第3話 泥水を「聖水」に変える錬金術──中身は理科のろ過装置です
【第1刻限】残り6日 3時間 ─ 現在BP:0 / 目標BP:15
茶色い液体が、銀の杯の中で揺れていた。
控えめに言っても「泥水」。
率直に言えば「下水」に近い。
(……無理。絶対無理。大腸菌の培養液じゃん)
黒狼団──もとい黒猫運輸を傘下に収め、ゲジェカレ城に凱旋したレイスを待っていたのは、英雄の帰還にふさわしい歓声でも、豪華な祝宴でもなかった。
異世界の洗礼は、まず「飲料水」という形でやってきた。
「は。城の井戸水でございます」
老いた従者が恭しく頭を下げる。
その表情には、何の疑問も浮かんでいない。
つまり、これが「普通」なのだ。この城では。
前世、東京の水道水で育った身には、この液体を「飲料水」と認識することは不可能だった。
衛生観念が絶叫している。腹を壊す未来が見える。
(温水便座のない異世界で腹を壊すことの恐ろしさ……想像するだけで背筋が凍る)
(これ、労災案件じゃない? 福利厚生の最低ラインがこれって、ブラック企業どころの話じゃないわ)
レイスは杯を静かに置いた。
「……カディルを呼べ」
◇
程なくして現れた騎士団長は、主君の問いに苦い顔で答えた。
「水の件でございますか……はい。ご指摘の通り、我が領の水源は枯れかけております」
カディルの琥珀色の瞳が、わずかに曇る。
「兵たちの体調も芳しくありません。常に数名は腹を下し、戦列を離れている状態です」
その言葉の端々に、長年の苦悩がにじんでいた。
「……恥ずかしながら、この問題を放置してきたのは我々の怠慢です」
(あ、これ知ってる)
レイスの脳内で、ゲーム知識が点灯した。
カディル・デミルチ。通称「鉄の騎士団長」。
彼のサブクエストの一つに「清浄なる水」というものがあった。
内容は単純だ。
部下たちが不衛生な水で次々と病に倒れ、戦う前に戦力が削られていく。
それを誰よりも悔やんでいたのが、このカディルだった。
そして、以前の「レイス」は──
(浄水施設の整備を陳情されて、「金がない」って却下し続けてたんだっけ)
なるほど、カディルの不信感の一因はこれか。
民のため、兵のために声を上げても、無能な領主に握りつぶされる。
その繰り返しが、あの疑念の眼差しを作ったのだ。
(……逆に言えば、ここを解決すれば好感度が上がる)
レイスは内心でほくそ笑んだ。
(私の生活向上と、カディル攻略が同時に達成できる。一石二鳥どころか、一石三鳥のボーナスイベントだ)
(しかも開発コストはほぼゼロ。これを『やらない』という選択肢はない)
「カディル」
「は」
「木炭、砂利、細かい砂、そして布を用意しろ。あと、底の抜けた大樽がいくつか必要だ」
「……は?」
カディルが目を丸くした。
当然だ。脈絡がなさすぎる。
「黒猫運輸の連中を使え。明日の朝までに揃えろ」
「あ、明日の朝までに……? しかし閣下、それは一体何に……」
「見ていれば分かる」
レイスは窓の外に視線を向けた。
夕暮れの光が、荒れ果てた領地を赤く染めている。
(小学校の理科で習ったやつ、覚えてるかな……)
簡易ろ過装置。
砂と炭と布を層状に重ね、泥水を通すだけで透明な水が得られる。
現代日本では子供でも知っている知識だが、この世界では──おそらく、誰も知らない。
(前世の知識を異世界で活かす。まさに『持ち込みアイテム』ってやつね)
(ただし、成功報酬は『まともな水が飲める』だけ。……いや、それだけで十分すぎるんだけど)
◇
翌朝。
城の中庭に、奇妙な構造物が組み上がっていた。
大樽を三段に重ね、それぞれに砂利、砂、木炭を敷き詰めたもの。
最下段には清潔な布が何重にも巻かれている。
黒猫運輸の面々が、一晩で材料を集め、組み立てを完了させていた。
さすがは元盗賊、この手の「急ぎの仕事」には慣れているらしい。
(納期厳守。優秀な外注先を確保できたのは僥倖だわ)
「閣下……これは、一体……?」
カディルが困惑した声を上げる。
周囲には兵士や使用人たちが集まり、遠巻きに様子を窺っていた。
レイスは無言で、泥水の入った桶を持ち上げた。
ザァァァ……
茶色い液体が、最上段の樽に注がれる。
まるで大地が汚れを飲み込むように、砂利の隙間へと吸い込まれていく。
砂の層を通り、木炭の層を潜り──
ポタ、ポタ、ポタ。
最下段から滴り落ちてきたのは、透明な水だった。
シーンと静寂が落ちた。
誰も、何も言わない。
ただ、滴り落ちる水の音だけが、中庭に響いている。
「……嘘、だろう」
最初に声を上げたのは、カディルだった。
琥珀色の瞳が、信じられないものを見るように見開かれている。
レイスは落ちてきた水を杯で受け、一口含んだ。
──澄んでいる。
雑味がない。喉を通る感触が、泥水とはまるで違う。
「……飲める」
前世のミネラルウォーターには遠く及ばないが、泥水よりは100倍マシだ。
少なくとも、腹を壊す心配は大幅に減った。
(よし、成功。理科の授業、ちゃんと聞いててよかった)
内心でガッツポーズしつつ、レイスは杯をカディルに差し出した。
「飲んでみろ」
「は、はい……」
カディルが恐る恐る口をつける。
一口。二口。
そして──その目が、大きく見開かれた。
「澄んでいる……泥の臭いが、しない……!」
カディルの声が震えていた。
周囲がどよめく。
「本当か」
「嘘だろう」
「魔法か?」
口々に囁き合う声が広がっていく。
(いや、魔法じゃないんだけど。ただのろ過なんだけど)
だが、そんな野暮なことは言わない。
言う必要もない。
カディルが膝をつきたずねた。
「閣下……これは、いかなる秘術でございますか……!」
(おお、跪いた。好感度、かなり上がった?)
だが、レイスは油断しなかった。
(いや、待て。忠誠心が高まっても、「魂刻の絆」はまた別物だ)
ゲームで学んだことを思い出す。
契約を成立させるには、相手が「自由意思で」忠誠を誓う必要がある。
恩を着せて無理やり結ばせても、システムは無情に『条件未達成』と告げる。
(つまり、今のカディルは「感動している」だけ。まだ「魂を預ける覚悟」には至っていない)
(上司に褒められて嬉しい、と、この会社のために命を懸けます、は全然違う話だもんね……)
(焦るな、私。まだ6日ある。……いや、6日しかないんだけど)
「秘術などではない。ただの『浄化』だ」
嘘ではない。ろ過は浄化の一種だ。たぶん。
「この装置を、領内の全ての村に設置しろ。黒猫運輸に資材の運搬を命じておく」
そして、レイスは付け加えた。
「それから──飲む前に、必ず一度火にかけろ。煮立たせてから冷ませば、より安全だ」
(煮沸消毒。これを言い忘れたら、後で地獄を見る)
「火にかける……? なぜでございましょう」
「目に見えぬ『毒』がある。熱で滅ぼせる」
カディルの目が、さらに大きく見開かれた。
「目に見えぬ毒まで……閣下は、それすらもご存知なのですか……!」
(いや、知ってるというか、常識というか……)
だが、この世界では常識ではないのだ。
「は、はい……! 必ずや……!」
カディルの声には、もはや疑念の欠片もなかった。
◇
それから二日間、領内は慌ただしく動いた。
黒猫運輸が資材を運び、カディルの騎士団が各村で組み立てを指導する。
「浄化の魔道具」──領民たちが勝手にそう呼び始めた──が、次々と設置されていく。
レイスは城の執務室から報告書に目を通しながら、その進捗を追っていた。
(プロジェクト進行率……まあまあ順調。外注と現場の連携も取れてる)
領民たちの間では、こう囁かれるようになった。
「若き領主様は、泥水を清水に変える秘術をお持ちだ」
「一夜にして魔道具を生み出す天才だ」
噂は瞬く間に広がり、「浄化の魔道具」は伝説となった。
当の本人としては、ただ「まともな水が飲みたかっただけ」なのだが──そんな私的な動機が、いつの間にか領主の偉業として語り継がれていく。
(期待値が上がりすぎてる。これ、後で「炎上」しないといいけど……)
後世の歴史家は、この「浄化の魔道具」をカランルク辺境伯領の転換点と評するだろう。
もっとも、当の本人が考えていたのは「次の案件」のことだけである。
生き延びるための自転車操業に、終わりは見えない。
◇
設置作業が一段落した夕刻。
執務室で報告書に目を通していたレイスは、ふと窓の外を見やった。
夕焼けに染まる荒野。まだ復興には程遠いが、少しずつ、この領地は変わり始めている。
(水のインフラは確保した。次は……食糧? それとも防衛?)
(いや、その前にカディルとの契約を何とかしないと。残り4日──)
やることリストが頭の中で渦巻く。
(納期に追われながらタスクを消化する日々……前世と何が違うの、これ)
(違いは一つ。失敗したら『存在消去』ってところだけ)
その思考は、突然の来訪者によって断ち切られた。
バタン、と執務室の扉が開かれる。
「急報!」
息を切らせた伝令が転がり込んでくる。
その顔は青ざめ、声は震えていた。
「国境沿いのエスキ・コイ村に、アテシュ伯爵家の旗印が確認されました!」
レイスの手が、報告書の上で止まった。
「数は──およそ300!」
300。
こちらの兵力は、せいぜい10人。
30倍の戦力差。
(……は?)
頭が真っ白になる。
(ちょっと待って。水問題を解決したと思ったら、今度は戦争?)
(案件が終わる前に次の案件が降ってくるやつ、前世でも散々やったけど──)
(──スケールが違いすぎるんですけど!?)
だが、その動揺を表に出すわけにはいかなかった。
領主が狼狽えれば、兵も民も崩れる。
レイスは静かに立ち上がった。
「……カディルを呼べ」
視界の端で、刻限のカウンターが無情に時を刻んでいる。
BP獲得どころではなくなった。
まずは、この領地を守らなければ──何もかもが終わる。
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【第1刻限】残り4日 1時間 ─ 現在BP:0 / 目標BP:15
<レイスのひと言:インフラ整備が終わったら、炎上案件が来た>




