「看板」と「中身」
二千の正規軍が、戦わずしてただの「震える群衆」に成り果てた街道の真ん中。 馬からずり落ち、尻餅をついたエドワード王子の前で、リリアーヌはゆっくりと、獲物を追い詰める肉食獣のような足取りで歩み寄った。
「な、来ないでくれ……! 僕は王子だぞ! こんな無礼、許されると思っているのか……っ」
震える手で剣を抜こうとする王子。だが、その剣先は生まれたての小鹿のように揺れている。 リリアーヌは鼻で笑うと、その剣を扇子で軽く弾き飛ばした。
「……王子、ね。あんた、さっきからそれしか言ってないよ?」
彼女は王子の前にしゃがみ込み、至近距離でその瞳を覗き込んだ。 逃げ場のない、深淵のような黒い瞳。
「いいかい、エドワード。あんたが持ってるその『権力』ってやつ、前世……じゃなくて私の故郷じゃ、ただの『看板』に過ぎないんだよ。看板ってのはさ、中身が伴って初めて意味を成すんだ」
「な、中身だと……?」
「そうだよ。あんた、自分の力で誰かを守ったことがあるかい? 自分の足で泥を被って、誰かのために頭を下げたことがあるかい? ……ないだろうね。あんたにあるのは、親からもらった血筋と、虎の威を借る狐みたいな虚栄心だけだ」
リリアーヌは、王子の豪華なマントの襟首を掴み、無理やり自分の方へ引き寄せた。
「見てみなよ、あんたの連れてきた兵隊たちの顔を。誰一人、あんたのために死のうなんて思ってない。みんな、あんたの『わがまま』に付き合わされて、私の用意した飯の匂いに負けてる。……これが、あんたの築いてきた『忠誠』の正体だよ。安っぽいねぇ」
「う、あ……あぁ……」
エドワードの目から、大粒の涙が溢れ出した。 暴力で殴られるよりも深く、リリアーヌの言葉という名の「ドス」が、彼のプライドを木っ端微塵に切り刻んでいく。
「あんたが『悪役』と呼んだ私はね、この土地の連中と泥にまみれて、一緒に汗を流して、一つのテーブルで飯を食ってきた。……あんたに、彼らの名前が一人でも言えるかい? 彼らが何に困って、何に笑うか、考えたことが一度でもあるかい?」
リリアーヌは掴んでいた襟を放り投げ、ゴミでも見るような冷めた視線を投げた。
「自分のシマ(国)も愛せないようなガキに、私を裁く資格なんてないんだよ。……帰りな。あんたの居場所は、ここにはない。王都の温かい揺り籠の中で、一生ママに泣きついてなよ」
「……ひ、ひいぃっ!」
エドワードは、もはや言葉を返す気力すら残っていなかった。 彼は、リリアーヌの背後に、自分を飲み込もうとする巨大な闇の王座を見た。 完敗だった。武力でも、器でも、そして「人間」としても。
「……カイル。このガキを馬に乗せて、王都まで送ってやりな。道中、私たちの造った『立派な道路』をしっかり見せてあげるんだよ。——次は、ないってことも伝えてね」
「……御意、姉御」
カイルは冷徹な一礼をすると、抜け殻のようになった王子を拾い上げた。
静まり返る街道。 リリアーヌは大きく伸びをすると、集まった領民と元野盗たちに向かって、太陽のような不敵な笑みを浮かべた。
「さて! 邪魔者は消えたよ! ……野郎ども、炊き出しの準備だ! 今日は祝杯だよ!」
「「「おぉぉぉぉぉ!!!」」」
辺境の地に、王都まで届かんばかりの勝鬨が響き渡った。 悪役令嬢でもなく、ただの令嬢でもない。 一人の「姐さん」が、この国に新しい夜明けを連れてきた瞬間だった。




