第八話 『愚者と賢者の狂想曲 ~監視者~ 』
初めてその話を聞いたとき、取るに足らない噂だと、『聖老』は白い眉を動かしながら唇を歪めた。
そんな噂におびえる者たちを笑ったのだ。
『裏の機関』は、確かに存在する。
国の重鎮である自分は、国の暗部といえるさまざまな機関があることを知っている。
それはたとえば、近隣諸国の情報を探るための諜報部隊であったり、逆に王国に侵入した諜報員をとらえた際の、情報収集のための拷問部隊であったり、戦争が起きていないため長らく使われていないが敵国の要人に対する暗殺部隊などがそれである。
ただそれらは、「暗部」とはいえ、言ってみればどの国でも「存在して当然の組織」でもある。
もちろん対外的には存在しないことになっているし、もしどこかの国にその存在を問われたとしても「んんー?何のことかな?」としたり顔で堂々とすっとぼければよいだけだ。
そして『聖老』は、それを咎めようとは思わない。
清廉潔白、正々堂々。
確かに民や、一部の「正義」のプライドに凝り固まった貴族はそれを重視するかもしれない。
『聖老』もそれらが「あったことにこしたことはない」とは思っている。
事実、彼が準じているフェリスは教えとしてそういうことを賞賛しているのだし、それらを尊び、実践する者たちを好ましくも思う。
だが、それでもなお、それに固執し目的を見失うことを愚かだとも思っている。
実際、「愚」の集である民ならそれでいいのだろう。理想という枷に死んでいく一部の貴族も似たようなものだ。
だが、自分はこの王国の重鎮であり、そんな「愚」である民を愛し、フェリスと王家に傅く者として、結果に責任を持っているのだ。
なれば、清濁を併せ持たなければならぬ。
でなければ、守れない。
王国と、フェリスを守れない。
人が進むべき道を守れない。
悪から、不条理から、神に見放された者からの侵略から守れない。
それを自らの使命と、努力する彼のありようは、後の「帝国」以降の者たちには歪んだものに見えるかもしれないが、それは時代による価値観の違いであるとしか言いようがない。
彼は、『聖老』という称号の文字にあるような「聖」では決してないが――それでもこの時代特有の価値観を除けば、善人に近しいものではあったのだ。
そんな彼の「会議」での提案は、身の破滅を覚悟したものであったことからも、決して目先の欲望のためでないことは疑いようがない。
そう――身の破滅、は構わない。
だが、そこに親愛なる者たちを巻き込む覚悟はと言われると――「会」の出席者たちでは、自分と――そして「彼女」も持っては居ないだろう。
『闇の近衛兵』
王子に害をなそうとする者たちを、様々な形で恐怖させ、従わせるという都市伝説――王宮伝説ともいうべきその存在。
当事者の抹殺だけではなく、当事者にとって最も大事な存在を家族を、親友を、恋人を貶め、勾引かし、傀儡とすることで脅迫し、どれほど屈強なものであろうと従えるという。
それは、確かに噂に過ぎない。
あの「お優しい」王子がそのような形で首謀者以外の無関係なものを処断するとは到底思えない。
だが同時に、否定しきることもできないのが現状だった。
それほどまでに、反乱分子たちの心移りが多いのである。
あの『鼠の耳』ですら正体が掴めていないということが、そもそも存在しないからなのか、それほどまでに隠蔽された組織だからなのか――。
ばかばかしい。
「ない」ことの証明など、できるわけがない。
ならば――存在しないのである。
だから『賢しき隠者の会』の会議にて、再びその噂を「鼠の耳」から聞いたとき、情報の多さが返って虚像を作り上げて迷走するという、『鼠の耳』特有の失態が起きたかと思った。
故に、『聖老』は笑った。
取るに足らない噂だと、『聖老』は白い眉を動かしながら唇を歪めた。
そんな噂に「怯える者たち」をわらった。
「ああ、そうか。……わしも、その一人かよ」
――自嘲ったのだ。
その日、僅かながら機嫌がよかった『監視者』は、子供たちへお菓子のお土産を「下」の右手に持ちながら、一週間ぶりの自宅への道を急いでいた。
最近は「亜人」に対する王子の提案関連と、それを支持する大多数の貴族、法官たちに頭を痛め、むっすりとした毎日だっただけに、僅かとはいえその顕著に見える。
なんのことはない。
八つ当たり気味にいつも以上に黙々と「監視」を実施していたら、とある悪辣貴族の不正を発見したのである。
計上された帳簿を、新式の帳簿管理法にて再度計算してみたら、明らかな数値のずれが発見された。
人間であるにもかかわらず、肥えきった豚鼻族と粗雑で滑舌の悪い蛇尾族を足して割ったようなあの男が、よくもまあ今までごまかし続けたものだと、ある意味見直してしまうくらいに、それは巧妙に作られていたのだが、今回の調査でそれらをことごとく発見することができたのだ。
今回のことを抜きにしても、以前より嫌悪の対象としかならないような言動を繰り返していた男であり、 そのような者を廃絶できたこと、また不正分の財産を差し押さえ国庫に入れることができたことは、胸のすく思いであった。
まあ、不正発覚のために使った新帳簿管理法が、王子の知恵から生まれた複式簿記と呼ばれる記載法だったことは、少し思うところがないわけではない。
しかし、有益なものは有益と認めるべきであり、心の中はどうであれ人や物の評価は公平であるべきだというのが、『監視者』である彼女の信念でもあった。
自分は正義の人である。
それが、彼女の持つ心の主柱であった。
たとえば彼女は決して差別をしない。
それを、フェリスと自分の誇りと愛する子供たちに掛けて彼女は誓うことができる。
神に祝福された者も、神に見放された者も、公平にルールを用いるだけである。
ただ、フェリスの教えによって培われた社会の価値観――「ルール」事態が「祝福された者」と「見放された者」で不公平にできているだけなのだ。
だから、彼女のするそれは「区別」であり、決して「差別」ではない。
ゆえに、「見放された者」を不必要に、しかも己の愉悦のために痛めつけるような輩には虫唾が走るし、また同時に「躾」はきっちりしなければならないとも思うのだ。
彼女を『聖老』が評価すれば、それは「理想に死んでいく一部の貴族」、すなわち「愚」の領域に入る人物だろう。
泥をかぶることを嫌い、正しく堂々とすることを尊ぶそのありようは、だがしかし、『聖老』の信念と相反するわけでもない
彼女は、汚泥をかぶることは嫌いであるが――覚悟はしているのだ。
でなければ、『聖老』はあの場で「影なる看取り人」についての提案を決してすることはなかっただろう。
『聖老』と『監視者』の信念の違い。
それは、自らの行いを悪と自覚しつつも自ら信じる正義のために目をつむるか、自ら信じる正義のための行いはすべて正義なのだと目を見開いて叫ぶのか、それだけである。
『聖老』は前者で『監視者』は後者。
どちらが「良い」のかどちらが「悪い」のかはきっとフェリスにもわからないだろう。
ただまあ、両方とも「たちが悪い」ことには違いがないだろうが。
とまれ、その日一つの不正を発見できたことは、彼女には喜ばしいことであり、幾分か心に余裕が生じた彼女は子供たちへの菓子を購入。
きっと、これを見て喜ぶ息子と娘の笑顔を見れば、さらに気分は良くなると、そんな未来も予想して。
過去に患った病により子供の為せない自分が、こんなにも子煩悩になるとは夢にも思わなかった。
以前は子供などはうるさいだけの存在だと毛嫌いしていたというのに、何の因果かあの二人、四腕の男の子と人間の女の子を引き取ることになり、ぐちぐち文句を言いながら子育てに悪戦苦闘。夜泣きする子らに、なぜおまえらは「人」なのに言葉が通じぬのだと、無茶なことを思う。怒りにまかせて右上の腕――四腕にとって「上の利き手」は感情で無意識に動く最たる利き手である――を振り上げては、それでも唇を噛んでそれを振り下ろすことを耐えた。
それでも、いつか自分には限界が来る。
いつか、この二人を殺め、そして自戒で自ら命を絶ちかねない。
そう思う毎日を繰り返して――
「まぁまぁ」
「まうむぁー」
心臓を貫かれた。
そうとしか言えない衝撃だった。
あの煩わしい悪魔たちが、「言葉」として初めて口から発したのが、自分を『母』と呼ぶ音。
それだけだ。
それだけで、あらゆるものが逆転した。
「なんだこれ」
と。
そのとき彼女は自分がらしからぬ口調でそう呟いたことを、今でも鮮明に思い出せる。
何がなにやらわからないまま、再度子供たちをみれば、そこには天使がいたのだ。
姿は何一つ変わらないのに、自分は、二人をそうとしか見ることができなかった。
「まぁー」
「むぁみゅー」
先ほどよりさらにつたないのに、それが自分を母と呼んでるのだと、彼女ははっきりとわかった。
気づけば、彼女は眼から溢れ出るそれを留めることなく、嗚咽を繰り返しながら、二人を抱きしめる。
むぃー、きゅあー、と、今度こそまったく意味のない声にもかかわらず、それが愛しくてたまらない。
自分は母だ。
この子らの母なのだ。
そう誰かに叫びたくて仕方なかった。
自慢したくて仕方なかった。
そして――
「うちの息子と娘がな!私を母と呼んでな!ふふふ、まだあんなにも幼いのにもうしゃべれるとは、さすが我が子たちと言わざるを得ない!」
彼女は翌日、実際に自慢を開始した。
親バカ誕生の瞬間である。
二人が赤子のときはその感情の爆発に付き合うことがうれしく、成長して幼子になってからは教育を施すことがうれしかった。
もう少し成長してからは――
自分は正義の味方。
誇り高く、かっこよく、いつだって正しい。
そんな存在として、子供たちの尊敬のまなざしを受けることが喜びとなった。
実際、子供たちも母である彼女をそういう存在だと心から思い、慕ったのだ。
「ふふふ、今日はこの菓子と一緒に、あの男の不正を暴いた私の活躍でも語るとするか」
『監視者』は、菓子が箱の中で形を崩すことのないように、十分に注意をしながら、足を速める。
歩を進める街道の両脇に連なる奇妙な柱からは、『監視者』を街の奥へと導くように淡い光が揺らめいていている。
埋め込まれた魔力水を元に、「芯」となる魔球が決められた時間消えることのない疑似炎を生み出してあたりを照らすこの「街灯」もまた、王子の知恵と「見放された者」の技術によって生まれたものであるが――今はその光が『監視者』にはありがたい。
設置に対しては予算の問題などでひと悶着はあったが、出来上がってしまえばその利便性は計り知れなく、また犯罪の大幅な減少から治安の安定、そこからの税収の増加からは投資額をすでに改修済みだった。
今もまた、『監視者』の向かいからはランプも持たずに安心して荷物を運んでいる馬車がやってきているし、またその後ろからは自分と同じように独り者の誰かがすれ違って――
「――」
そこに、本来意味はなかった。
なんとなくの違和感。
なんとなくの予兆。
その程度のものでしかない。
ただ、「なんとなく」を確かに感じたのだ。
だから、『監視者』は、振り返った。
「……?」
そこにあるのは、ごとごとと音をたてて進んでいく、荷馬車の後ろ姿だけ。
「私は今、誰かとすれ違った……のか?」
口に出すことで確認しようとしたにも関わらず、出てきたのは疑問の言葉だ。
それくらい、それは存在が希薄だったのだ。
気のせいか、と思えてしまうほどに。
気のせいだ、としか結論づけられないほどに。
ならば――それは気のせいに違いない。
肩をすくめ、『監視者』は再び帰路を進む。
もし、それが武官である『顎鬚』であれば、己の直観を信じ「誰か」を捜索したかもしれない。そうであれば、たとえその「誰か」が発見できずとも、痕跡は見つけたられたのたかもしれない。
だが、そこにいたのは『監視者』だった。
自らが、そして自らの大切なものが監視される側になるとは思いもしない、『監視者』だった。
それだけのことである。
揺らり、ゆらりと『闇』が躍る。
街灯の光から逃れるように。
その光により新たな闇が生まれたことを、喜ぶように。
どこかの部屋の、赤い炎のように、ゆらゆらと。
「笑う」ように誰かが「嗤う」。
帰宅した彼女が、子供たちの有り様に絶望するその瞬間を、嬉しそうに嘲笑う。
そして翌週――
『監視者』は、『賢しき隠者の会』からの脱退を宣言した。
部屋にいた『誰か』が、「一つ、了」と呟いた。




