大事な右腕
夕闇が辺境の領地を優しく包み込み、新設された大浴場の煙突からは、ゆったりと煙が立ち昇っている。 一日の仕事を終えた静寂の中、リリアーヌは屋敷のテラスで夜風に当たっていた。
「……あーあ。今日も一日、よく働いたねぇ」
手すりに身を預け、前世では見ることのなかった満天の星空を仰ぐ。 そこへ、規則正しい、けれどどこか迷いのある足音が近づいてきた。
「まだ起きていたのか」
カイルだ。彼はリリアーヌの隣に並ぶと、彼女と同じように夜の地平線を見つめた。
「カイルさんこそ。騎士様の夜回りは熱心だねぇ。それとも、私の顔を見ないと眠れなくなっちゃったかい?」
いつもの軽口。だが、隣の男からはいつものような反論が返ってこない。 リリアーヌが不思議に思って視線を向けると、カイルは真っ直ぐに彼女を見つめていた。その瞳には、月光を反射した騎士の誇りと、それ以上に熱い「情」が宿っている。
「……リリアーヌ。俺は、王都へ戻るのをやめようと思っている」
「……は?」
リリアーヌは思わず、咥えていた菓子の棒を落としそうになった。
「あんた、何を馬鹿なことを。近衛騎士団長が持ち場を捨てるなんて、それこそ『ケジメ』案件だよ? 王家に対する反逆だって取られかねない」
「分かっている。だが、王都に戻って、心にもない忠誠を誓いながら、君がここで作り上げている輝きを遠くから眺めているだけなんて……俺にはできそうにない」
カイルは一歩、リリアーヌに歩み寄る。 その距離は、護衛としても、監視役としても近すぎる。だが、リリアーヌは退かなかった。
「君の隣で、君のルール(掟)がこの世界を変えていくのを、一番近くで見ていたいんだ。……俺は、君という人間に、魂を奪われたらしい」
「……」
リリアーヌは絶句した。 前世で数多の男たちに「姐さん、一生ついていきます!」と頭を下げられてきたが、目の前の男の言葉には、それらとは全く違う響きがあった。 忠誠心なんて便利な言葉じゃ片付けられない、もっと泥臭くて、真っ直ぐな、一人の男としての告白。
「リリアーヌ。監視役としてではなく、君の『ファミリー』の一員として……ずっと、ここにいてもいいか?」
月明かりの下、最強の騎士が、まるで迷子の子供のような、あるいは覚悟を決めた勝負師のような顔で、彼女の答えを待っている。
リリアーヌは一瞬、呆然とした後に、ふっと小さく吹き出した。 そして、わざと意地の悪い笑みを浮かべて、彼の胸元を指先で突く。
「……あんた、自分が何を言ってるか分かってるのかい? 私のシマに入るってことは、逃げ出そうとしたら足洗わせるじゃ済まないよ?」
「望むところだ。君が地獄へ行くなら、俺がその門番になろう」
「ははっ、重いねぇ! さすがは騎士様だ」
リリアーヌは手すりから身を離すと、カイルの手を強く握りしめた。 その手は武骨で、剣だこで硬かったけれど、驚くほど温かい。
「いいよ。あんたみたいな腕の立つ用心棒、他所で雇ったら高くつくからね。……歓迎するよ、カイル。私の『身内』へようこそ」
カイルの表情が、一気に崩れるように和らぐ。 リリアーヌはそのまま彼の手を引き寄せ、耳元で悪戯っぽく囁いた。
「あ、でも一つ言っておくよ。うちのシマの人間は、私の言うことは絶対だから。——明日から学校の増築、手伝ってもらうからね、先生?」
「……ああ。君の命令なら、喜んで」
二人の影が、月明かりのテラスに長く伸びて重なる。 破滅フラグなんてどこ吹く風。最強の姐さんは、ついにこの世界で一番頼りになる「右腕」を手に入れたのだった。




