第14話「髪は女の命(エルフも同様)」
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フィーネの髪が、風になびいた。
黄金色の──いや、今は黄金とは呼べない。
くすんだ藁束のような色だ。
(……ひどいな、これは)
朝靄の中、渇きの川が静かに流れている。
レイスは川辺を歩きながら、隣を歩くフィーネを観察していた。
昨日の城下町視察の続きだ。
彼女との距離を縮めるため、毎日少しずつ領地を案内している。
川面を渡る風が、再びフィーネの髪を揺らした。
毛先は枝毛だらけで、絡まった箇所がいくつもある。
艶も潤いもなく、ただ乾ききった繊維の束がぶら下がっているだけだ。
(髪、全然手入れされてない。洞窟で何日も彷徨ってたんだから当然だけど)
風になびく髪を見て、フィーネ自身も気づいているのだろう。
彼女は時折、ばさばさの毛先を指でいじり、悲しそうに俯いていた。
(エルフにとって髪は命みたいなものでしょ。誇りを、こんな状態で放っておけるわけない)
「……戻るぞ」
レイスは踵を返した。
「え? まだ散策の途中では……」
「用事を思い出した。城に戻る」
(やることができた。戦力としての観察だけじゃなくて、まずは人間としてケアしないと)
(信頼関係って、こういう小さなことの積み重ねでしょ)
◇
城の厨房。
朝食の支度で活気づく中、レイスは料理長のアシュチュに指示を出していた。
「酢と、香油。それから卵を用意しろ」
「は? 閣下、それで何をお作りになるので?」
「錬金術だ」
レイスは勿体ぶって答えた。
実際には、ただのヘアケア用品の調合である。
石鹸で髪がギシギシになるのを、酢で整えて、油で守る。
要はそれだけだ。
(本当は高級トリートメントが欲しいけど、ないものは作るしかない)
(ああ、ドラッグストアに行きたい……)
手際よく酢を水で薄め、ローズマリーのハーブを漬け込む。
その横で、レイスはもう一つの「錬金術」も仕込んでいた。
卵と牛乳、そして貴重な砂糖を使った蒸し料理。
前世で言う「プリン」である。
「甘い香り……。閣下、これは?」
「『天使の雫』だ。疲労回復に効く」
(本当は「プリン」って言いたいけど、この世界じゃ通じないし。まあいいか)
アシュチュが感嘆の声を上げるのを尻目に、レイスは完成したプリンを冷やしながら呟いた。
「……甘いものには、苦い飲み物が合うんだよなぁ」
「ところでアシュチュ、この城にコーヒー豆はあるか」
「こーひー? 存じ上げませんな、そのような豆は」
(やっぱりないか……)
レイスはため息をついた。
コーヒーが恋しい。
だが、今はそんなことを調べている余裕もない。
「なにか?」
「いや、独り言だ。気にするな」
酢リンスの瓶を受け取り、レイスは厨房を後にした。
◇
昼食の時間。
食堂にて。
テーブルの上には、三つのプリンが並んでいた。
フィーネはスプーンを握りしめ、恐る恐る黄色い塊を口に運んだ。
瞬間。
彼女の瞳が、これ以上ないほど見開かれた。
「んっ……!」
咀嚼もそこそこに、次の一口を運ぶ。
その速度は、飢えた小動物のようだった。
あっという間に一つを完食。
彼女の視線が、レイスの皿に向けられる。
「……食うか?」
コクコク、と高速で頷く。
レイスが皿を差し出すと、それも瞬く間に胃袋へ消えた。
そして、彼女の視線は最後の皿──ナズの分へと向いた。
「あ、あの、フィーネ様? それは私の……」
ナズが抗議しようとした時には、既に遅かった。
空になった皿が、カタンと音を立てて置かれる。
フィーネは満足げに息をつき、口の端についたカラメルを舐めた。
そして──はっと我に返った。
蒼穹色の瞳が、空になった三つの皿と、呆然とするナズの顔を往復する。
「あ……」
フィーネの頬が、みるみる紅く染まった。
「も、申し訳ありません、ナズ様……! 私、つい……」
彼女は椅子から立ち上がり、深々と頭を下げた。
「甘いものを口にしたのが、久しぶりで……気づいたら……本当に、申し訳ありません……」
その姿は、叱られた子供のようだった。
ナズは一瞬きょとんとした後、ふっと表情を和らげた。
「……いいのですよ、フィーネ様。美味しそうに食べてくださって、私も嬉しいです」
「でも……」
「本当に。あとでお兄様に追加を作ってもらいますから」
ナズがにっこり笑う。
フィーネは顔を上げ、申し訳なさそうに、しかしどこか安堵した表情を浮かべた。
(……どんだけ甘味に飢えてたのよ)
(エルフって霞を食って生きてるイメージだったけど、この子は"甘味だけで生きていける"タイプだな)
レイスは心の中で苦笑しつつ、立ち上がった。
「腹も満ちたな。二人とも、私の部屋へ来い」
「はい、お兄様」
「……はい」
ナズは嬉しそうに、フィーネは少し警戒が解けた様子で、レイスの後についてきた。
◇
執務室にて。
レイスは酢リンスの瓶と二本の象牙の櫛をテーブルに置いた。
その傍らには、ぬるま湯を張った桶と、清潔な布が用意されている。
ふと、フィーネの手首に目が行った。
今日は長袖のローブを着ている。あの紋章は見えない。
(……昨日見た、あの紋章)
龍王家の刻印。
二万年前に滅びたはずの一族の証。
(今はまだ、聞けない。彼女自身も気づいていないみたいだし)
(……それに、聞いたところで何が変わる? 私の知識の外だ)
「これは……何でしょうか」
フィーネが首を傾げる。
「髪の手入れ用だ」
レイスはフィーネの髪を見やった。
「お前の髪、だいぶ傷んでいるだろう」
フィーネが、はっと自分の髪に触れた。
ばさばさの毛先。絡まった束。
その瞳に、微かな悲しみが浮かぶ。
「……はい。でも、どうすることも……」
「やり方を教える。ナズ、お前も聞いておけ」
「はい!」
ナズが目を輝かせる。
レイスは酢リンスの瓶を手に取った。
「この液で髪をすすぐと、艶が出る。使い方はこうだ」
水で薄めた酢リンスを少量手に取り、説明を続ける。
「まず絡まりを解いてから、毛先を中心になじませる。少し置いたら、ぬるま湯で軽くすすぐ。一気に櫛を通すな。毛先から少しずつ、丁寧に梳かすこと」
「なるほど……先人の知恵というものですね」
ナズが感心したように頷く。
「二人で互いにやってみろ。私がやるわけにはいかんからな」
(いくら中身が女でも、外見は男だし。若い娘の髪を触るのは、さすがにまずい)
「分かりました! フィーネ様、私が先にやりますね」
ナズがフィーネの後ろに回る。
フィーネは少し緊張した様子で椅子に座った。
「では、失礼しますね」
ナズの指がフィーネの髪に触れる。
「わあ……絡まりがひどいですね。でも大丈夫、綺麗にしますから」
ナズは毛先から丁寧に、少しずつ絡まりを解いていった。
フィーネは最初、体を強張らせていた。
だが、ナズの優しい手つきに、次第に力が抜けていく。
「フィーネ様、痛くありませんか?」
「……大丈夫、です」
「よかった。お兄様の教えてくださった方法、すごいですね。どんどん艶が出てきます」
ナズが酢リンスを髪になじませながら、嬉しそうに言う。
酢の酸っぱい匂いが漂うが、ローズマリーのハーブがそれを和らげている。
しばらく置いてから、ナズは桶のぬるま湯で丁寧にすすいだ。
布で軽く水気を取り、再び櫛で梳かしていく。
「ナズ様は……いつもこんなに優しいのですか?」
フィーネがぽつりと呟いた。
「え? 普通ですよ?」
「普通……」
フィーネは小さく首を振った。
「私には、普通が分かりません。記憶がないから……でも、これが普通なら、普通は……とても、温かいものなのですね」
その声には、どこか寂しさが滲んでいた。
ナズの手が一瞬止まり、そしてまた動き出す。
「……フィーネ様。記憶がなくても、これからたくさん『普通』を知っていけばいいんですよ」
「これから……」
「はい。私がお教えします。この城での普通。お兄様の領地での普通。美味しい『天使の雫』を食べることも、髪を綺麗にすることも、全部」
ナズの声は明るかった。
「あ……でも、『天使の雫』は私の分も残しておいてくださいね?」
フィーネの肩が小さく揺れた。
笑っているのだ。
「……はい。次は、ちゃんと残します」
「約束ですよ?」
「約束、です」
二人の間に、柔らかな空気が流れた。
レイスは窓際で書類に目を落としながら、その様子を見守っていた。
(いい感じだな。ナズとフィーネが仲良くなってくれれば、フィーネも居場所を感じやすくなる)
(契約条件の「帰属意識」にも繋がるはずだ)
◇
やがて、フィーネの髪の手入れが終わった。
「はい、できました!」
ナズが満足げに手を叩く。
フィーネが立ち上がり、手鏡を覗き込んだ。
そこには、黄金色の髪を持つエルフの美少女が映っていた。
くすんでいた色は輝きを取り戻し、毛先まで滑らかに流れている。
「……これが、私」
フィーネの声が震えていた。
「綺麗ですよ、フィーネ様。本当に」
「ありがとうございます、ナズ様」
フィーネが小さく頭を下げる。
その頬には、ほんのりと赤みが差していた。
「では、次は私の番ですね! フィーネ様、お願いできますか?」
「はい! もちろんです」
ナズが椅子に座り、黒檀色の髪をさらりと揺らした。
「その……上手にできるか分かりませんが……」
「大丈夫ですよ。さっき私がやったように、毛先から少しずつ」
「……はい」
フィーネの手が、ナズの髪に触れる。
最初はぎこちなかったが、少しずつ慣れていった。
「あ、フィーネ様、そこ気持ちいいです」
「ここですか?」
「はい、そこそこ。ふふ、上手ですね」
「……本当ですか?」
「本当ですよ。フィーネ様、手つきが優しいです」
ナズが目を細める。
フィーネの表情が、少しずつ和らいでいった。
酢リンスをなじませ、しばらく置いてから、ぬるま湯ですすぐ。
布で水気を取り、櫛で丁寧に梳かしていく。
その手つきは、もう迷いがなかった。
「ナズ様の髪、綺麗ですね。黒檀色……夜空みたいです」
「ありがとうございます。でも、フィーネ様の黄金色の方が素敵ですよ。陽の光みたいで」
「そんな……」
「本当です。さっきより、ずっと綺麗になりました」
二人は顔を見合わせて、小さく笑った。
レイスは書類から顔を上げ、その光景を眺めた。
(……いいな、こういうの)
(女子同士の会話って、見てるだけで和む。前世を思い出すわ)
◇
やがて、ナズの髪の手入れも終わった。
二人は並んで手鏡を覗き込み、互いの髪を褒め合っている。
その姿は、まるで姉妹のようだった。
フィーネが、ふとレイスの方を振り返った。
蒼穹色の瞳が、真っ直ぐにレイスを見つめる。
「レイス様」
「……なんだ」
「ありがとうございます、こんなことまでしていただいて…」
その声は、小さいけれど、確かな温もりを含んでいた。
「……当然のことをしただけだ」
(福利厚生の一環。従業員の身だしなみ管理。それだけ)
だが、フィーネの表情には、これまでにない変化が生まれていた。
警戒でも、怯えでもない。
小さな、しかし確かな信頼の芽生え。
フィーネは再び髪に触れ、小さく呟いた。
「……なぜだろう」
「何がだ」
「レイス様の側にいると、懐かしい気がするのです」
フィーネの声が、微かに揺れていた。
「どこかで……会ったことがあるような。でも、思い出せない」
(懐かしい? 私に?)
レイスは内心で首を傾げた。
(ゲームに存在しないキャラで、前世でも関わりがあるはずないんだけど)
(フィーネの記憶喪失と何か関係が……?)
ふと、彼女の手首が脳裏をよぎる。
(あの紋章。龍王家の紋章)
(……全部、繋がってる気がする。でも、その先が見えない)
答えは出ない。
「思い出せなくても、焦る必要はない」
「……はい」
フィーネは小さく頷いた。
その隣で、ナズが嬉しそうに二人を見ている。
「お兄様、私たち綺麗になりましたよね?」
「……ああ。二人とも、よく似合っている」
(お世辞じゃなく、本当に。やっぱり髪って大事だな)
---
その夜。
フィーネは自室で、窓から差し込む月明かりを見つめていた。
髪に触れる。
指通りが、嘘のように滑らかだ。
彼女は小さく呟いた。
「……なぜだろう」
その声は、誰に向けたものでもなかった。
記憶は戻らない。
だが、月明かりに照らされたその横顔には、微かな温もりが宿っているように見えた。
---
その頃──。
南の街道を、灰色の旗を掲げた騎馬隊が駆け抜けていた。
馬車を中心に、十数騎の護衛。
整然とした隊列が、夜の闇を切り裂いていく。
その旗に刻まれているのは、積まれたコインの紋章。
カランルク領の経済を握る男──「灰の伯爵」が、動き出していた。
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【第3刻限】残り18日 14時間 ─ 現在BP:40 / 目標BP:100
<レイスのひと言:髪のケアは福利厚生の一環>




