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第2話「狼狩りの夜──勝算なき追撃戦、開始」


【第1刻限】残り6日 22時間 ─ 現在BP:0 / 目標BP:15


 夜道を駆ける馬蹄の音が、闇の中に響いていた。


 松明の炎が揺れるたびに、周囲の木々が不気味な影を落とす。


 先頭を行くのは騎士団長カディル。その後ろに続くのは、たった10人の兵士たち。


 そして、その中央で馬に揺られているのが──辺境伯レイス・カランルクである。


(馬、揺れすぎ。お尻痛い。もう帰って寝たい)


 威風堂々と馬上にある若き領主。


 その内心が「早退したい新入社員」と同レベルであることを、配下たちは知る由もない。


「閣下。間もなくドゥマンリ村です」


 カディルの声に、レイスは無言で頷いた。


 喋ると声が震えそうだったからだ。


(「勝算がある」とか言っちゃったけど、どうするのこれ)


 つい先刻、執務室で啖呵を切った自分を殴りたい。


 勝算などない。あるのはゲーム知識だけだ。


 黒狼団。


 首領の名はボズクルト。元傭兵崩れの集団で、構成員は30から50人。


 ゲーム内では序盤の鉄板イベントだった。正面から戦えば全滅、奇襲すれば勝利。攻略サイトには「初心者救済クエスト」と書かれていたのを覚えている。


 だが、それはあくまでゲームの話だ。


 現実で同じ結果になる保証など、どこにもない。


「カディル」


「は」


「黒狼団について、知っていることを話せ」


 情報収集を装いながら、実際にはゲーム知識の答え合わせをしているだけだ。


 姑息だが、これが今の私にできる精一杯の「準備」である。


「奴らは三年前から、この一帯を荒らしております」


 カディルの声には、苦い響きがあった。


「何度も追討軍を出しましたが、一度も捕らえられませんでした。霧のように現れ、霧のように消える。まるで森そのものが奴らを匿っているかのようです」


(三年間、誰も捕まえられなかった——)


 神出鬼没。追跡不可能。


 厄介な連中だ。


(まあ、だからこそゲームでは「初心者救済」だったんだけど。倒せば経験値おいしいし)


 その思考は、前方からの声に遮られた。


「村が見えました!」


───


 ドゥマンリ村は、無事だった。


 正確に言えば、「村そのもの」は無事だった。


「領主様がお越しくださった!」


「助けに来てくれたんだ!」


 村人たちが安堵の声を上げる中、レイスは馬を降りて状況を確認した。


 村の入り口付近に、荷馬車が横転している。


 周囲には散乱した荷物。そして、血痕。


「商隊が襲われたのは、ここか」


「はい、閣下」


 駆けつけてきた村長が、震える声で報告した。


「二刻ほど前のことです。商隊が村に入ろうとしたところを、奴らに——」


「死者は」


「おりません。護衛の者が数名、怪我を負いましたが……命に別状はないと」


 レイスは横転した荷馬車を見つめた。


 奪うだけ奪って、去っていった。


(ゲームの設定通りか。黒狼団は襲っては消える。殺しはしない)


 それが盗賊の美学なのか、単なる合理性なのかは分からない。


 どちらにせよ、今は関係ない話だ。


「閣下」


 カディルが傍らに立った。


 その琥珀色の瞳には、静かな怒りが燃えている。


「追撃の許可を。奴らはまだ遠くへは行っていないはずです」


「……夜の森だぞ。危険ではないか」


「危険は承知しております。ですが、ここで逃せば、また同じことが繰り返されます」


 カディルの声には、三年分の悔恨が滲んでいた。


 レイスは沈黙した。


 視界の端で、刻限のカウンターが静かに時を刻んでいる。


 残り6日と21時間。


 ここで引き返せば、兵の損耗は避けられる。


 だが——


(……この男の信頼を得なければ、私は死ぬ)


 選択の余地など、最初からなかった。


「追う」


 レイスは短く告げた。


「根を断つ。今夜中に」


 カディルの目が、わずかに見開かれた。


「……御意」


 その声には、驚きと——かすかな期待が混じっていた。


───


【第1刻限】残り6日 19時間 ─ 現在BP:0 / 目標BP:15


 黒曜の森。


 その名の通り、闇夜の中では文字通り「黒い宝石の内部」にいるような錯覚を覚える。


 松明の灯りが届く範囲は、せいぜい数歩先まで。


 その外側は、完全な闇だった。


(無理。絶対無理。なんで私、夜の森を歩いてるの)


 インドア派の元OLにとって、これは拷問以外の何物でもない。


 足元は悪く、枝が顔を打ち、虫が耳元で羽音を立てる。


 さらに最悪なことに、追跡は難航していた。


「……また、消えました」


 先頭で痕跡を追っていた斥候が、苦い声を上げた。


「足跡が、ここで途切れています」


 カディルが舌打ちする。


「奴らは森を知り尽くしている。我々が知らない道を使っているのだ」


(これが、三年間誰も捕まえられなかった理由か)


 レイスは暗闘の奥を見つめた。


 厄介だ。本当に厄介な連中だ。


(でも——)


 レイスは目を閉じた。


 ゲーム知識を、必死で掘り起こす。


 黒狼団のアジト。攻略Wikiには座標が載っていた。


 目印は——


(大きな枯れ木と、三角形の巨岩)


 目を開ける。


 そして、ある方向を指差した。


「あちらだ」


「は?」


 カディルが怪訝な顔をする。


「閣下、何を根拠に——」


「風向きが変わった」


 レイスは平然と嘘をついた。


「獣の匂いがする。巣穴は近い」


(嘘です。Wikiに書いてあっただけです)


 だが、その嘘を見抜ける者は、この場にはいない。


 一行は、レイスの指し示した方向へと進み始めた。


───


 二十分ほど進んだ頃。


 レイスは唐突に足を止めた。


「松明を消せ」


 兵士たちの間に、動揺が走る。


「閣下、しかし——」


「消せ」


 有無を言わさぬ声だった。


 カディルが頷き、兵たちに合図を送る。


 一本、また一本と、松明の炎が地面に押し付けられ、消えていく。


 闇が、一行を包み込んだ。


 だが——完全な闘ではなかった。


 雲間から差し込む月明かりが、木々の隙間を縫って森の底まで届いている。


 目が慣れてくると、ぼんやりとではあるが、周囲の輪郭が浮かび上がってきた。


(よかった……月が出てて)


 内心で安堵しながら、レイスは小声で告げた。


「ここから先は、音を立てるな。奴らの巣穴は近い」


 カディルが息を呑む気配がした。


 闇の中でも、その目が鋭く光っているのが分かる。


 一行は、月明かりだけを頼りに、音もなく森を進んだ。


───


 十分後。


 レイスの「勘」は、的中した。


 正確には、五千時間のゲームプレイで培った「攻略Wiki暗記力」が的中したのだが——そんな真実を明かす必要はない。


 森が開けた場所に、粗末な小屋がいくつか並んでいる。


 見張りの男たちが焚き火を囲み、酒を酌み交わしていた。


 完全に油断している。まさか追手が来るとは思っていないのだろう。


「……閣下」


 カディルが、信じられないものを見るような目でレイスを見た。


「本当に、あったのですか……」


「疑っていたのか?」


「い、いえ。そのようなことは——」


「いい。当然の反応だ」


 レイスは視線を前方に固定したまま、淡々と告げた。


(内心めっちゃドキドキしてたけどね。外れてたらどうしようって)


「作戦を伝える」


 レイスは声を潜めた。


「挟撃だ。左右から回り込み、逃げ道を塞ぐ。私が合図を出すまで、決して動くな」


「……御意」


 カディルの目には、もはや疑念の色はなかった。


 あるのは、未知なる主君への畏怖——そして、戦士としての昂揚だった。


───


【第1刻限】残り6日 17時間 ─ 現在BP:0 / 目標BP:15


 夜明け前。


 空が白み始めた頃、包囲は完成した。


 レイスは岩陰から、アジトの様子を窺った。


 見張りは二人。残りは小屋の中で眠っているようだ。


(ゲームなら、ここで『奇襲』ボタンを押せば終わり)


(でも、これは現実だ)


 手が、微かに震えている。


 これから人と人が斬り合う。血が流れる。もしかしたら、死者が出るかもしれない。


 私の命令で。


(……やるしかない)


 レイスは、高く手を掲げた。


 そして——振り下ろした。


 ガキィンッ!


 金属音が、夜明けの森に響き渡った。


「敵襲だァァ!」


「起きろ! 全員起きろ!」


 アジトが騒然となる。


 レイスの心臓が、肋骨を叩くように跳ねた。


(始まった——)


 松明が次々と灯される。

 怒号。悲鳴。剣戟の音。

 鉄と汗の匂いが、朝靄に混じって鼻を刺す。


 カディルの剣が閃いた。

 一撃、また一撃。

 寝起きの盗賊たちは、満足に武器を構えることすらできない。


「こっちだ! 裏口から——」


 数人が小屋の裏へ駆け出す。


 レイスの背筋に、冷たいものが走った。


(逃がしたら、全部無駄になる——!)


 だが、裏口に回った盗賊たちは、そこで足を止めた。


 弓を構えた兵士たちが、逃げ道を塞いでいたからだ。


「……チッ」


 小屋の奥から、野太い舌打ちが響いた。


 現れたのは、熊のような巨躯の男だった。


 顔には古傷。手には巨大な戦斧。


 しかし、その目は——狂戦士のそれではなかった。


 疲れ果てた老兵の目だ。多くのものを失い、それでもなお立ち続けている者の目。


 黒狼団首領、ボズクルト。


「……やってくれたな」


 ボズクルトは周囲を見回した。


 完全な包囲。逃げ場なし。


 その視線が、レイスの姿を捉えた。


「領主自らお出ましか。カランルクの若造が、夜通し俺たちを追ってきたってのか」


「ボズクルト」


 レイスは、一歩前に出た。


 震えそうになる足を、意志の力で押さえつけながら。


「貴様の名は知っている」


 ボズクルトの目が、わずかに揺れた。


「……どこで聞いた」


「三年間、誰にも捕まらなかった男。その名を知らぬ者など、この地方にはいない」


 ボズクルトは無言でレイスを見据えた。


 値踏みするような、探るような視線。


 やがて、その口元に皮肉な笑みが浮かんだ。


「……で? 俺を捕まえて、どうする気だ」


 戦斧を構え直す。


「縛り首か。見せしめの処刑か。どちらでも好きにしろ。——ただし、俺は抵抗する」


 部下たちにも、覚悟の色が広がっていく。


 追い詰められた獣は、最後に牙を剥く。


 ここで戦闘になれば、こちらにも被害が出る。


 カディルの手が、剣の柄にかかった。


 緊張が、極限まで高まる。


 その時だった。


「武器を捨てれば、殺さない」


 レイスが、静かに言った。


 全員の視線が、若き領主に集中する。


「……何だと?」


「聞こえなかったか? 殺さない、と言った」


 ボズクルトの眉が、訝しげに寄せられる。


「……何を企んでいる」


「企み?」


 レイスの口元に、かすかな笑みが浮かんだ。


「貴様らには、使い道がある。——それだけだ」


 その言葉の意味を、この場の誰も理解できなかった。


 カディルでさえ、困惑した表情を浮かべている。


 ボズクルトは、しばらくレイスを睨みつけていた。


 だが、やがて——周囲を見回した。


 完全な包囲。逃げ場なし。戦えば、全滅する。


 そして、部下たちの顔。疲れ果てた顔。若い顔。傷だらけの顔。


 長い沈黙の後。


 ボズクルトは、戦斧を地面に落とした。


 乾いた音が、夜明けの森に響く。


「……いいだろう」


 その声には、敗北の苦さが滲んでいた。


「だが、覚えておけ。俺たちは降伏したんじゃねぇ。——『取引』に乗っただけだ」


「好きに解釈しろ」


 レイスは無表情のまま、兵士たちに命じた。


「全員を縛り上げろ。丁重にな。傷つけるなよ」


 カディルが、怪訝そうな顔でレイスを見た。


 だが、命令には従った。


 盗賊たちが次々と拘束されていく。


 抵抗する者は、一人もいなかった。


───


【第1刻限】残り6日 14時間 ─ 現在BP:0 / 目標BP:15


 朝日が昇る頃、一行はゲジェカレ城への帰路についていた。


 縄で繋がれた盗賊たちが、馬の後ろを歩かされている。


 その数、二十三人。


 黒狼団の主力は、ほぼ全員が捕縛されたことになる。


(やった……生きてる……全員生きてる……)


 レイスは内心で安堵の息をついた。


 奇襲は成功した。味方の死者はゼロ。負傷者も軽傷が数名のみ。


 盗賊側にも死者は出なかった。抵抗した者も、峰打ちや組み伏せで制圧できた。


(ゲームの『士気崩壊判定』、現実でも機能するんだ……)


 もっとも、それを確信できたのは、すべてが終わった後の話だ。


 作戦中は、ずっと胃が痛かった。


「閣下」


 カディルが馬を寄せてきた。


 その表情は、複雑だった。称賛と、困惑と、そして——疑問が入り混じっている。


「見事な采配でした。一夜にして、三年来の宿敵を……」


「運が良かっただけだ」


「ご謙遜を。しかし……」


 カディルは、後ろを歩く盗賊たちに目をやった。


「なぜ、殺さなかったのですか。奴らは盗賊です。処刑されて当然の——」


「カディル」


 レイスは前を向いたまま、静かに遮った。


「その答えは、城に戻ってから見せる」


「……は?」


「今は黙って従え」


 それ以上の説明はなかった。


 カディルは口を閉ざしたが、その目には疑問の色が消えていない。


(説明できないんだよね……「ゲームで雇用ルートがあったから」なんて)


 レイスは内心でため息をついた。


(まあ、結果で示すしかない。うまくいけば、だけど)


───


 ゲジェカレ城が見えてきた頃。


 異変に気づいたのは、カディルだった。


「……閣下。あれは」


 城門の前に、人だかりができている。


 領民たちだ。


 農民、商人、職人——老若男女が、城門の前に集まっている。


(なに、あれ……?)


 レイスが困惑していると、一行の姿を認めた誰かが叫んだ。


「領主様だ! お帰りになったぞ!」


 その声を皮切りに、歓声が沸き起こった。


「黒狼団を捕らえたんだ!」


「三年間、誰も捕まえられなかった盗賊を!」


「一晩で! たった一晩で!」


 城門をくぐると、両側に並んだ領民たちから、万雷の拍手が降り注いだ。


「領主様万歳!」


「カランルク家に栄光あれ!」


 レイスは、呆然としていた。


(え……なにこれ……)


 縄で繋がれた盗賊たちを見て、領民たちの顔には安堵と喜びが溢れている。


 三年間、彼らを苦しめてきた脅威。それが、ようやく取り除かれたのだ。


 兵士たちの表情も、出発時とは明らかに違っていた。


 誇らしげに胸を張り、領民たちの歓声に応えている。


 カディルが、小さく息を吐いた。


「……閣下」


「何だ」


「お見事でした」


 その声には、もはや疑念の色はなかった。


 純粋な称賛だけが、そこにあった。


 レイスは、無表情を保ったまま頷いた。


(いや、私は馬に乗ってただけなんだけど……)


(カディルと兵士たちが戦ったんだけど……)


(まあ、いいか。結果オーライで……)


 歓声の中を、一行は城の中へと進んでいった。


───


 盗賊たちを牢に収監した後。


 レイスは執務室で、しばしの休息を取った。


 休息といっても、椅子に座って目を閉じただけだ。


 徹夜明けの身体が、悲鳴を上げている。


(眠い……眠い……でも、まだやることがある……)


 一時間後。


 レイスは牢獄へと足を運んだ。


 地下の薄暗い通路を進むと、鉄格子の向こうにボズクルトの姿があった。


 他の盗賊たちとは別の、独房。首領に対する「敬意」というやつだ。


「よう」


 ボズクルトが、鉄格子越しにレイスを見上げた。


「『殺さない』ってのは本当か? それとも、やっぱり縛り首にするって話か」


「疑り深いな」


「三年も追われてりゃ、そうなる」


 レイスは、鉄格子の前に立った。


「殺さない。約束は守る。——その前に、話がある」


「話?」


 ボズクルトの目が、わずかに細くなる。


「森で言っていた『使い道』とやらか」


「察しがいいな」


 レイスは、淡々と告げた。


「貴様らを雇う」


 沈黙が落ちた。


 ボズクルトが、怪訝そうな顔でレイスを見つめている。


「……何だと?」


「聞こえなかったか? 雇う、と言った」


「盗賊を、か?」


「元盗賊を、だ」


 レイスは、感情を消した声で続けた。


「貴様らは三年間、この森を走り続けた。道を知っている。地形を知っている。どこに何があるか、誰よりも熟知している」


「……」


「その『足』を、盗みに使うのは惜しい」


 ボズクルトは、しばらく無言でレイスを見つめていた。


 やがて、その口元に皮肉な笑みが浮かんだ。


「面白ぇ領主だ。盗賊を兵にするってのか」


「違う」


 レイスは首を横に振った。


「走らせる。届けさせる。この領地の隅々まで、貴様らの足で繋いでみせろ」


「……届ける?」


「物資を。情報を。命令を」


 レイスは、ボズクルトの目を真っ直ぐに見つめた。


「貴様らが盗みで稼いだ金より、遥かに割のいい仕事だ」


 沈黙。


 ボズクルトは、じっとレイスを見つめている。


 その目には、様々な感情が渦巻いていた。


 困惑。疑念。そして——どこか、興味のような色。


「……条件は」


「名を変えろ」


 レイスは即答した。


「『黒狼団』は今日で終わりだ。今後は『黒猫運輸』と名乗れ」


「……黒猫、だと? 運輸?」


「迅速に。静かに。確実に届ける。——狼は目立ちすぎる。猫のように忍び、猫のように駆けろ」


 ボズクルトは、しばらく沈黙していた。


 その視線が、どこか遠くを見ている。


 おそらく、部下たちのことを考えているのだろう。


 三年間、追われ続けた日々。


 いつ殺されるか分からない毎日。


 それが終わる。


 屈辱的な形ではあるが——終わる。


 やがて。


 ボズクルトは、深く息を吐いた。


「……いいだろう」


 その声には、敗北の苦さと——かすかな安堵が入り混じっていた。


「狼は今日で死んだ。——明日からは、猫として走ってやる」


 レイスは、無表情のまま頷いた。


(よかった……交渉成立……)


(断られてたらどうしようかと……)


「明日、正式に契約を交わす。それまでに、部下たちにも話を通しておけ」


「ああ」


「あと、風呂に入れ。臭い」


「……うるせぇ」


 レイスは踵を返し、牢獄を後にした。


───


 執務室に戻ると、カディルが待っていた。


「閣下。牢に行かれたとか……」


「ああ」


 レイスは執務机の椅子に座り、深く息を吐いた。


「カディル。明日から、黒狼団は『黒猫運輸』として我々の配下になる」


 カディルの目が、大きく見開かれた。


「……は?」


「盗賊を、輸送部隊として雇う。物資の運搬、伝令、情報収集。彼らの『足』を使う」


「し、しかし……盗賊を配下にするなど……」


「カディル」


 レイスは、静かに問うた。


「死体は、走れるか」


「……は?」


「死体は、荷を運べるか。道を教えられるか。敵の動きを伝えられるか」


 カディルが言葉を詰まらせる。


「私が欲しいのは、死体ではない」


 レイスは淡々と告げた。


「使える駒だ」


 冷徹な言葉だった。


 だが、カディルは気づいていた。


 あの森で、誰一人として殺さなかったことを。


 殺せる状況で、殺さなかったことを。


「……御意」


 カディルは、深く頭を下げた。


 その胸の内で、主君への評価が音を立てて書き換えられていくのを感じていた。


「それと、カディル」


「は」


「井戸の水を届けさせろ。明日の朝でいい」


「……井戸、でございますか?」


「飲めない水で兵を養うつもりはない」


 レイスは、何でもないことのように告げた。


 カディルは、もはや驚かなかった。


 この主君が、どれほど先を見ているのか——その片鱗を、今日一日で嫌というほど見せつけられたからだ。


「……御意」


───


 カディルが去った後。


 レイスは執務室の椅子に深く沈み込み、天井を見上げた。


(はぁ……疲れた……)


(眠い……お尻痛い……全身痛い……)


(でも、とりあえず……うまくいった……のかな……)


 視界の端で、刻限のカウンターが時を刻んでいる。


 残り6日と12時間。


 まだ、BPは0のままだ。


 カディルとの契約には、至っていない。


(でも、少しは近づいた……はず……)


(次は水道。その次は食糧。その次は……)


 やることは山積みだ。


 だが、今日は——今日だけは——


(少し、寝よう……)


 レイスは目を閉じた。


 そのまま、深い眠りに落ちていく。


───


 その頃。


 ゲジェカレ城の廊下で、二人の兵士がひそひそと言葉を交わしていた。


「聞いたか? 閣下、盗賊どもを処刑せずに雇うらしいぜ」


「……正気か? あいつら、三年も俺たちを苦しめた連中だぞ」


「だよな。いくら閣下の命令でも、納得いかねぇよ」


 その会話を、通りがかったカディルは聞いていた。


 足を止めはしなかった。叱責もしなかった。


 ただ、廊下を歩きながら、静かに考えていた。


(閣下……あなたは、何を考えておられるのですか)


 疑念ではない。


 だが、理解できていないことも、また事実だった。


 あの森で見せた、常識外れの「勘」。


 盗賊を殺さず、雇うという判断。


 そして——「死体は走れるか」という、冷徹な問い。


(閣下は、あの日から変わられた…)


(以前にはない瞳の輝きは……まだ、わからない)


 カディルは、執務室の方角を振り返った。


 若き主君は、今頃眠っているだろう。


 その寝顔が、どれほど穏やかなものか——あるいは、どれほど疲れ果てたものか。


 カディルには、想像もつかなかった。


 夜明けの光が、廊下を白く染めていく。


 新しい一日が、始まろうとしていた。


 後世、この夜のことは「黒猫運輸創設夜話」として語り継がれることになる。


 若き辺境伯が、たった一夜で凶悪盗賊団を懐柔し、領地の礎を築いた——という、やや誇張された伝説として。


 もっとも、その瞬間、当の本人がしていたのは——椅子の上で、盛大にいびきをかくことだけであった。


---


【第1刻限】残り6日 12時間 ─ 現在BP:0 / 目標BP:15


<レイスのひと言:中途採用は即戦力に限る>


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