それを仇で返すのかよ」
だが、豚鼻族の女が手を上げ、穏やかに制した。
彼女の目は、優しく、しかし強い光を宿す。
「ぶひ……待って。理由を聞かせて」
商人は目を潤ませ、肩を震わせながら続ける。
「本当は取引を続けたかった。だが、フェリス教の高司祭と、そいつらとつるんでる貴族から『お前はフェリス様の教えに逆らう背教徒なのか』って。『背教徒なら王国で商売の権利を剥奪されるかもしれませんね』って……俺にも家族がいるんだ。すまねえ……」
彼は頭を下げ、額をテーブルに押しつける。
平民たちの半数は同情し、目を伏せる。
だが、職人や末端商人は、拳を握り、怒りを抑えきれない。
そんな中、牛角族の男が、角を揺らし、ゆっくり立ち上がる。
その丸太のような大きな腕を上げ、その影が商人の頭にかかり、周りの人間が「ま、まて」と止めようとしたその時
ぽん、と。
その手は優しく商人の肩に置かれていた。
「ブモ。お前にも生活がある。仕方ねえよ。謝ってくれて、それだけで嬉しいぜ」
豚鼻族の女も、鼻を鳴らし、柔らかな微笑みを浮かべる。
「ぶひ……本当だよ。心から謝ってくれて、ありがとう」
商人は、亜人の笑顔に罪悪感を強め、泣き崩れるように涙をこぼす。
彼の肩が震え、声が途切れる。
「すまねえ……もし機会があれば、できる限りのことはする。約束する!」
当人の亜人たちが許しているのに、さすがにこれでは周りが責めるわけにはいかない。
暖炉の火が再び穏やかに揺れ、酒場の空気が和らいでいく。
しんみりとしかけたその空気の中、一人の職人が、スープの碗を手に笑った。
「まあ、でもよ、王子なら何かしてくれるだろ?あの方は、平民や亜人のために、とんでもねえことばかりしてきたんだしな!」
豚鼻族の女が、目を輝かせ、鼻を鳴らす。
「ぶひ!王子なら、きっと工房を動かしてくれる!」
酒場は、アノン王子の話で一気に盛り上がった。
まだまだ「神に見放された者たち」に対する偏見、価値観の違いはある。だが、たとえ利益的なつながりはなくても、王子が好きであるという一点で彼らは思いを等しくしていたのだ。
三日後、工房に呼び出された亜人たちは、不安を抱えながら石畳を歩む。
雪が靴に食い込み、冷たい風が頬を刺して、これからの不安を煽るかのようだ。
牛角族の男が、角を揺らし、つぶやく。
「ブモ……解雇、じゃねえよな?」
豚鼻族の女が、鼻を鳴らし、凍えた手を握りしめる。
「ぶひ……王子なら、きっと……」
工房に入ると、アノンがいた。その横ではクローニンが胃を押さえて立っている。
改造された工房は、鉄と木の匂いに満ち、新しい作業台が並ぶ。
魔法紙や絵具の瓶が山と積まれ、土小人技術団が作ったと思えるいくつかの見慣れぬ道具がある。
そしてアノンが、四本の腕を広げ、叫んだ。
「よし、みんな!新しい仕事だ!最初は練習だ。失敗してもいいから、慣れていこう!」
牛角族は、いつものようにコンベアの動力を担当。
彼らの力で、巨大な歯車がガコンガコンと唸り、木枠や紙を運ぶ。
豚鼻族は言われた通り、木枠に絵具を塗る作業を始める。
一人が赤の絵具を枠に流し、刷毛で丁寧に広げる。
別の者が青を塗り、枠を重ねる。
豚鼻族の女は、鼻を鳴らしながら慎重に枠を動かす。
版を重ねるたび、色鮮やかな模様が浮かび上がる。最初のうちはなんだかわからなかったが、色を重ねるごとに形どられたものが表れてくる。
最後に、細かい文字を刻んだ枠で、言葉を刷り込む。
そして、完成したものを見た彼らは、目を丸くした。
一週間後、王都のアノン王子が管轄する店に奇妙な品が並んだ。
小さな袋だ。
袋には、王家の紋章――剣と翼が交差するデザインに、アノンの遊び心で星が散りばめられた印が押されている。
その袋が置かれた棚の前には、巨大な絵。
アフェバイラの不敗の大将軍、ガルヴァンを思わせる、少しデフォルメされた姿だ。
写実的ではないが、剣を掲げ戦場を駆ける姿は、妙に心を掴むかっこよさだ。
その周りには、好奇心に駆られた平民がなんだなんだと集まっていた。
ガルヴァンの熱烈なファンである平民の男が、目を輝かせて店主に尋ねる。
「おっちゃん、これ英雄のガルヴァン将軍の絵だよな。それになんだこの袋。将軍の絵が飾ってあるってことは、軍用の払い下げ品か?」
店主は、待ってました、とばかりに笑みを浮かべながら答える。
その笑みは客が来た喜びというより、いたずら好きの子供のそれだ。
「保存用携帯食の丸薬だよ。旅の食糧にもなるが、塩気より甘みを足してある。小腹がすいた時のおやつみたいなもんだ。どうせなら三つくらい買っとけ。損はねえよ」
丸薬一つで、子供が無理すれば買える値段。
だが、相場なら同じ値段で四、五個は買えるはずだ。
男は訝しむが、土小人の技術やアノンの奇抜な前例を思い出し、店主の笑顔に押されて三つ購入。
「まいどあり。……ちなみに、第一弾は全20種だ。……一応な」
「……?味がいろいろあるのか?俺、選んでないけど」
「開ければわかるよ」
店主はそれ以上答えず、口角を上げて笑うだけだ。
男は訝しがりながら、広場へ向かう。
幸い雪は止んでおり、焚火の近くの木のベンチに腰を下ろして暖を取る。
この辺りは風よけも多く、焚火があると暑いほどだ。
そしてさっそく、先ほど買った携帯食を取り出して、味を見てみることにする。
ころり、と出てきたのは丸薬一つ。
ほんのり甘いが、味は普通。
「まあ、まずくはないな。むしろ旨い。……だが、一つでこの値段はぼったくりだろ!」
憤りながら袋を振ると、何かがカサリと音を立てる。
取り出すと、手のひらサイズの長方形の厚紙。
そこには、風が唸る槍を構える兵士の姿がある
その枠の上部にはこう記載がある。
『疾風の槍使い 第二歩兵団隊長 ザルク』
さらに、一番下には大きな枠取りがされ、こう記されている。
『「我が槍は風――風は無形にて誰にも見えぬ」 ザルク』
男はそのかっこよさに目を奪われた。
裏面には、サイコロの「3」、手遊びの三すくみの「蛇」の絵があり、さらに何かの種別を示すのか、「兵」「武」「風」の文字。そして地名「ヴェルド村」。
さらに
「第二歩兵団隊長はヴェルド村出身の平民。その槍の才で騎士団の隊長に上り詰めたツワモノ」
とある。
サイコロと三すくみはわかる。
だがその後にある文字の意味がわからない。
いや言葉の意味はわかるし、何を意味してるのかはなんとなくわかるが詳しくはわからない。
よくわからないことも含めてその男は、かっこよさに震えた。
広場の雪が、彼の興奮で溶けるかのようだ。
慌てて二つ目の袋を開ける。
丸薬と共に出てきたのは、炎の中で杖を掲げ妖艶に笑う女魔導士の絵札。
『紅蓮の竜巻 王宮魔導士 リゼット』
そして下部には
『「あら、ごめんなさい。私の愛は……とっても熱いの」 リゼット』
という彼女のセリフ。
裏には「宮」「魔」「火」「サルナの街」、そして「最年少で王宮魔導士に任命された天才魔導士。彼女の炎の魔法は情熱の証」とある。
男は足をガクガクさせた。かろうじて膝まづくことだけは耐えた。
周りの平民が、何事かと奇妙な目で振り返る。
だが、彼は気にせず、丸薬をかじり、三つ目の袋を開ける。
そこには彼の好きな大将軍――ではなく、彼の右腕と言われる副将軍の絵。
四腕により大剣と大盾を同時に持ち、武人として堂々とたたずむ勇ましい絵だ。しかもこれまでの絵札と違い、なんか枠が少しだけキラキラしている。
『アフェバイラの守護 副将軍 ドルッソ』
『「我が剣、我が盾は、すべてアフェバイラ王と民のために」 ドルッソ』
裏には「英」「武」「土」「アフェバイラ」、そして「常に王家への忠義と、民の盾として戦い、王国の守護者に至った英雄の一人」とある。
男は、かっこよさについに膝から崩れ落ちた。
「お、おい、大丈夫か?」
心配した平民が声をかける。
ちなみに彼は、リゼットのファンだった。
崩れ落ちた男が持つリゼットの絵札を見て、「うおお!?」と叫ぶ。
「な、なんだこれ!?どこで手に入れた?教えてくれたら飯おごるぞ!」
「飯食ってる場合じゃねえ!」
男は立ち上がり、雪を蹴ってあの店へ走る。
なにしろ店主が「全20種」と言ったのだ。
副将軍が出たなら、当然あのとき飾ってあった大将軍の絵札も――
「大将軍の絵札は俺のもんじゃあああ!!」
広場を駆け抜ける叫び。
リゼットのファンの男も、何かに気づき、追いかける。
広場は、絵札の噂で一気に熱を帯びていった。
王宮の執務室。
暖炉の火が赤く揺れ、凍えた窓ガラスに雪がこびりついている。
机には、魔法紙の束が山と積まれ、あたりにボールペンが転がっていた。
クローニンが、興奮で四本の腕を震わせ、額に汗を滲ませて飛び込んできた。
「王子、大成功です!絵札付きの丸薬、売れまくりで品切れ続出です!」
アノンは、椅子にふんぞり返り、ニヤリと笑う。
「やったか!」
「ただ……売れすぎて、早くもっと作れと各店舗から催促が……」
クローニンが、胃を押さえながら応えた。
彼の声には、興奮と不安が混じる。
「とりあえず、工房をフル稼働させています。今は王都に集中していますが、王国各地に広げないと。第二弾、第三弾も準備しないとだな」
「そ、そんなに急ぐのですか?」
アノンは、椅子から身を乗り出し、机の上のザルクの絵札を取ると指で弾く。
「急ぐ。どうせすぐに『トレード』に気づくし、20種じゃすぐ飽きる。冬だけじゃなく売っていくから、数か月に一回は新作出さないと。そうすれば時期を逃すと手に入らないとわかって出にくい『キラ』に価値が出るし、みんな焦るから売上が伸びる」
「そ、そこまで自信がおありですか?私も思わず集めてしまっていますが」
「見本用は別として、身内だろうとインチキはなしだ。ちゃんと中身がわからない状態で買うように」
「そ、それはもちろん!」
クローニンが、慌てて頷き、四本の腕を胸の前で交差させる。
四腕族のする、了承の意味を差すサインだ。
アノンは、椅子に背を預け、窓の外の雪を見やる。
「携帯食、袋は外部に発注したよね?彼らにも急がせて。あと、木彫り職人に絵札をコレクションする専用箱と、立体化した人形を作らせよう。少しは彼らにも利益を回さないと。それと、取引を停止した連中にも利益が出る話を持っていって。無駄に敵を作る意味はないし、彼らの状況に理解を示せば次は味方になる。ただ、次はないことは暗に伝えとけ」
「了解です!しかし、なぜ保存食をセットで付けたんですか?絵札だけでも売れたのでは?」
アノンは、彼の言葉にゆっくり立ち上がり、暖炉の前に歩み寄った。
彼の手には、『キラ』である大将軍ガルヴァンの絵札が握られ、火に照らされて輝いた。
「……先生、これは絵札を売ってるんじゃない。あれはあくまで『おまけ』なんですよ」
クローニンが、目を丸くし、ペンを落としそうになる。
「え?」
アノンは、暖炉の火を見つめ、口元に狡猾な笑みを浮かべる。
火の揺らめきが、彼の顔に深い影を刻む。
「売ってるのは甘みを足した新しい携帯保存食。開発に費用がかかったから一個でも高い」
クローニンが、首を傾げ、胃を押さえる手がわずかに緩む。
彼の目には、困惑が漂っている。
「はあ……」
アノンは、振り向きながら、件の丸薬をパクリと口にした。
彼の瞳が、まるで雪を溶かす炎のように輝く。
「……娯楽品や嗜好品には贅沢税がかかり、生産にも重い税がかかるが、食料品の税は激安だろ?」
「!!」
アノンは、ニヤリと笑い、改めて絵札を掲げた。
ガルヴァンのキラキラした枠が、暖炉の光に燃えがるように輝いている。
「クローニン、この絵札は何だ?」
クローニンが、胸を張り、声を張り上げる。
彼の胃痛も、一瞬忘れられたかのようだ。
「携帯食のおまけです!」
アノンは、満足げに頷き、窓の外の雪を見やる。
執務室の空気が、革命の火種のような熱を帯びる。
「よろしい、そういうことだ」
「……ちなみに、それであればもっと大きな食料品、高いものにつけたほうが儲かるのでは?」
「一口で食えるくらいがちょうどいい。下手に量が多いと、絵札だけ取って中身を捨てる……まではいかなくても、腐らせるやつが絶対に出る。そうなると言い訳がしづらい」
まるで見てきたかのように言うアノン。
クローニンは、凡人には見えないアノンの視界の広さに戦慄する。
確かに言われればそういうこともあるのかもしれないが、そんなこと言われるまで欠片も考えもしなかった。
この絵札の画力もそうだが、絵札を売ることも、それにかかわる問題の予測など、この発想力こそがアノン王子の「力」の一つなのだ。
「しかし、隊長たちは絵札になることを許可してくれましたが、その部下の兵士たちの反応は大丈夫でしょうか。心酔する上司がおまけの絵札になっていたら怒りませんか?もしそれで王子に対する反発が生まれたら――」
「まあ……可能性はゼロではないが、多分今頃は――」
一方、王宮と兵舎。
雪に覆われた訓練場で、兵士たちが絵札を手に騒いでいた。
槍を磨いていたザルクが、部下に絡まれる。
「ザルク隊長!ずるいっすよ!こんなん、俺だって絵札になって人気になりたいっす!」
兵舎の片隅では、魔導士が叫ぶ。
「くっそ、リゼットさんがでねえ!おい、まとめて買ってこい!」
別の兵士が、雪を蹴りながら叫ぶ。
「大将軍でたぁ!枠は金色だ!キラキラしとる!キラキラしとる!」
「まじかよ!見せろよ!」
「くそ!今日の昼飯はこの携帯食だ!」
「誰か!リゼットさんと銀のキラの法神官ゼノン様を交換しないか?二枚でたんだ!」
思い切り盛り上がっていた。
次は多分「星と魔法の交易路」の方を更新予定
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