第十一話 『愚者と賢者の狂想曲 ~鼠の耳~ 』
『顎鬚』が部屋を出て行った後を、『聖老』はただ呆然と見守っていた。
『監視者』とは違い会には参加し続けるといっていたが、明確に計画に反するという点でむしろ『監視者』よりその手が遠くなったといえる。
もし自分が計画を進めるとすれば、『顎鬚』はそれを阻止してくるのだろう。
『鼠の耳』より、先日『顎鬚』が王子に呼び出され、何かしらの交渉を持ちかけられたということは聞いている。
もちろん詳しい内容についてはいかに『鼠の耳』とはいえ探れなかったようで、それ以上のことはわからない。
とりあえず、情報としては王子に何かしらのアクションをとられ、それによって心変わりしたと見るのが妥当ではある。
だが、不可解なのは彼の立ち位置だ。
計画の早急な実行は阻止しようとするにもかかわらず、会に対して、そして自分に対して敵対するといったようでもないのだ。また、彼の主張は延期であって明確な中止ではない。
本当に『顎鬚』が自分たちを裏切り(それが『顎鬚』にとって止むに止まれぬ何かがあったとしても)王子側についたというなら、さっさと計画についての密告を行いこの会の首謀である自分、そして『鼠の耳』を生贄にしているはずだ。
そうすれば、こうやって集まったこの場が格好の捕縛のとなり、今回の『顎鬚』の報告まで警戒もしていなかった『聖老』たちはあっさりと取り押さえられたことだろう。
わざわざこの場で警告めいたことをいう必要などない。
いくつか考えられることは、確かにある。
たとえば「お隠れいただく」という叛意としては究極の位置であるそれに、『顎鬚』はたしかに実行計画そのものについては保留の立場だった。そういう意味では、彼はもともと穏健派ではある。
だから、今このときになって、日和見な考えに動いたことということも、ないことはないだろう。
しかし、王家に密告したところで、これまで謀反の計画があることを知りながら王家に報告をしていないことそのものが、加担者と認識されてもおかしくない。
よって、計画の密告は自分の首を絞めることにもなるからそうしなかった、ということだ。
が、『聖老』はそれをすぐに頭の中で否定した。
だとするなら、『監視者』と同じく「会に関わらない」でいいはずなのである。
自分たちが計画を実行して事態が発覚したとして、そのときに会から抜けた『監視者』の名を出すつもりは、『聖老』はさらさらない。
いや、たとえ会に属したままだとしても、実行のときに賛同、協力がなければあくまで自分含めた実行者のみの計画であり犯行だと主張するつもりであった。
間違っても、そのとき協力しなかったものたちを恨み、巻き添えにしようなどと思うわけがない。
たとえ裏切られて密告されようとそれは同じだ。それだけの覚悟が自分にはある。
それにもし裏切るなら堂々と。
自分が王国の為と王子を裏切るように、自分の大切なものを守るために「会」を裏切るのもまた道理である。
ならば、憎むべくもなし。
それが覚悟を決めたものたちの矜持というものだ。
自分がそうするであろうことを、武官とはいえ優秀な『顎鬚』が理解できぬはずもなく、また信頼されている自負もあった。
だから、彼は自己保身だけなら「今」、会を抜けるべきなのである。
だが、それをせずに計画の無期延期(つまり中止ではない)を提案するということは――
「つまり王子がお隠れになられたら困る、ということだな」
は、っと。
まるで自分の心をそのまま読みあげたかのような声に振り返れば、膨らんだ腹を揺らす青年――『鼠の耳』。
情報を扱うものの長として、やはりその思考の明瞭さは健在であった。
おそらくはこの状況から推測できるそれを、彼は『顎鬚』の発言を聞いた時点で導いていたのだろう。
ただ、黙り込んだ自分を見て、彼には一瞬だった解でも『聖老』には時間が必要なのだと、頃合を待っていたに違いない。
彼の能力のひとつである「状況把握」は、ともすれば空気を読む、といったことにも長けているのだから。
「うむ、そういうことだろう。……だが、その真意が読めぬ。命の覚悟はしておるのは当然だろうし、金や地位で懐柔されるような奴ではない。万が一懐柔されたにしろ、この距離感は不自然だ」
「ああ、もし趣旨換えして王子側についてたならただ我らを捕縛すればよい。あやつの場合まずありえないが命惜しさの自己保身なら、管理者と同じく会を抜けるだけでよいはずだ。だがあえて会に残り計画の停止を提案したということは、計画の停止さえ為せれば王子のやり方に反する立場は変わらないということになる」
『鼠の耳』も、当然のように『聖老』と同じ答えにたどり着いていた。
そしてその一歩先に進むのも、やはり『鼠の耳』だった。
「そこから考えられるのは二つだな。一つは王子からなんらかの恩恵を賜りそれを欲した場合だ。王子に権力があればこそ発生する利益を求めたのなら、あの提案は納得できる……まあ、金も権力も興味ない『顎鬚』だ。可能性では低いとは思うがな」
一度言葉を切り、彼は少しだけ声のトーンを落として、
「もう一つは――脅迫を受けた場合だ」
「……それも有り得ぬのではないか?欲するものがないということは、守るべきものもないということだ。命の覚悟はしておる以上、それに屈するとは思えぬ」
「確かに。だがな『聖老』。それはある意味で『監視者』も同じだったはずだ」
「いいや、『監視者』は子供が――」
「あれらは、『監視者』の実の子か?」
そこで、『聖老』は自分でも驚くくらいに間抜けな声で「あ」と叫んでしまった。
そして、気づいてしまった。
「押し付けられた子供達! ……まさか、弱みそのものを与えられていた?」
どこかで――赤い何かがゆらりと揺れる。
まるで、誰かが心に隠した激情が燃え尽きるのを隠したかのように。
「ああ、別に『監視者』のケースが意図的なものとまでは言わん。『監視者』に子が任されたのは数年前だからな。今の状況を見越して数年前に弱み作りが画策されていたなど思いたくもない。だが、弱点そのもの、守るべきものは『与える』場合でも発生するという良い事例だよ。子供に限らず、誇りや矜持もそうだろう。……あるいは、女、とかね」
それこそ、悪い冗談であるが、と、『鼠の耳』は自らの言葉に皮肉げに笑った。
ある程度心を交わす情婦がいないわけではないだろう。
だが、せいぜいが「お気に入り」程度であることは、『鼠の耳』も知っている。
性欲としての女好きではあれど――『顎鬚』が異性との関係そのものを面倒くさがっているのも、眷属から聞こえている情報だった。
だが、それでも――。
「……」
「ああ、すまないね『聖老』。女は冗談にしろ、持たざることが強みなら、与えてしまえばよいというのは確かではあるのだよ」
「なるほどな……それは確かに思いつかなんだわ……だが、推測でしかなかろう?」
「……そうだね」
『鼠の耳』のその返答が、ほんの少し遅れていたことに、『聖老』は気づいただろうか。
気づいたとしても、それを不審には思えないではあろうが。
「まあ、今はまだ情報が足りない。それに『計画』についても早急に動く時期ではないのは、『聖老』も承知していたことだろう。眷属も今は動かすのは危険だと思っている。ま、しばらくは、慎重に動くとしよう」
「うむ、異議はない。どのみち、武道会が終わるまで王子には活躍していただかなくてはならぬからな」
「武道会……ああ、君が楽しみにしているというアレか。確かに今王子がお隠れになったら、中止になってしまう。それは避けたいか」
「うむ、ワシの我がままですまぬがな。……調べるのに、わしの『赤』を使うか?」
「いや、いいよ。君のペットが見取り人として優秀なのは知っているけどね。ただ、鼠には鼠のやり方があるし、『こちら側』については眷属のほうが優秀だ」
鼠は、間諜として非常に優れた生き物だ。
臆病で、敏感で、すばしこく、闇に紛れ、ずるがしこい。
一匹は弱くとも、集まりさえすれば自身の数倍の猛獣ですら食い殺す。
また、たとえ一匹であれど、ひとたび牙で傷を与えれば、そこから毒を撒き散らして死に至らしめる。
間諜と暗殺の両方に長けた存在であり――だが、本当の恐ろしさは、「そんなこと」ではない。
天井裏で。床の下で。壁の中で。
炊事場の陰で。倉庫の片隅で。廊下の端で。会議室の真ん中で。
見つかってはあわてて消え、時には見つかってなお堂々とふんぞり返り、見つからなければ見つからないで食事で荒らした痕跡すら隠さない。
誰もがその脅威を知りながら、誰もがその恐ろしさを知りながら、厄介な存在だと知りながら、あきらめたようにその存在を認めてしまう。
噂話が好きなメイド、城庭を散歩するのが好きな老兵、施しや炊きだしに群がる物乞い、小さな騒動を起こしては一晩牢屋で世話になるチンピラ。
噂話からは隠匿されていた事実を、散歩から兵の配置や攻め込みやすい場所を、施しの内容からは領内の財力を、牢の中からは町の暗部を。
それらを毎日のように、いつものように繰り返し、「当たり前」を作り上げる。
メイドが、『たまたま』核心をついた話を求めても。
老兵が、『たまたま』散歩のコースを変えていても。
物乞いが、『たまたま』偽善溢れる貴族から施しを受けても。
チンピラが、『たまたま』大規模事件の下っ端として働いていても。
「そんなこともあるのだろう」と誰も気にしない。
見つからないように動く隠密ではなく、いつでもどこでも現れるからこそ、誰の目からも確認されているがゆえに怪しまれない。
それが、『鼠の耳』の眷属である、『ネズミたち』の怖さであった。
「といったものの、今は相当厳しい状態だけれどね」
そんな「ネズミたち」にとって、もっとも困るのは「駆除」に動かれたときだ。「どこにでもいるネズミ」そのものをターゲットとして警戒されれば、彼らは動くことが難しくなる。
ずるがしこいネズミは、罠の脅威を理解するが故、罠が仕掛けられたことを知れば活動ができないのだ。
まさに、今の王宮内がそれである。
さらに『鼠の耳』いわく
「一番重要な場所の周りには、王子の飼う優秀なメス猫もいるからねえ」
とのことだった。
「ではどうすると?」
「確かに眷属が動くのは厳しい状態だ。だけれど」
鼠の恐ろしさは、前述したとおり、「いつでもどこでも見つかってなお怪しまれない」ことにある。
そして、存在そのものについて「駆除」に動かれると弱いことも、述べたとおりだ。
だが、そんな追い込まれたはずの『鼠の耳』――親鼠は
「けれど、ネズミ捕りにネズミがかかっていても―ーそれだって『当たり前』の光景だろう?」
にやり、と笑った。
その笑みに、『聖老』は体の奥からゾワリとした何かが通り抜けた気がした。
同志としての信頼があり、それでもなお恐ろしさを感じさせるこの男。
人の良さそうな柔和な笑顔と、愚鈍そうな腹を揺らすその姿に、汲み易しと思い込んでどれだけの者たちが破滅していったのか。
『聖老』は、先ほどからこみ上げている震えをかろうじて抑えながら、『鼠の耳』に問うた。
「信用して、よいのだな」
「もちろんだとも、『聖老』」
「その言葉、信じようぞ」
はっきりとしたその返答に、彼の確かな自信と、底知れぬ恐怖を感じた『聖老』は、ゆっくりと頷いて部屋を去っていく。
『鼠の耳』は、そんな『聖老』に敬意を示す別れの礼である、己のへそに右手を当て頭を垂れる形をとって見送る。
部屋に一人残された『鼠の耳』は、それでもまだ顔を上げない。
床に向けられた顔には、さきほどまでと変ることのない笑顔がそこにある。
異なるのは、その笑みの理由だけだ。
顔を上げたとき、彼はやはり顔をかえず、己以外誰もいないはずの部屋で、ただ呟くように告げる。
「予定通り、『餌』を巣穴にもってこい」
わずかに揺らいだ空気が、返答の証だった。
それ以外に、判断するものなど何もない。
だが、それが全てだと理解している『鼠の耳』は、満足げに頷いて、今度こそ本当に独り言として呟く。
「信用していいか、か。もちろんだとも『聖老』よ。君のペットを借りる必要なんて、これっぽっちもない」
変らぬ笑顔で。
捕食者の顔で。
「君のペットの中にすら、私の眷属はいるのだから。……なあ、『赤鼠』」
彼は笑っていたのではない。
自分の周りで踊り続ける全てのものを『嗤って』いたのだ。
彼は、生まれながらにして支配者としての才能に溢れていた。
それは決して、支配者という言葉を悪しに扱った意味ではない。
支配者としての才能。
それはすなわち、人の有能さを見抜き、適切な使い方をする、ということに尽きる。
それは自分自身についても例外ではなく、自分の能力とその利用方法をしっかりと理解していた。
そんな彼だから、王族に弓を引こうと隠者の会に属したのかといえば、それは違う。
支配とは、決して組織のトップになることを意味しない。
命令を聞くものがいようといなかろうと関係ない。
トップが誰であろうとその意思を縛ればそれでよく、手足となるものが命令を聞かないなら自発的に動くようにしてやればよい。
彼は、支配することそのものには喜びを求めても、権力のトップになることを望んだり、金銭を集めて享楽を得たいとも思わない。手段として必要だったから権力を求め、人を利用するのに効率的だったから金銭を集めたに過ぎないのである。
過程がどうであれ、結果的に自分が望む範囲を思うように動かせるもの。
それが支配者である。
それはいわば、遊戯の強者に似ている。
与えられた条件が平等だろうと、相手の意思を読み、誘導し、ゆるぎない勝利を得る。彼は遊戯自体にはそれほど強いわけではなかったが、政略という盤上においてのみ比類なき才を持っていたのである。
己の武力、財力、権力といったものが強さの基準として当たり前の常識であったこの世界の社会において、『情報』というものの強さを己の力のみで気づき、且つ実際に利用していたことそのものが、その裏づけといえよう。
そんな彼の優秀さを最初に気づいたのが、隠者の会において問題に挙げられているアノン王子であったことは、皮肉としか言いようがないだろう。
そんな彼にとって、アノンは初めて出会う『未知』であった。
常識はずれの考え、自分はまったく思いつくことのなかった新しい発想。
1つや2つなら、そういう思いつきをする人もたまにはいるのだ、と納得できる。
だがアノンは、それを尽きることのない泉のように、次々と形にしていく。
『鼠の耳』として、すでに王国の少なくない部分を支配していた彼にとって、そんなアノンには脅威とそして憧憬とを感じざるを得なかった。
そう、憧憬だ。
期待してしまうのだ。
次にアノンは何を生み出してしまうのか、と。
支配者としての本能が、それに反発するのがわかる。
それでもなお、自分はあの方に憧れる。自然に頭を垂れてしまう。
そして垂れたまま、頭の中は怒りでマグマのように煮えたぎる。
頭を下げることに対しての怒りではない。結果が思い通りになるのであれば、膝を折って額を土につけたってかまわない。
これは、自分が本心からの敬意で、礼を尽くすために頭を下げてしまう、そのことそのものに対する怒りなのだ。
だから、隠者の会においてアノンを失脚させようという『聖老』の話に乗ろうと思ったのだ。
自分が、アノンに心から屈するその前に。
もっとも、『聖老』が最後の手段として提案した『お隠れいただく』ということについては、正直乗り気はしていない。
彼を殺すことは、たやすいというわけではないが、不可能ではないだろう。だが、それは排除であって、支配ではない。
なによりそれでは、アノンの力を利用できない。
本当に、最後の最後に考えうる手段だ。
あくまで目指すは、支配である。
鼠の力に震えよ。
『闇の近衛兵』がいようと、ならばそこにすら鼠を紛れ込ませよう。
すべては我が手のひらの上で踊るのだ。
「報告に参りました」
唐突に、部下――眷属である『メス鼠』の声。
いつから思考の海に没頭していたのか、珍しく『鼠の耳』は驚きで目を大きく開いて声の方向を向く。
優秀なメス鼠のことだ。ノックを忘れたということはあるまい。
自分のらしからぬ失態を眷属に見せぬよう、彼はごく自然に笑顔を作る。
「ふむ、ご苦労。……どちらのだい?」
「餌を持ち帰りました。主よ」
なるほど。
どうやら法務官の仕事ではなく、『鼠の耳』としての報告らしい。彼は目を細めると、ほんのわずかに腰を上げ、椅子に深く座りなおす。まるで、それが表と裏の切り替わりの合図であるかというように。
「沈音の魔法は」
「すでに実施済みです」
「よろしい、それでは調査書を」
「こちらになります」
言われ、メス鼠は『鼠の耳』に手にしていた書類の束を渡す。
その光景を、もし他の貴族や大臣たちが見たのならば「なんと無礼な」と声を上げたかもしれない。
報告など、部下が口頭で上司に伝えればよいものであり、位の高い者にわざわざ「読む」などという手間をかけさせるとは何事だ、と。報告の後、最低限の確認だけしてサインをするだけでよいだろうと。
実際、『鼠の耳』はそのように言われたことが何度かあるが、
それでは、情報の意味がないではないか。
そう悪態ついて返すだけだ。
書かれているのは、客観的な事実のみが書かれたそっけない簡素にて簡潔な文章だ。ただ、それが順序良く、膨大に、且つカテゴリごとにまとめられているだけである。
それを読み通すのは、確かに労力を要する。
だが、ほしいのはまさに、そういった飾り気のない事実の羅列である。
他者の推測や考察はたしかに参考になるが、それは事実がまとめられて「次」の段階で考えるべきことである。
それまでは、楽観的な憶測や逆に悲観的な妄想などノイズでしかない。
『鼠の耳』は、黙々とそこに書かれた文章に目を走らせていく。
そして疑問があれば、都度、メス鼠に確認の質問をした。
その繰り返しを延々と続け――
「……やはり、『顎鬚』はなんらかの弱みを与えられたか」
「はい、それが何かまでは、『赤鼠』にも確認できていないとのことです。ですが確かに、ある女性の姿見が記された何かを王子が提示し、『顎鬚』はそれに関する何かを守るため、またなんらかの計画を進行するため、王子に自ら協力を申し出たとのことです」
「ふむ、それは『隠者の会』とは関係ないことは間違いないのだな」
「肯定です」
「ふむ、これについては引き続き調査を続けるしかないか。……そして」
口元が引きつるのを、『鼠の耳』は止めることができなかった。
「本当にいたとはな」
うわさに聞いていたソレ。
存在する可能性は十分にあると思ってたソレ。
しかし、こう改めて存在を知ってしまうと、驚愕と畏怖を感じざるを得ない。
「恐るべき存在だな」
だが――まあ、それだけの話である。
確かにその存在は驚くべきかもしれないが、こうして今「知った」のだから、問題はない。難攻不落であることがわかろうと、それを知っているのと知らないのとではまったく違うのだ。
この件については、また考える必要はあるのだろうが、今は残りの情報について確認すべきだろう。
そして、渡された紙の束は、ついに最後の一枚へとたどり着く。
よどみなく動いていた彼の目が、その中盤あたりで唐突に留まった。
「……はっ」
はじめ、メス鼠は主の発したその音の意味が、理解できなかった。
ため息とも、咳き込んだとも思える、空気の漏れたようなその音の意味を。
しかし、その謎もすぐに氷解する。
「ははっ……ハハハハハ!あはハハハハハ!」
主が笑いを押さえられなかったのだ、という理解の追いつかない答えとともに。
「ある……じ?」
「アハハハハハ!っひいーっくっくくく……アハッハハは……」
『鼠の耳』が腹を抱えて笑う。
普段、笑うといえばただ意味深げに口元を曲げるだけの彼の、そんな貴重なシーンを目の前にして、メス鼠は戸惑うことしかできない。それでも、彼の眷属であることに迷いなどない彼女は、いつ来るやもしれぬ命令に即座に答えるため、不動のまま彼を見据える。 相変わらず爆笑を続ける『鼠の耳』であったが、それも徐々に納まっていき――そして、メス鼠はさらに目を疑わんばかりの光景を見てしまった。
「はは……あはははは……ちくしょう……」
主は、笑い――そして、泣いていたのだ。
「ちくしょう……そうかよ……私のほうが、踊らされている側だったってことか……」
天井を仰ぐ。
それは、まるで溢れる涙をこぼさないための、最後の抵抗であるかのように。
「あの、主。……何があったのですか?」
書かれていた内容については、メス鼠も当然一通り目を通していた。
だから、わからないのだ。
自分が確認したとき、主がこのように狂乱する内容など、書かれてはいなかったはずなのだから。
あるとすれば、そこから導かれる何らかの答え――おそらくは『鼠の耳』にしかわからない何かが、そこにあったのだ。
「ネズミ捕り、なんて怖くなかった」
ぽつりと、『鼠の耳』が呟いた。
その言葉の意味は、メス鼠にもわかる。
ネズミ捕りにネズミがかかるのは「当たり前」の光景である。だから、この男はそれすら利用する手順にて、今回の調査を実施していたのだから。
「まさか、巣穴に持ち込んだ餌が、毒餌だったなんてなあ……そういえば、王子はこの前の『本当の』害獣駆除の案件で、そういう提案をされていたな。ネズミ捕りを仕掛けるのでなく、あえて生かして帰し、毒餌を巣穴に持ち込ませて全滅させる、と。……はは、私がまんまとソレにかかるとは……」
眷属からもたらされた情報。
やはり、そこに何かがあったのだろう。
だが、おかしい。
たとえばそれが、『鼠の耳』の予想をはるかに上回る仕掛けがあり、彼がそれに気づいたとしよう。だが、「その程度」のことならば、きっと彼は「アノン王子が自分を手玉に取った――という情報を手に入れることができた」と、喜んだことだろう。
それが、主であるはずだ。
「情報は、何よりも私の武器だった」
『鼠の耳』が呟く。
「それを集めることが力になると信じていた。そして、そうすることが喜びでも合った」
朗々と。
懺悔の言葉を口にするように。
「初めて知った。……知らなければよかった。そんな情報が、あるだなんて」
そんな言葉とともに、机に突っ伏す『鼠の耳』。
メス鼠は動かない。
命令がないのだから、動けない。
だから、ただそんな主の姿を見つめることしかできない。
「ちくしょう……ちくしょう……あんまりだろうがよ……ううっ」
情報を命として、喜びとして、何よりも大切なものとして扱い、利用してきた男の、心の底からの慟哭。
だが、いくら嘆いても、それはもう取り戻すことのできないことであった。
記憶を失うすべでもない限り、もはやどうしようもない。
情報を全てとして生きてきたその男は、今まさに、その情報によって破滅に導かれたのである。
「負けた。もう私は、アノン王子を支配しようだなんて、二度と思わない。二度と、王子の力に関する情報を集めようだなんてしない」
顔を上げた彼の顔は、ぐしゃぐしゃに濡れている。
みっともなく、だらしなく、なぜか満足そうなその顔は、メス鼠にはまるで叱られた子供のように見えた。
「これより、私はアノン王子の支援に回るぞ。まずは今調査に出している眷属たちを全て巣穴へと戻せ。……我らの力、あの方のために全てをささげるとしようじゃないか」
その言葉はそれまでの『鼠の耳』――支配者であろうとした彼の言葉とは思えぬ、誰かに傅くことをよしとするあり方だ。
言い換えるなら、信念が折られた、敗者の言葉である。
だが、なぜだろうか。
そんな主が、今までよりも大きく、そして誇らしく思えるのは。
「わかりました。我が主よ」
メス鼠は押し寄せている胸の感情に、僅かに声を震わせて、いつもどおりの言葉を返したのだった。
彼女は、このときなぜそんな風に感じたのかを生涯理解にいたることはなかったが――異界の知識を持つアノンであれば、きっとこう教えていただろう。
支配という能力を、自分ではなく誰かのためにささげられるというそのあり方。
それすなわち、王才に匹敵する変え難きもの――「王佐の才」である、と。
次に行われた「賢き隠者の会」にて。
『鼠の耳』が、会からの離反を宣言する。
その言葉を『聖老』に租借させる時間を与えぬまま、彼は続ける。
「ああ、『聖老』。君の計画を漏らすことも、邪魔することもしないよ。……その程度のことで、やられるような方じゃないさ」
驚愕に歪んでいる『聖老』の顔を見据えながら、『鼠の耳』はその鳴き声を止めない。
楽しげに歌う、その声を。
「おっと、そうだった。……最後にこの情報だけは君にプレゼントしておこう」
にたり、と。
あの爬虫類の笑顔を向けて。
「『闇の近衛兵』……本当に、存在していたよ」
そして――赤い何かが、「三つ、了」と呟いた。