第一話 『自由帝国』
なんだこれは――。
まだ朝日が差しきらない、わずかに赤く染まった平原に、蠢き轟くは人の群れ。
全員が、重厚な装備に身を包むか、あるいは無駄をそぎ落とした最小限の荷物だけを持ち、静かに控えている。ある者は地図を開いて作戦を確認し、ある者は装備を入念に点検し、またある者は目を閉じて体力の消耗を抑えていた。
その光景を初めて目にしたグニラダは、一瞬でも気を抜けば自分が肉体ごと飲み込まれそうな恐怖に震え、身を硬くした。
彼ら――あるいは彼女らの行動は、方向性こそ違えど、すべてこれからの激戦を勝利の雄叫びで迎えることだけを目的としている。それが、ひしひしと伝わってくる。
話には聞いていた。事前知識も確かにあった。だから、いま眼前に広がるこの光景は、予想されたもののはずだった。
だが、彼は心のどこかで、それを「ありえない」と軽んじていた。その結果、目の前の現実に驚愕することになった。
「何万――いや、何十万人いるんだ!?」
思わず口をついて出たグニラダの悲鳴のような疑問に、すぐ横から低く落ち着いた声が答える。
「約20万ほどですな、グニラダ大使殿」
グニラダが振り返ると、そこにはアフェバイラ帝国第四歩兵団の副団長、ザックバンが立っていた。
「20万……ですか。それが、全体の一部だと?ザックバン殿」
「然り」
グニラダの再確認に、ザックバンが静かに頷く。彼は海を越えた隣国からの大使であるグニラダの案内役を務めていた。
武官としても文官としても優れ、護衛としての役割を完璧にこなしつつ、グニラダの質問に的確に応える知性を発揮する。その無骨ながら礼節に満ちた佇まいに、グニラダも好感を抱かずにはいられなかった。
だからこそ、ザックバンの言葉には誇張も虚飾もなく、真実だけがあることを認めざるを得ない。
事実、彼らが立つ平原の監視塔から見える光景は、その数字が本物であることを裏付けていた。
「全体の数は、教えていただけますか?」
「現在、神殿を挟んだ反対側の平原にも、ほぼ同数が待機しております。また、神殿内部では15万が、聖戦に向けた物資の準備を進めております」
くらり、と気を失いそうな数字がグニラダの耳に届く。
「そして、それらすべてを三日間で決着させる、と?」
「その通り。我々はこれまで幾度も繰り返してきたように、今回の聖戦でも輝かしい戦果を挙げ、喜びを分かち合うでしょう」
ザックバンは、珍しく感情のこもった瞳で平原の兵士たちを見つめ、誇らしげに言った。
聖戦――彼らがそう呼ぶ戦いが、「聖なるもの」とは程遠いことは、彼ら自身も承知しているだろう。その先にあるのは、栄光、欲望、自己満足――俗と呼ばれるものだ。
だが、だからこそ彼らはそれを尊ぶ。国家すらそれを認め、保障する。
その結果、アフェバイラ帝国は、さまざまな異名で世界中から呼ばれることになった。
最後の楽園、蛮族集落国、混沌の夜明け――。その中でも、特に多く使われる名が二つある。
一つは、『堕落帝国』。
大陸全土に広がるフェリス教の総本山『フェリス法国』が、アフェバイラを公式に呼ぶ名称だ。それは、フェリス教に信心深い者たちが使うことを意味し、教の影響が強い大陸西側六割の人々もまた、この名を口にする。アフェバイラという国名を避け、国家として認めない意思表示でもある。
そして、もう一つが――。
「これが……自由帝国の力か」
グニラダの呟きは小さく、隣に立つザックバンにも届かず、明け方の冷たい空気に溶けた。
アフェバイラ帝国――通称『自由帝国アフェバイラ』。
国王であり教王として君臨する唯一の帝王の支配下にありながら、『自由』の名を掲げる国。その発端は、大陸中心から北北東に位置する小さな国だった。
フェリス教が「神に許された亜人」と認める四腕族。長命種としても知られる彼らが治める国の第三王子。彼の手腕は奇跡とも呼べる数々の功績を生み、その伝説は虚実入り混じって語り継がれる。
わずか200年で国を、文化を、世界を変え、常識を覆し、ついにはこの『アフェバイラ』を建国した。その知性は、多くの賢者たちが後世に讃えた。
帝王没後、ある高名な歴史研究家が記した研究書には、こう書かれている。
「最終的に大陸全土を支配した自由帝国。その初代帝王は、あらゆる分野で驚くべき功績を残した。しかし、その多くは天才的な知能を必要とするものではなく、むしろ凡人にも理解可能な発想の転換や発見だった。それらは、小さな思い付きや荒唐無稽な願望に近いものだった。だが、彼の脅威は、それを月に一度、多い時には週に三度も生み出したことにある。人知を超える柔軟な思考力と発想力。それは、現在の道具や概念、社会システムのほぼすべてが彼の発案に由来するという事実からも明らかだ。その知性は、彼が持つ『あの力』と比べても決して劣らないと、私は名をかけて結論づける」
彼の思考は常人の理解を超えていたが、その信念だけは誰もが知っていた。それは国民の共通の理念として根付いている。
「我々は自由を愛し、その自由を守る努力を惜しまぬことを、自らの責任とする」
それだけだった。
すべての自由が許されるわけではない。法があり、社会を保つ規約があり、税や労働の義務がある。人を害することは許されない。
だが、心を縛らない。考え方を縛らない。価値観を縛らない。
その結果、どうなったか――。
50年で数世紀分の発展を遂げた文化革命、産業革命、意識革命。フェリス教に「悪」と断罪され、大陸の端に追いやられた土着宗教や精霊信仰の民から熱烈な支持を受け、さらには「神に見放された者」とされる亜人の集落とも躊躇なく講和を結び、大陸北東を統治するのに50年。アフェバイラ帝国の建国と、首都『アフェバイラ』を基盤とした内政の確立にさらに50年。
最後の50年間、建国一年目にフェリス教から「交流」として祝福と賛辞が送られた。だが、それは実質的な属国化の要求だった。フェリスを国教とする法整備、財務義務、「禁忌」とされる亜人の財産没収と隷属化、浄財と称した寄付、『使徒軍』への参加義務――。
当時の大陸では、これが「国」の常識だった。どの国も、ある程度は条件を受け入れるしかなかった。教団に逆らえば、軍事衝突だけでなく、「異端者」や「神敵者」の認定が待っている。
「異端」とは、「神に見放された者」と同等とされ、神の加護を失うことを意味する。「神敵者」はさらに過激で、神に敵対し世界を貶める「世界の敵」とされる。教団の歴史800年で、神敵者に認定されたのはわずか二名。認定された者、その関係者は、一族郎党が「浄化」――拷問と火あぶりに処された。その数は、数千とも数万とも。
『使徒軍』は強大だが、軍備があれば対抗可能だ。だが、「異端」認定は民の支持を失い、軍の士気を下げ、別の権力者が「フェリスの敵を討つ」と攻め込む口実を与える。何より、「神に見放される」恐怖が人々を縛った。
冷静な者たちは、「異端認定」が司祭たちの権力争いや欲望による脅迫だと理解していた。だが、民の多くはそうではない。「神に見放された者」とされる禁忌を、感じずにはいられなかった。
だから、国教化は最低限の前提だった。金、物資、人――各国はそれぞれの形で教団に貢いできた。
だが、帝王は――。
「全てを拒否する」
フェリス教の使者に、迷いなくそう告げた。
「我が国は自由を愛する国。国教は必要ない。それは個人が自らの意思で選ぶものだ。我々はすべての神を認め、フェリスの布教も自由とする。だが、我が国の法を厳守することが条件だ。財務については、国家間の『協力』としてならば、善意と友好の証として援助を検討する。亜人?論外だ。我が国の建国は、『神に見放された者』たちの協力、犠牲、善意によって成り立っている。差別はしないと宣言している。知らぬとは言わせん。使徒軍?我が国は国民皆兵だ。協力が必要なら、状況次第で考える」
要するに、「ルールを守るなら活動してもいいが、命令は受けない。協力なら検討する」というものだ。
極めてまっとうな主張だった。フェリス教も建前上は「対等な関係」と「善意の友好」を謳う。祝福や賛辞はその証だ。だが、今まで暗黙の脅迫で支配してきた彼らは、明確な拒否に激高した。
何度か「異端認定」をちらつかせた交渉――脅迫が続いた。だが、帝王はすべてを無視し、「好きにすればいい」と突き放した。そして、爆弾発言を放つ。
「問おう。『異端認定』するのは、フェリスか?人か?」
使者は答えられなかった。
異端認定は法王が行う。彼はフェリスの最高権力者であり、信仰の象徴だが――人だ。開祖フェリスを除き、「神に祝福された者」「神に許された亜人」はみな神の子であり、人である。それは聖典に明記された事実。
フェリスと答えれば聖典に背く。人と答えれば、異端が政治的な決め事にすぎないと認めることになる。聖典には、そもそも「異端」の概念が存在しないのだ。
このエピソードは瞬く間にアフェバイラと周辺国に広まった。それは、教団に属さない多くのフェリス教徒の支持へと繋がった。帝王の治世と魅力に惹かれながら、「異端」の恐怖に縛られていた者たちが、踏ん切りをつけたのだ。
ついに教団は正式に異端認定し、軍事的侵攻を試みた。だが、すべてアフェバイラ軍の圧勝に終わった。
大きな被害を受けた使徒軍は戦闘を控え、アフェバイラを「堕落国家」と呼び、国交を断絶。大陸中央の山脈を挟み、西と北東の対立が生まれた。
南東部の諸国連合は、フェリスに敵対する決断もできず、アフェバイラの利益も捨てきれず、結論を先延ばししながらアフェバイラと国交を結んだ。この関係は、フェリスとアフェバイラ双方に利点をもたらした。
最大の勢力――商人たちが、思想や信仰を超えて信頼と金を優先し、両者と取引したからだ。アフェバイラから南東部、フェリス法国、西部の属国へと、双方向の流通が生まれた。
それでも、新たにどちらかに与しようとする国は現れ、グニラダのように海を越えた隣国からの視察も増えた。
こうして、大陸最大の国家であり、フェリス教の支配から唯一離れた国が生まれた。
面白いことに、アフェバイラはフェリス教から断罪されながら、国内にはフェリス教の教会とその組織が存在する。
『自由帝国』は、すべての価値観を許容する宣言の通りに。