第11話 帳簿は嘘をつかない──妹姫、深夜の強制監査
【第2刻限】残り5日12時間 ─ 現在BP:15 / 目標BP:40
執務室の空気が、氷点下まで冷え込んでいた。
暖炉には火が入っているはずなのに、レイス・カランルクの背筋には悪寒が走る。
(怖い。シンプルに怖い)
(普段は可愛い妹なのに、帳簿を持った瞬間、鬼会計監査官になるのはなんで?)
原因は、目の前に座る異母妹、ナズ・カランルクだ。
愛らしい顔は能面のように無表情。
羽ペンは鬼のような速度で走り続けている。
カリカリカリカリカリ……。
静寂の中に、ペン先が羊皮紙を削る音だけが響く。
その音は、企業の不正会計を追及する監査法人の足音にすら聞こえた。
タジル商会との契約から、数日が経っていた。
黒曜石鹸の製造は軌道に乗り、初回の出荷も無事に完了している。
領地にはようやく、希望の光が差し込み始めていた──はずだった。
レイスは手元の書類──『資材在庫報告書』を見たまま、身じろぎ一つできない。
「お兄様」
不意にペンの音が止まる。
「……なんだ」
「計算が、合いません」
ナズの声は、絶対零度だった。
「黒曜石の採掘量と石鹸の出荷量。そして残存在庫。……どう計算しても一割。粉末にして樽三つ分が消えています」
レイスは内心で深いため息をついた。
一割の在庫ズレ。
誤差で済ませるには大きすぎる。
(粉飾か、横領か、それともサボタージュか)
(せっかく軌道に乗ったのに、これだ。組織が大きくなると必ず膿が出る)
原因は分かっている。
生産ライン拡大のために急遽雇い入れた人員の中に、ネズミが紛れ込んでいる。
おそらくはカランルクの復興を快く思わない連中の差し金だ。
「ナズ。お前の見立ては?」
「……人為的なズレです。現場の報告書が改ざんされています」
ナズの深紫の瞳に、静かな怒りが燃えていた。
兄の領地を汚す行為は、彼女にとって万死に値する。
レイスは椅子に深く腰掛け、組んだ指の上に顎を乗せた。
ここで自分が乗り出し、犯人を吊るし上げるのは簡単だ。
「ゲーム知識」を使えば、誰がスパイかの見当もついている。
だが、それでは意味がない。
領地はこれからもっと大きくなる。
その時、全ての不正を自分がチェックするわけにはいかないのだ。
(ここは、任せるべきだな)
(上司の仕事は、部下に責任と権限を与えることだ)
レイスは静かに告げた。
「ナズ。お前に権限を与える」
「え……?」
「お前の計算を信じる。現場へ行き、その数字で真実を暴いてこい」
ナズが息を呑む。
深紫の瞳が揺れた。
「わ、私がですか? しかし、私はただの……」
「ただの妹ではない。お前は私の『右腕』だ」
レイスは努めて尊大な笑みを浮かべた。
「先日教えた『数字』があれば、お前は誰にも負けない。行ってこい」
ナズの表情が引き締まる。
能面のような冷徹さの下に、確かな熱が宿った。
「──はい! お兄様の敵は、私が一銅貨たりとも逃しません!」
(目が光ってるよナズちゃん)
こうして、深夜の強制監査が幕を開けた。
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資材倉庫の扉が開かれる。
深夜の倉庫には冷たい夜気が満ちていた。
ランタンの明かりに照らされたのは、積み上げられた木箱と──一人の男。
倉庫番のハサン。
今回の増産で雇われた古株の男だ。
人の良さそうな顔をしているが、目は笑っていない。
「おや、こんな夜更けに領主様と姫様とは。何かご用ですかな?」
揉み手で近づく態度は慇懃無礼そのものだった。
レイスは一歩引き、ナズを前に出す。
今日の主役は彼女だ。
「ハサン。在庫の確認に来ました」
ナズが凛とした声で言う。
「在庫? はて、報告書は提出しましたが。数字は合っているはずですぞ」
「合いません。樽三つ分、足りないのです」
ハサンは鼻で笑った。
「姫様、現場を知らないと困りますなぁ。石ってのは砕けば粉になって飛ぶし、運搬中にこぼれもする。数字通りにはいかないもんです」
そう言って、ハサンは分厚い帳簿を取り出した。
汚い文字と複雑怪奇な記号がびっしり。
わざと複雑にして読み解く気を失せさせる──煙幕のような帳簿だ。
「ほら、ここを見てくだせぇ。搬入時のロスがここで、加工時のロスがここで……全部つじつまは合ってるんでさぁ」
勝ち誇った顔。
"数字に疎い貴族の娘など簡単に丸め込める"と言外に語っている。
だが。
「……いいえ。合いません」
ナズは動じなかった。
彼女は真新しい羊皮紙を開く。
そこに並ぶのは、整然とした「0」から「9」──レイスが教えた記数法だ。
「私の計算では、搬入時のロスは最大でも2パーセント。あなたの報告は8パーセント。異常値です」
「なっ……なんだその奇妙な記号は! そんなもん、証拠になるか!」
「なります」
ナズの声が、カミソリのように空気を裂く。
「この帳簿は『複式』で記録されています。
入りと出。右と左。
すべての動きは必ず対になって記録される」
ナズはハサンの帳簿を指差した。
「あなたが『ロス』として処理した分。これに対応する『廃棄記録』がありません」
「……っ」
「捨てたのなら、捨てた場所と量が必要です。もし捨てていないのなら──」
ナズが一歩踏み出す。
「それは、どこへ行ったのですか?」
「そ、それは……川に流したとか、そういう……」
「川の水位と流速から計算して、それだけ大量の粉末を流せば下流で濁りと沈殿が起きます。ここ数日の巡回では、それが確認されていません」
「ぐっ……!」
ハサンが後ずさる。
ナズの口から出るのは、冷徹な事実と数字だけ。
感情論も、言い訳も、恫喝も──すべて「計算」という刃の前では無力だった。
「数字は嘘をつきません。嘘をつくのは、人間です」
深紫の瞳が、まっすぐハサンを射抜く。
その姿は可憐な少女ではない。
不正を許さぬ『影の執政官』そのものだった。
「ひ、ひぃ……!」
ハサンはその場にへたり込む。
「も、申し訳ありませんでした。は、吐きます! 全部吐きます!」
レイスは後ろで腕を組みながら、内心で拍手を送っていた。
(完勝だ。教えたばかりなのにもう使いこなしてる)
レイスが合図すると、控えていたカディル率いる兵が現れ、ハサンを拘束した。
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ハサンが連行され、倉庫に静寂が戻る。
ドゥマン家の指示で、生産ラインを混乱させるため資材を横流ししていたらしい。
すべては自白通りだ。
ナズが、ふぅ、と小さく息を吐いて肩の力を抜いた。
背中が、まだ少し震えている。
「……ナズ」
「あ……お兄様」
振り返った顔は、先程までの鬼の形相ではなく、いつもの不安げな少女に戻っていた。
「わ、私……出過ぎた真似を……」
「いいや。見事だった」
レイスは歩み寄り、彼女の頭に手を置く。
「お前が計算を諦めなかったから、膿を出せた。……誇っていい」
「──っ!」
ナズの瞳に涙が滲む。
悲しみではない。認められた歓喜の涙だった。
「はい……! 私、この『数字』を使って、お兄様の領地を一銅貨たりとも無駄にはさせません!
お兄様の敵は、私が計算で追い詰めてみせます!」
拳を握りしめて宣言するナズ。
その背後に、メラメラと炎のような闘志が見える気がした。
(……うん、頼もしいけど)
(「計算で追い詰める」って表現、なんか怖くない?)
レイスは引きつった笑みを浮かべた。
ブラコンが悪化し、さらに「計数管理」という武器を手に入れた妹。
彼女が将来、大陸中の商人と政治家を震え上がらせる『氷の宰相』と呼ばれる片鱗が、確かにそこにあった。
後世の歴史家は、この夜を『カランルクの奇跡的な財政再建の始まり』と記すだろう。
もっとも当のレイスは『小遣いの使い道を監査される未来』に戦々恐々としていたのだが。
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翌朝。
執務室に届いた報告は、予想通りのものだった。
「閣下。ハサンの拘束を受け、増産ラインの人員が動揺しております」
カディルが渋い顔で続ける。
「本日の生産量は、予定の六割にとどまる見込みです。また、ハサンと親しかった職人が三名、無断で姿を消しました」
レイスは眉をひそめた。
(……まあ、そうなるよね)
(不正を暴けば、必ず反動が来る。組織ってそういうもの)
膿を出した代償は、一時的な生産低下と人員流出。
タジル商会への納品に支障が出れば、せっかく築いた信用も揺らぐ。
「カディル。残った職人に増産手当を出せ。それと、逃げた三名の行き先を追え。……ドゥマン領に向かっているなら、放っておけ」
「放置、ですか?」
「追いかけて捕まえても、また裏切る。それより、残った者の士気を上げろ」
カディルは深く頷いた。
「御意。さすがは閣下、先を見通しておられる」
(いや、単に追いかけるの面倒なだけなんだけど)
レイスは内心でため息をつきながら、窓の外を見た。
空は晴れている。
だが南の方角に、かすかに灰色の煙が見える気がした。
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一方、遠く離れたドゥマン領。
薄暗い執務室で、一通の報告書が灰皿の上で、燃やされていた。
「……失敗したか」
当主ケマル・ドゥマンは、灰になる紙片を無感情に見つめる。
灰色の髪、灰緑色の瞳。
煙のように掴みどころのない男が、初めて明確な警戒の色を瞳に宿した。
「カランルクの小僧……ただの無能ではないようだな」
ハサンは捨て駒だ。捕まることも想定内。
だが「帳簿の矛盾」から、ここまで迅速に看破されるのは計算外だった。
そして何より──妹姫の存在。
「あの小娘、侮れん。……次は、煙に巻くだけでは済まさんぞ」
ケマルが指を鳴らすと、影から一人の男が現れた。
「アテシュ家に使いを出せ。『時期が来た』とな」
「御意」
影が消える。
南の空に、再びきな臭い煙が立ち上り始めていた。
それが『煙の伯爵』の陰謀の煙であることを、レイスはまだ知らない。
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【第2刻限】残り5日9時間 ─ 現在BP:15 / 目標BP:40
<レイスのひと言:経理部門を敵に回すな>




