第32話「5分間の賭け・前編」
【第5刻限】残り13日4時間 ─ 刻印課題:深淵の牙を無力化せよ
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死の匂いがした。
朝霧が城門を包んでいる。
白い靄の向こうから、足音が近づいてくる。
複数。だが、その中に一つだけ、異質な気配があった。
獣の匂い。
いや、違う。
血の匂いだ。
何百、何千という命を奪ってきた者だけが纏う、死の残り香。
霧を裂いて、一人の男が姿を現した。
藍黒の髪が朝風に揺れる。
氷青の瞳が、真っ直ぐにレイスを捉えた。
その眼光は、研ぎ澄まされた刃のように鋭い。
「待ったぜ」
低く、しかし明瞭な声。
ザフィル・オンジュ。
「深淵の牙」の二つ名を持つ剣鬼が、刃のような笑みを浮かべていた。
背後には二人の影。
副官のアルスランと、斥候のジャミル。
どちらも油断なく周囲を警戒している。
「さあ、やろうか」
ザフィルの手が、腰の剣に触れた。
それだけで、空気が変わる。
城門前に布陣していた兵たちの間に、動揺が走った。
(……来た)
レイスは一歩も動かない。
動けない、のではない。
動く必要がない。
(動く必要がない、って自分に言い聞かせてる。足が震えてるだけ)
真紅の瞳が、ザフィルを見据える。
漆黒のコートの裾が、朝風に僅かに揺れた。
城門前には、カディル、バラカ、メルヴェ、フィーネが布陣している。
その後ろには、選りすぐりの兵士が50名。
だが、この場にいる全員が理解していた。
数は、意味をなさない。
相手は、そういう次元の存在だ。
バラカが前に出た。
獅子の傭兵と呼ばれた男。
褐色のたてがみが朝日を浴びて金色に輝く。
分厚い胸板が、鎧の下で隆起した。
「俺が行く」
低い咆哮のような声。
巨大な戦斧を肩に担ぎ、大地を踏みしめる。
その足元の石畳が、僅かに沈んだ。
カディルも剣を抜いた。
白刃が朝日を反射し、一瞬だけ目を灼く光を放つ。
「私もいくぞ」
鉄灰色の鎧が軋む音。
琥珀色の瞳に、覚悟の炎が宿っている。
二人が同時に踏み込んだ。
バラカの戦斧が弧を描く。
風を切る音。重い。
人間の腕なら、触れただけで千切れ飛ぶ一撃。
カディルの剣が閃く。
銀の軌跡。速い。
常人の目には、光の線にしか見えない斬撃。
二つの攻撃が、同時にザフィルに迫る。
だが。
ザフィルは動かなかった。
いや──動いたのだ。
誰にも見えなかっただけで。
鈍い音。
二人の身体が、紙くずのように吹き飛んだ。
「……っ!」
「ぐっ……!」
バラカの巨体が宙を舞う。
200キロを超える筋肉と鎧が、木の葉のように弾き飛ばされた。
カディルは咄嗟に受け身を取ったが、それでも3回転した。
石畳を削りながら、ようやく止まる。
口の中に血の味が広がった。
内臓が揺さぶられた衝撃。
一撃で、だ。
バラカが身を起こす。
琥珀色の瞳が、信じられないものを見る目で歪んでいた。
「……化け物か、こいつは」
カディルが立ち上がりながら、自分の剣を見つめた。
刃こぼれしている。
それも、一箇所ではない。
剣全体に、無数の亀裂が走っていた。
「剣が、弾かれた……!」
斬った。
確かに当たった。
手応えはあった。
だが、それは──岩を殴ったような、いや、それ以上の硬さだった。
(物理耐性……ゲームで見た通りだ)
レイスは冷静に分析する。
ザフィルの闘気は、あらゆる物理攻撃を無効化に近い形で減衰させる。
ゲームでは「鋼鉄の肉体」と呼ばれていたスキル。
鍛え上げた剣士が、素手で攻城兵器の一撃を受け止めるような理不尽。
通常の攻撃では、傷ひとつつけられない。
(攻略サイトには「魔法で削れ」って書いてあったけど……メルヴェとザフィルがぶつかったら、城ごと吹き飛ぶ)
ザフィルが一歩、前に出た。
それだけで、兵士たちが後ずさる。
本能だ。
死の気配を感じ取った獣が、捕食者から逃げようとする反射。
(……足、動かない)
レイスの身体もまた、本能に縛られていた。
「どけ」
ザフィルは、城門を見ていた。
その瞳に、レイスたちは映っていない。
ただの障害物。
踏み越えるだけの、取るに足らないもの。
一言だけ告げて、剣を振るった。
銀光が閃く。
轟音。
城門が──半壊した。
巨大な木材が、紙のように引き裂かれる。
厚さ30センチの鉄板が、飴細工のように歪む。
石積みの門柱にまで亀裂が走り、瓦礫が崩れ落ちた。
砂塵が舞い上がる。
土と鉄と、焼けた木の匂い。
まるで、攻城戦の真っ最中にいるような光景だった。
(……冗談でしょ)
レイスの背筋を、冷たいものが這い上がる。
一撃。
たった一振りの剣で、城門を半壊させた。
これが、カラハン魔王国最強と呼ばれる男の実力。
(このまま暴れられたら──)
刻限が詰む。
いや、刻限どころではない。
城が、領地が、全て灰になる。
「深淵の牙を無力化せよ」という課題。
だが、このままでは無力化どころか、こちらが壊滅する。
レイスは声を張った。
「待て」
声が響く。
朝霧を切り裂くような、凛とした声音。
ザフィルの足が止まった。
(あの夜の約束だ。『お前を退屈させない』──それを使う)
「約束を忘れたか」
「あ?」
振り返った氷青の瞳が、レイスを射抜く。
凍りつくような眼光。
常人なら、その視線だけで心臓が止まるかもしれない。
だがレイスは──微笑んですらいた。
(怖い怖い怖い怖い。でも、ここで引いたら終わり)
内心は悲鳴を上げている。
だが、表情は完璧に制御されていた。
若き領主の仮面。
社畜時代に鍛え上げた、鉄のポーカーフェイス。
「5分間、楽しませてやる」
沈黙が落ちた。
朝風が止まる。
鳥の囀りすら、遠くなったように感じる。
ザフィルの口元が、ゆっくりと歪んだ。
あの夜の約束。
「お前を退屈させない」と言った、あの言葉を覚えていたか。
「……ほう。忘れてなかったか」
氷青の瞳に、微かな光が宿る。
それは、好奇心だった。
長い間、忘れていた感情。
剣を鞘に戻し、腕を組んだ。
「いいだろう。見せてみろ」
───
「フィーネ……」
「はい」
金髪のエルフが、ゆるりと前に出た。
朝日を浴びて、その髪が黄金に輝く。
白い肌。細い手足。
一見すると、戦場には似つかわしくない、繊細な姿。
だがその蒼穹の瞳には、決意の炎が燃えていた。
フィーネは両手を胸の前で組んだ。
瞳を閉じる。
深く、長い呼吸。
そして──古代語を紡ぎ始めた。
「大地よ、汝の抱擁を強めよ」
声が変わった。
澄んだ音色。
だが、それは人間の声ではなかった。
世界そのものが、彼女を通して語っているような響き。
空気が震える。
周囲の魔力が、フィーネを中心に渦を巻き始めた。
見える者には見えた。
淡い光の粒子が、彼女の周囲を螺旋状に舞い上がっていく。
白と金と、僅かに蒼い輝き。
「カーヴェド・ハ・オラム」
「天と地の間に、我が定めた鎖を」
刹那。
世界が、軋んだ。
ザフィルの身体が、大地に引きずり込まれた。
「──ッ!?」
膝が折れる。
鋼のような脚が、地面に押し付けられる。
まるで、見えない巨人の手に掴まれたかのように。
「なん、だと……!」
初めて、剣鬼の顔に驚愕が浮かんだ。
何が起きているのか、理解できていない。
ただ、身体が動かない。それだけが分かる。
古代魔法「カーヴェド・ハ・オラム」。
空間そのものを歪め、対象に数十倍の重力を課す。
現代では失われた、龍族の秘術だった。
フィーネの封印が一部解除されたことで、使用可能になった規格外の魔法。
ザフィルの足元の石畳が、放射状に亀裂を走らせる。
彼の体重の数十倍──数トンの圧力が、一点に集中している。
好機。
メルヴェが詠唱を重ねた。
銀髪が風になびく。
紫水晶の瞳が、冷徹な光を放つ。
「フリーズ」
冷気が奔った。
白い霧が、蛇のようにザフィルに絡みつく。
一瞬で温度が下がる。
吐く息が白くなるほどの、異常な冷却。
氷がザフィルの手足を包み込んだ。
透明な結晶が、鎧のように全身を覆っていく。
重力と氷結。
二重の拘束。
「っ……!」
ザフィルの身体が、完全に静止した。
あの「深淵の牙」が。
カラハン魔王国最強の剣が。
その場に縫い止められている。
レイスは剣を抜いた。
鞘から引き抜かれる鋼の音。
高く、澄んだ響き。
ゆっくりと歩み寄る。
一歩。二歩。三歩。
周囲の時間が、引き伸ばされたように感じる。
自分の心臓の音が、やけに大きく聞こえた。
ドクン。ドクン。ドクン。
ザフィルの前に立つ。
氷に閉じ込められた剣鬼を、見下ろす形になった。
レイスは剣を持ち上げ、ザフィルの首筋に刃を当てた。
冷たい鋼が、温かい肌に触れる。
あと数ミリ。
それだけ押し込めば、頸動脈を断てる距離。
(……私、今、カラハン魔王国最強の首に剣突きつけてる)
(なにこれ。なにこの状況。帰りたい)
だが、表情は微塵も揺らがない。
真紅の瞳が、氷のようにザフィルを見下ろす。
「これでも退屈か?」
(声、裏返るな。頼むから裏返るな──)
冷たい声。
完璧な、若き領主の仮面。
ザフィルは──笑った。
いや、笑っていた。
最初から。
拘束された瞬間から、その口元は歪んでいた。
だが今、その笑みが変わった。
歓喜。
純粋な、混じりけのない歓喜が、氷青の瞳に溢れていた。
そして──氷が、軋んだ。
「──ッ!?」
ザフィルの指が、僅かに動いている。
重力と氷結の二重拘束。
その中で。
「悪くない」
声が、響いた。
「悪くないな、お前」
氷に亀裂が走った。
ピシッ。ピシピシッ。
透明な結晶に、蜘蛛の巣のような罅が広がっていく。
そしてザフィルは──笑いながら、立ち上がり始めた。
残り──4分。
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【第5刻限】残り13日4時間 ─ 刻印課題:深淵の牙を無力化せよ
<レイスのひと言:5分のデモが、地獄のデスマーチに変わる瞬間>




