第九話 『愚者と賢者の狂想曲 ~幕間~ 』
もし――もし『闇の近衛兵』が存在するとして、己が大切なものを贄とされるとして、最後までそれに立ち向かうのは『顎鬚』だろうと『聖老』は考えていた。
そして最初に堕とされるとするならば、おそらくは『監視者』。
彼女の子煩悩な様子は、月に一度は発症する彼女の子供自慢でいやというほどわかっている。
子供たちに危害が及ぶとなれば、あっさりと降ってしまうのではないかと思う。
それに次ぐのは、孫に甘い自分だ。
息子夫婦ならば、まだ切り捨てられる。
あれは自らが育てた子であり、またその教育においてもフェリス信徒たるものかくあるべしと言い聞かせ、責任を持って成人させたのだから。
自分が立派に育てたという恩を、子は親を超えていくという形で返してくれた。
なれば今は、息子と父親という立場はあれど、今は対等な存在だ。
もちろん、息子のためになら自らの命は惜しくないが、フェリス、王国という自らよりはるかに大いなるもののためになら、法神官にしてフェリスの信徒である自分はその胸に短剣を突き立てるだろう。
だから、たとえ『闇の近衛兵』に息子が狙われ命を散らしたとして、その死が自らに原因があるというなら、その業を背負おう。
きっと息子はそれを恨まず受け入れるはずだ、。
その逆があろうと、当然のことと笑って受け入れられる、自分の自慢の息子だからだ。
だが、孫は違う。
その教育と成長に責任を持つのは親であるべきなのだから。
自分はただ可愛がればよかったのだ。
だから、『監視者』のような溺愛ではないとはいえ、ついつい甘やかしてしまう。
特に初孫は実の子とは別の感慨深さがあるのだ。
厳しく接しているつもりではある。男ならば傷は勲章と、武芸の稽古では容赦なく打ちのめすことなどしょっちゅうだ。
腕白であるべきだとも思うため、一日や二日いなくなったところで、多少気にはかけても慌てふためいたりしない。
結果出来上がったのはお世辞にもできた子ではなく、勉強をサボっては何かをやらかしトラブルを起こす、聖老にため息をつかせるのが得意な子。
だから――だから、可愛い。
きっと自分は、孫のためになら膝を折ってしまうと思う。
提案し、皆を煽った者として不甲斐なく、不義理であることは承知であるが、それでも。
正確には、その場にならないと実際自分がどのような選択をするかはわからない。
屈するだろうと推測はしても、実際に「そう」となってから始めて自分の非常さがでるかもしれないし、やはり甘さという感情には負けるのかもしれない。
そう――わからないからこそ、怖いのだ。
どちらの選択でも、自分は後悔するのだろうから。
『聖老』はそこまで思考を巡らせたあと、嘆息を付きながら「そういえば自分は何を考えていたのだったか」と自問し、その答えに気づいて「ああ」と声を上げる。
そうそう、志が折れるとすればどの順か、という考察だ。そんな考えをしている時点で自分は折れているようなものではあるのだろうが、それでも考えずには居られない。答えのなき考察は恐怖を加速させ、心を蝕むと知ってなお、考えるのがやめられないのが人間である。その悪循環を、聖老は「自分が折れたとき誰に託すかを決めるため」というとってつけた理由を挙げて軽減させるが、所詮は気休めだろう。
彼はそんな自分の精神の脆さと、すぐに思考が別のほうに飛んでしまう集中力の脆さに自らの老いを嘆きつつ、再び思考を開始した。
そう、折れるとすれば、『監視者』、そして『聖老』の自分。
『鼠の耳』は正直わからない。一番利己的で、一番論理的に考える彼は、逆に言えばロジックに従うわかりやすい思考を持つはずである。だが、同時に何を考えているかがさっぱり見えないことが、彼には多い。多すぎるといっていい。
とはいえ、それが情報量の差からくるものとすればそれまでだ。
よって、単純に折れるだけの理由となる情報が入れば折れ、そうでなければ現状維持となると考えられる。
彼にも、「私」において「公」より優先すべき守るべきものはあるのだろうから。
そして、『顎鬚』だ。
彼は、折れないだろう。
とはいえ彼にあらゆる誘惑や苦難を耐える鋼の精神力があるか、と聞かれれば、否、だ。
決して凡人の器ではなく、将に将たるだけの能力は持っており、行動第一のモットーを持ちえど考えることを怠る蛮人ではないが、それでも「普通に優秀な人間」でしかないのである。
単に武人としてみれば傑物といえるだろうが、それ以外では前述の評価が正しいだろう。
ではなぜ聖老が彼を託すべき者として候補に挙げているかといえば、その理由はひとつ。
彼には、失うべきものが、居ないのである。
彼に妻子はいない。
失ったわけではない。初めからいないのだ。
決して異性に興味がないとか、男色というわけでもない(もっとも軍ではそのような性癖がなくとも男を相手にすることは珍しくないのだが)。
休日には普通に娼館に繰り出すし、彼がアプローチをかけた者も、またその逆も居なかったわけでもない。
ただ、優先度が高くなかったのだ。
縁がなかったといえばそれまでだが、将として、武人としての行き方しかできない不器用な男の悲しさがそこにはあった。
現在、多少であれば気心の知れた女人もいるが、だからといって彼女たちがどのような目にあおうとそれを無視できる程度には、彼は将として正しく薄情であり、また己の信念に準じていた。
また、彼には友人は多くいた。親友といえるものも、だ。
だがそのほとんどは戦友であり、多くが散り、残った僅かな者たちも顎鬚と同じような精神の持ち主である。
相手が拷問されたとしても、お互いがお互いを「見捨てられる」だけの信頼と強さがあったのだ。
彼の家族である部下には、そもそも「命を惜しむな」を地で行く教育をしている。
では、立場や身分、金銭での懐柔、またはその逆の恫喝はといえば――考えるまでもない。
そんなもののための保身など、彼奴が選ぶはずもない。最下民へ落とすと脅されても、笑って落ちぶれてみせることだろう。
そういった彼のあり方を、聖老はよく知っている。
今、彼には「私」において何一つ守るべきものがないからこそ、「公」としてこの国のあり方を守ろうとしている。
ゆえに、彼が最後まで折れない者だ。
聖老はそう確信していた。
何か自分にあれば意思を託すものとして、聖老は顎鬚を信頼していたのである。
ある日、『監視者』が『隠者の会』にて「折れた」宣言を行い、残る三人に衝撃が走る。
当然、彼女への問い詰めは行われたが彼女はしばらく何も発しなかった。そして小さく「子供たちが……」とつぶやいた時、三人は「まさか」と驚愕しつつ、そして同時に「その結論」にいたり、それ以上の追求は行わなかった。行えなかったのだ。
そして彼女は続ける。
「自分は、お前たちを裏切らない。この会のこと、そしてこの会で私が知ったことを誰かに漏らすことは決してない。……だが、今はこれ以上、この会に関われない」
『今は』という部分を微妙に強く言っていたように聞こえたのは、耳が遠くなりつつある『聖老』の気のせいだったろうか。
もしそれが気のせいでないとすれば――それは、『監視者』が自分たちに送ろうとしているギリギリのメッセージなのではないだろうか。
だが、そう思案する『聖老』に答えは出ない。
そうこうするうちに、『監視者』を半ば罵倒し、だがそれでも彼女を責め切れないのか、『顎鬚』は肩をいからせて部屋を出て行く。
それを宥める様に、『鼠の耳』が追った。
部屋に残った二人。
『聖老』は、意を決して危険な領域に、それでも大丈夫だと思えるラインに踏み込むことにする。
それを聞かなければ、今後への心構えをすることすらできなさそうだったからだ。
「なあ、『監視者』よ。そして子煩悩な『母』たるおぬしよ。……次は、やはりワシなのだろうか?」
その質問に、『監視者』は一瞬だけ驚愕したように体を震わせ、そして四つの腕をだらんと力なく垂らしながら立ち上がった。
そして、虚ろな、それでいて確実な理性のこもった目を『聖老』に向けて、
「……『聖老』、お前が聞きたいのがなんのことかわからない。何も知らないはずの私に、わかるわけがない。そうだろう? だから答えることはできないが……ただ意味もなく、なんとなく『誰か』を挙げろというのなら」
言葉を切り、
「次は――の可能性が高いと見るよ」
なお次話は今日中の朝7時に投下