第27話「剣鬼、襲来」
【第5刻限】残り44日 18時間 ─ 刻印課題:深淵の牙を無力化せよ
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「昨夜、残党狩りの部隊三十名が壊滅しました」
ナズの声が、震えていた。
翌朝の執務室。長机を囲むのは、レイス、ナズ、メルヴェの三人。窓から差し込む朝日が誰の顔も照らし出しているというのに、その光には温もりがない。
「生存者の証言によると、襲撃者は──たった一人」
黒い剣を持った男。それだけで、三十人の兵が蹴散らされた。
「『深淵の牙』ザフィル・オンジュ」
メルヴェが低く呟いた。その紫の瞳には、珍しく警戒の色が滲んでいる。彼女がこれほど緊張を見せるのは、レイスがこの領地に来て以来、初めてのことだった。
「ヴォルカン公爵の切り札。大陸有数の剣士にして、戦場の死神。噂には聞いておりましたが……まさか、これほど早く動くとは」
(あー……マジで来ちゃったか)
レイスは胃の奥が冷えていくのを感じていた。心臓が嫌な音を立てて脈打ち、背筋を冷たい汗が伝う。
(ゲームだと中盤のボスなんだよ、あいつ。序盤のプレイヤーが遭遇したら詰みルート確定の理不尽キャラ。それが今、私の領地に来てる)
刻印課題が発動した瞬間から、覚悟はしていた。だが、覚悟と現実は違う。三十人が一人に壊滅させられた──それは「強い」という言葉では表現しきれない、桁違いの暴力だ。
「お兄様」
ナズの声が、緊張で高くなっている。
「カディル様に早馬を出しましょう。今すぐ戻っていただかないと……」
「駄目だ」
レイスは首を振った。その声は、自分でも驚くほど落ち着いていた。内心では悲鳴を上げているというのに、この身体は勝手に「領主」を演じてくれる。
「カディルは新領地の巡回中だ。キュル家領の兵力再編成と防衛線の確認……戻るには最低でも二日かかる」
「でも……!」
「逆だ、ナズ」
レイスは冷たい声で遮った。内心の恐怖を、演技で押し殺す。これはもう、何十回と繰り返してきた所作だ。
「ザフィルが本気で攻めるなら、カディルがいようがいまいが結果は同じだ。むしろ、最強の騎士が不在の今、向こうがどう動くか──それを見極める方が重要だ」
(というか、カディルがいても勝てないんだよ。カディルの実力は認めてる。でも、ザフィルは『格』が違いすぎる。ゲームでも、カディルとザフィルが一騎打ちするイベントがあったけど──結果は惨敗だった)
メルヴェが扇子の先で顎を支えた。
「殿下のお考えは?」
「まず情報だ。ザフィルは何を目的としている? 単なる先遣隊なのか、それとも──」
その瞬間、肩の上のファルがびくりと身を固くした。
「キュ……ルルル……」
金色の瞳が、窓の外──城門の方角を凝視している。低い唸り声は、危険を感知した時の警戒の合図だ。
同時に、遠くから角笛の音が響いた。緊急事態を告げる、三度の連続音。
「──報告!」
執務室の扉が蹴破られた。息を切らした伝令兵が膝をついて叫ぶ。
「城門前に……不審な男が一人! 武装しておりますが、攻撃の意思は示しておりません!」
「特徴は」
「黒髪、長身。背中に黒い大剣を背負っております。兵に問われても一言も発さず、ただ……城を見上げているだけで……」
ナズの顔が、蒼白になった。
「お兄様……」
レイスは、既に立ち上がっていた。
「メルヴェ、お前は残れ。バラカも呼ぶな」
メルヴェが扇子を閉じた。
「……殿下。私ならば、あるいは──」
「駄目だ」
レイスは短く遮った。
(メルヴェなら、やれるかもしれない。でも、あいつが本気を出したら──城が吹き飛ぶ。それに……)
(ザフィルは、本来なら味方に引き込めるキャラなんだよ。ゲームでも、条件を満たせば仲間にできた。殺すのは、最後の最後だ)
その内心は、口にしなかった。
「ザフィルはヴォルカンの剣だ」
レイスの声は、鋼のように硬かった。
「あいつが見たものは、全てヴォルカンに報告される。お前もバラカも、まだヴォルカンに顔が割れていない。ここで晒すわけにはいかん」
メルヴェの紫の瞳が、レイスを見つめた。何かを察したように、静かに頷く。
「……承知いたしました」
ナズが唇を噛んだ。震える手を、必死に握りしめている。
「フィーネ」
廊下に控えていたエルフの少女に、短く声をかけた。
「ついてこい」
「……はい」
フィーネが静かに歩み寄る。その手には、既に淡い魔力の光が灯っていた。
「お兄様……!」
「ナズ、バラカには『待機』と伝えろ。何があっても、城門には出るな」
振り返らず、レイスは執務室を後にした。
───
城門前。晩秋の風が、石畳を撫でていく。
城門を守る兵士たちは、弓を構えながらも一歩も動けずにいた。いや、動けないのだ。目の前に立つ男から発せられる「何か」が、本能的に彼らを縛りつけている。
黒い髪。黒い外套。そして、背中に負った漆黒の大剣。
男は無言で城を見上げていた。殺気はない。敵意もない。だが、その存在そのものが「脅威」だった。野獣の前に立たされた小動物のように、兵士たちの足が震えている。
「何者だ! 名乗れ!」
門番の隊長が、声を絞り出すように叫んだ。男は、ゆっくりと視線を下ろした。黒い瞳が、隊長を捉える。
ただ、それだけのことだった。それだけのことで──隊長の膝が、がくりと折れた。
「ひ……っ」
声にならない悲鳴。歴戦の兵士が、見つめられただけで戦意を喪失する。それが、「深淵の牙」ザフィル・オンジュという男だった。
城門が、ゆっくりと開いた。兵の列が左右に割れ、その中央を一人の男が歩いてきた。
真紅の瞳。漆黒のコート。風に揺れる黒髪。
レイス・カランルク。若き辺境伯が、剣鬼の前に立った。
沈黙。二人の視線が、交差した。
ザフィルの瞳が、レイスを射抜いた。
殺気ではない。品定めだ。獲物の値打ちを測る、捕食者の眼。
レイスは、動かなかった。
膝が震えている。喉が乾いている。だが──逸らさない。一ミリも、視線を逸らさなかった。
ザフィルが、初めて口を開いた。
「お前が、レイスか」
「そうだ」
その声は、震えていなかった。
短いやり取り。だが、その数秒の間に──何かが起きていた。
周囲の兵士たちには、理解できなかった。二人は、ただ見つめ合っていただけだ。言葉はほとんど交わされていない。なのに、ザフィルの口元が、わずかに歪んだ。
それは──笑みだった。
「……退屈だ」
低い声が響く。
「だが──お前は、少しは楽しませてくれそうだな」
黒い外套が翻る。剣鬼は背を向けた。
「次は本気で遊んでやる。──準備しとけ」
剣を抜くこともなく、そのまま歩き去っていく。
誰も、声を発せなかった。兵士たちは何が起きたのか分からないまま、呆然と立ち尽くしている。やがて黒い影は街道の向こうに消え、ようやく誰かが息を吐き出した。
───
執務室に戻ったレイスは、椅子に深く沈み込んだ。全身から、どっと冷や汗が噴き出す。
「……はぁ~っ……」
ようやく、本音の溜息が漏れた。
(死ぬかと思った。心臓が口から出るかと思った。あの目で見られた瞬間、足が震えて動けなくなりそうだった)
だが、表面上は──揺らがなかった。社会人十年で培った「ハッタリ力」の総決算である。もっとも、本人は二度とやりたくないと思っているが。
「お兄様! ご無事で……!」
ナズが駆け寄ってきた。涙目でレイスの手を握りしめる。
「無事も何も、会話しただけだ」
「でも、あの化け物と直接対峙して……!」
そこへ、執務室の扉が開いた。バラカが大股で入ってくる。
「閣下! ご無事で……!」
琥珀色の瞳が、安堵と怒りで揺れている。獅子の獣人の巨躯が、悔しさに震えていた。
「あの野郎、俺たちの仲間を三十人も殺しやがって……! なんで俺を出してくれなかったんですか!」
「出しても無駄だからだ」
レイスは冷静に答えた。
「ザフィルは剣では斬れない」
バラカの表情が、固まった。
「……どういう意味ですか」
「そのままの意味だ」
レイスはそれ以上、説明しなかった。バラカの拳が震えた。
「じゃあ、カディル様でも……」
「同じだ。剣士では、あいつには勝てない」
沈黙が落ちた。窓際で控えていたメルヴェが、扇子を閉じた。
「……殿下。それが事実なら──わたくしがやります」
バラカが目を見開く。
「メルヴェ……?」
「魔術師ですもの。剣で斬れないなら、別の手段を使えばいい」
メルヴェの紫の瞳が、冷たく光った。
「氷漬けにするなり、凍らせて砕くなり。方法はいくらでもありますわ」
「だが、駄目だ」
レイスは首を振った。
「さっき言った通りだ。切り札は、最後まで見せない」
バラカが歯を食いしばった。悔しそうに、だが反論はしなかった。戦士だからこそ、その理屈は分かる。メルヴェも静かに頷いた。
「承知いたしました」
それ以上、追及はしなかった。メルヴェが紅茶を用意しながら、話題を変えた。
「殿下。お話を聞かせていただけますか。あの男……ザフィル・オンジュは、何を言っていましたの?」
「ほとんど何も言っていない」
レイスは答えた。
「俺の名を確認して、『退屈だが、お前は少しは楽しませてくれそうだ』──それだけだ」
沈黙が落ちた。ナズが首を傾げる。
「……それだけ、ですか?」
「それだけだ」
「でも、あの男は昨夜、三十人を殺して……今日、城まで来て……それで、何もせずに帰った?」
「ああ」
メルヴェが扇子を開いた。
「……理解に苦しみますわね。『楽しませてくれそうだ』とは、どういう意味でしょう」
「推測でいいか」
レイスが言った。
「確証はない。だが、あの男の行動には──いくつかの仮説が立てられる」
全員の視線が、レイスに集まった。
「まず、ザフィルは一人で来た」
「……それが何か?」
バラカが首を傾げる。
「本気でこの領地を滅ぼす気なら、一人では来ない」
レイスは淡々と続けた。
「いくらザフィルが強くても、城を落とすには兵がいる。補給線がいる。占領後の統治も考えなければならない。それなのに、単身で乗り込んできた」
メルヴェの目が、わずかに見開かれた。
「……つまり、ヴォルカン公爵の正式な命令ではない、と?」
「おそらくな」
レイスは頷いた。
「ヴォルカンが本気でこちらを潰すなら、ザフィルに軍を預けて送り込むはずだ。それをしていないということは──あの男は、独断で動いている可能性が高い」
ナズが眉をひそめた。
「でも、お兄様。それなら……なぜ?」
「退屈を紛らわす何かが欲しいんだ」
レイスは断言した。
「ザフィルは戦闘狂だ。噂では『退屈を何より嫌う男』だと聞いた」
言い直す。ゲーム知識をそのまま出すわけにはいかない。
「弱い相手を潰しても、あの男は満足しない。獲物が足掻き、苦しみ、それでも立ち向かってくる──その過程を楽しみたいんだ」
バラカが低く唸った。
「……つまり、閣下を『獲物』として見ている、と?」
「そういうことだ」
レイスは頷いた。だが、それ以上は語らなかった。対策は、これから考える。今はまだ、情報が足りない。
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この日の出来事は、当然ながらヴォルカン公爵の耳にも届くことになる。
剣鬼が「楽しませてくれそうだ」と言った──その報告を受けた公爵が何を思ったかは、後世の歴史家にも知る術がない。
ただ一つ、確かなことがある。
公爵は密偵に、ある指示を下した。
「ザフィルの動向を見張れ。あの男が何をするか──逐一報告せよ」
カランルク領ではなく、己の剣を監視させる。それがヴォルカン公爵という男だった。
若き辺境伯は、まだそれを知らない。
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【第5刻限】残り44日 12時間 ─ 刻印課題:深淵の牙を無力化せよ
<レイスのひと言:クレーマー対応、難易度SSRです>




