第31話「三つの試練」
【第5刻限】残り23日 16時間 ─ 刻印課題:深淵の牙を無力化せよ
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『龍の血脈を継ぎし者よ、汝自身と相対せよ』
碑文の警告が、青白い光の中で明滅していた。
螺旋階段を降りた先、第二層の入口。苔むした石壁からは、千年分の湿気が染み出している。
メルヴェが碑文を読み上げる。
「『資格ある者のみ入るを許さる。他の者は此処にて待つべし』……ですわ」
バラカが扉を睨んだ。
「俺たちは入れねえ、ってことか」
「そのようですね。龍の血脈……つまり、フィーネ様だけが対象」
フィーネは扉を見上げていた。扉の表面には、二匹の龍が絡み合う紋章。彼女の手首に刻まれたものと、同じだ。
レイスは彼女の前に立った。
「フィーネ、一人で行けるか」
「……はい」
振り返ったフィーネの蒼穹色の瞳に、恐怖の色はなかった。緊張はある。だが、それ以上に──何かを決めた者の静けさがあった。
「行ってきます」
細い指が、扉に触れる。
ゴォン、と。地鳴りのような音が石壁を震わせた。
「きゅるっ……!」
ファルが、レイスの肩から飛び立とうとした。必死に翼を羽ばたかせ、フィーネを追おうとする。
だが、扉が閉まる方が早かった。
ズゥン──。
「きゅる……」
ファルが、力なくレイスの肩に戻ってきた。金色の瞳が、閉ざされた扉をじっと見つめている。
(お前も、心配か)
レイスは無言で、真珠白の鱗を撫でた。
───
扉が閉まった瞬間、世界が変わった。
振り返る。扉は消えていた。あったはずの場所には、のっぺりとした石壁が広がっているだけだ。
部屋は円形だった。壁には青白い紋章が浮かび上がり、脈動するように明滅している。心臓の鼓動と同じリズムで。
──いや、違う。この脈動は、もっと大きな、もっと古い何かのものだ。
中央に、光が集まり始めた。金色の粒子が凝縮し、やがて人の形を成す。
銀色の長髪。尖った耳。完璧な姿勢で弓を構える、一人の女性。
フィーネは、自分自身を見ていた。
いや──かつての自分だ。
記憶にはない。だが、魂が覚えている。溢れる魔力。研ぎ澄まされた殺気。一切の迷いのない、澄んだ瞳。
これが、龍王家の巫女。これが、本来の私。
幻影が、弓を引いた。
見えなかった。気づいたときには、フィーネの体は宙を舞っていた。
「っ……!」
壁に叩きつけられる。視界が白く弾けた。
その瞬間──。
◆
──温かい。誰かの手のひらが、頭を撫でている。
『──よく眠れたか、小さき巫女よ』
金色の光。巨大な瞳。鱗に触れた。硬くて、温かくて、陽だまりのような──。
◆
「っ……!」
フィーネは咳き込みながら顔を上げた。
今のは──何だったのだろう。
思い出せない。温かかった。それだけは分かる。
幻影が、再び弓を構えた。今度は見えた。弦が引かれる。矢が生成される。
見えただけだった。
ヒュン──。
また、吹き飛ばされた。
◆
──白い塔が見える。砂の海の中に、沈むように立っている。空は赤い。燃えている。
『守って。王冠を──あの子を──』
声は途切れた。砂が、全てを呑み込んでいく。
◆
3度目。4度目。5度目。
フィーネは床に這いつくばっていた。全身が悲鳴を上げている。
もう無理だ。勝てるわけがない。
フィーネは目を閉じた。
暗闇の中に、顔が浮かんだ。銀髪の魔族。深紅の瞳。レイス様。
この試練を越えなければ、先に進めない。封印が解けなければ、ザフィルを止められない。ザフィルを止められなければ──レイス様が、死ぬ。
「……まだ」
声が出た。掠れて、震えて、みっともない声だった。
「まだ、終わってない」
立ち上がる。
「何度でも、立ちます」
体が吹き飛ぶ。また倒れる。また立つ。また倒れる。また立つ。
時間の感覚が消えた。痛みすら遠くなっていく。
立て。倒れても、立て。何度でも。
──その時。
◆
意識が、どこかへ落ちていく。深く。深く。
これは、自分じゃない。
──見えた。
闇の中に、一人の女性が座っている。黒い髪。疲れた目。膝を抱えている。
その人が、顔を上げた。目が合った。
レイス様──? いや、違う。深紅ではない。黒い瞳。でも、どこかで知っている。どこかで、ずっと見ていた。
女性は微かに笑った。疲れた笑顔。でも、優しい。
『……頑張ってるね』
胸が締め付けられる。
この人を──守らなきゃ。
理由は分からない。名前も知らない。でも、この人は大切な人だ。この人のためなら、何度でも立てる。
『──ありがとう』
女性が、そう言った気がした。
◆
視界が戻った。
思い出せない。誰かがいた。大切な誰かが。でも、顔が──。
幻影が、弓を下ろしていた。
その唇が、微かに動いた。
──よく、立った。
光が、収束していく。
『──資格を認める』
古代語が、部屋に響いた。
『汝の意志、龍王の巫女に相応しい』
壁の一部が、ゆっくりと開いていく。
フィーネは膝をついたまま、荒い息を吐いた。
勝てなかった。一度も、まともに攻撃を当てられなかった。でも──逃げなかった。
頬を、涙が伝い落ちた。いつから泣いていたのか、分からない。
──何か、大切なことを思い出しかけた気がする。温かい手のひら。白い塔。疲れた目をした──誰か。
でも、もう思い出せない。砂のように、指の間からこぼれ落ちていく。
フィーネは首を振り、扉の向こうへ歩き出した。胸の奥に、微かな疼きだけを残して。
───
「フィーネ!」
レイスが駆け寄るより早く、ファルが飛んだ。
「きゅるるるっ!」
扉の向こうに、フィーネが膝をついていた。ファルが肩に着地し、小さな頭を彼女の頬に擦り付ける。
「……ただいま、ファル」
掠れた声。肩で息をしている。服は破れていないのに、全身から極度の消耗が見て取れた。魂を削られたような、深い疲労。
だが、その瞳は──どこか晴れやかだった。
「勝てませんでした。でも……逃げませんでした」
レイスはフィーネの腕を取り、立ち上がるのを支えた。
「十分だ。よくやった」
フィーネの唇が、微かに震えた。その頬に、涙の跡があった。
(泣きながら、立ち続けたのか)
レイスは何も言わなかった。言葉にすれば、安っぽくなる気がした。
その時──フィーネが、不思議そうにレイスを見上げた。
「レイス様」
「なんだ」
「……何か、大切なことを忘れている気がして」
蒼穹色の瞳が、一瞬だけ揺れた。
「レイス様を見ていたら、急に……ここが、痛いんです」
フィーネは胸に手を当てた。
「試練の中で、何か見たのか?」
「分かりません。覚えていないんです」
フィーネは困ったように笑った。
「きっと、気のせいですね」
だが、胸に当てた手は──まだ、離れていなかった。
(体感では永遠だったけど……実際は3分くらいか)
(弊社の会議、3分で終わったことないのに)
メルヴェがフィーネに水筒を渡した。
「意志を問う試練……勝敗ではなく、折れない心が評価されるのですわね」
バラカが大きな手で、フィーネの頭をがしがしと撫でた。
「やるじゃねえか、嬢ちゃん」
ファルが、彼女の肩から離れようとしない。小さな金色の瞳が、じっとフィーネを見つめている。
まるで──何かを知っているかのように。
───
第三層への道は、さらに深く続いていた。
広間に出た瞬間──。
ドゴォォォン……!
床が揺れた。壁の一部が崩れ、土煙が舞い上がる。その中から、巨大な影が姿を現した。
翡翠色の石で構成された巨人。5メートルはあろうかという体躯。胸の中央に、脈動する光の核。
天井に頭が擦りそうなほど、でかい。
「番人、ですわね」
メルヴェが杖を構えた。
レイスの脳裏に、ゲームの記憶が閃く。
(隠しダンジョンの最深部のボス。弱点は胸の核。でかくて遅い──やれる)
「バラカ、正面を引きつけろ!」
「おうよッ!」
バラカが咆哮と共に突進した。大斧がゴーレムの腕を叩く。
ガギィィィン!!
「硬ぇ……!」
「メルヴェ、足を止める魔法を!」
メルヴェの指先から、氷の術式が放たれた。翡翠色の脚が、氷に縫い止められる。
「フィーネ、胸の光っている部分──あそこが核だ!」
疲弊したフィーネが、それでも弓を構えた。細い指に、魔力が集束する。
ヒュンッ──!
魔矢が放たれた。しかし──核の手前で、翡翠の腕が割り込んだ。
ガキッ。
「弾かれた……!」
ゴーレムが氷を砕き、体勢を立て直す。バラカが横殴りの拳を受け、石壁まで吹き飛ばされた。
「ぐッ……!」
「バラカ!」
「へっ……効かねえよ、こんくらい」
バラカが血を拭い、再び前に出る。
(核を守るように腕を動かす。知性があるのか──厄介だ)
「メルヴェ、もう一回足を止められるか」
「できますわ。ですが、3秒が限界です」
「十分だ。バラカ、次は腕を押さえろ。メルヴェが足を止めたら、核がむき出しになる」
「おう、任せろ!」
バラカがゴーレムの右腕に組みついた。巨人の腕が持ち上がる。バラカの全身の筋肉が、ぎしりと軋んだ。
「今ですわ──フリーズ!」
メルヴェの氷が、ゴーレムの両脚を再び縫い止めた。
腕はバラカが押さえている。脚はメルヴェが止めている。核を覆うものは、何もない。
「フィーネ!」
フィーネが、息を吐いた。静かな呼気。さっきまで膝をついていた少女とは思えない、澄んだ集中。
ヒュンッ──!
魔矢が放たれた。一直線にゴーレムの胸を穿つ。
ズガァァァァン!!
核が砕けた。巨人の体が内側から崩れていく。バラカが飛び退き、翡翠の破片が床に散らばった。
レイスは膝に手をついた。直接戦ったわけでもないのに、心臓がまだ暴れていた。
(指揮官って、見てるだけで胃が痛くなる仕事じゃん……)
バラカがフィーネを見た。
「嬢ちゃん、さっき死にかけてたくせに、よく当てたな」
「……みなさんが、道を作ってくれましたから」
フィーネが、小さく笑った。その笑顔に、もう怯えはなかった。
───
最深部。
天井に、星空が広がっていた。深い藍色の闇に、無数の金色の光点が散りばめられている。
本物の星空より、美しかった。
中央に、石の祭壇。表面には複雑な紋章が刻まれている。二匹の龍と、冠。フィーネの手首のものと、同じ意匠。
「フィーネ、手を」
メルヴェに促され、フィーネが祭壇に触れた。
瞬間──光が、爆発した。
金色の奔流がフィーネを包み、天井の星々と共鳴する。古代語の音声が空間を満たした。
『龍王家の巫女を確認』
『封印解除の資格を認定』
『──封印解除率:15%』
『使用可能魔法階位:時空干渉:重力』
『──カーヴェド・ハ・オラム《世界の重み》』
『制限時間:約300秒』
『警告:使用後、重度の魔力欠乏が発生します』
光が収束していく。
フィーネが目を開けた。蒼穹色の瞳が、微かに金色を帯びている。
「……感じます。力が、少しだけ戻った」
メルヴェが息を呑んだ。
「カーヴェド・ハ・オラム……重力を操る古代魔法。失われた術式の一つですわ」
「ただし、5分が限界。それ以上は……魔力回路が焼き切れると」
「使用後は数日間、まともに動けなくなる可能性がありますわ。最悪──」
メルヴェは言葉を切った。
レイスには、その先が分かった。
脳裏に、ゲームの記憶が蘇る。
剣鬼ザフィル。物理攻撃が通じない。魔法も効きにくい。正面から戦えば、10秒と持たない。
それを、5分で止めろ。代償は、術者の体。
(……カップ麺を作る時間で、人外を無力化? しかも使い捨て?)
だが──重力魔法なら。「環境」そのものを操作すれば、物理耐性は関係ない。
5分あれば、何かできる。
───
遺跡を出ると、夕陽が沈むところだった。
滝の飛沫が、茜色に染まっている。
遺跡に潜ってから、10日が過ぎていた。地下では昼も夜もなかったから、体感では3日程度だ。だが暦は正直だった。
(残り13日。10日も食われた……)
レイスは夕陽を見つめながら、呟いた。
「5分、か」
その言葉に、フィーネが反応した。一歩、前に出る。
「私、やります。5分。ザフィル様を、5分止めます」
「さっきの試練で、ボロボロだっただろう」
フィーネは小さく笑った。
「はい。だから分かったんです」
「勝てなくても、立ち続けることはできます」
その目に、揺らぎはなかった。
「……5分は長いぞ」
「存じています」
「死ぬかもしれない」
「覚悟の上です」
レイスは、しばらくその目を見つめた。
第二の試練で彼女が得たのは、力ではなかった。覚悟だ。どれだけ打ちのめされても、立ち上がり続けるという覚悟。
「……分かった。頼む」
フィーネが、静かに頷き返した。
夕陽が、滝の向こうに沈んでいく。
───
帰路の馬車の中。
レイスは膝の上で指を組み、脳裏で作戦を組み始めた。
5分。300秒。その間に、ザフィルを無力化する方法を見つけなければならない。
しかも、5分が終わればフィーネは倒れる。使い捨ての切り札。失敗は許されない。
(……なんだそのクソゲー)
だが、やるしかない。納期は13日後。遅延は即死。
ファルが肩の上で、小さく鳴いた。
窓の外に、星が瞬き始めている。
偽物だから価値がない、とは限らない。フィーネは偽物の星空の下で、本物の覚悟を手に入れた。
自分だって同じだ。ゲームの知識で生き延びている、偽物の領主。だが──偽物でも、立ち続けることはできる。
(……まあ、私は立ち続けるより座りたいけど)
馬車の窓から、星空を見上げた。
その星の下のどこかで、剣鬼もまた、刃を研いでいるはずだった。
──13日後の「請求書」が、どれほど高くつくのかも知らずに。
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【第5刻限】残り13日 4時間 ─ 刻印課題:深淵の牙を無力化せよ
<レイスのひと言:「3分耐えろ」はカップ麺。「5分耐えろ」は地獄>
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