影の右腕——完璧なる無力化
リリアーヌが街道の真ん中で王子を釘付けにしている頃、カイルは音もなく森の影を駆けていた。 かつての白銀の甲冑は脱ぎ捨て、今はリリアーヌに贈られた漆黒の隠密服に身を包んでいる。
「……悪いが、ここから先は『姉御』の逆鱗に触れる。通すわけにはいかない」
カイルは、本隊から離れて側面から領地へ侵入しようとしていた偵察部隊の背後に、幽霊のように現れた。
「な、カイル様!? なぜ貴方がここに……っ」
兵士たちが驚愕で声を上げるより早く、カイルの身体が動く。 抜刀はしない。鞘に入ったままの剣を、急所に、最短距離で叩き込む。
「ぐっ……!」 「あ……」
一撃、また一撃。 騎士団長時代、誰よりも模範的で「正道」の剣を振るっていた男が、今はリリアーヌの戦い方に染まり、効率的で慈悲のない「制圧」を繰り返していく。
「カイル様! 乱心されたか! 貴方は王家に忠誠を誓ったはずだ!」
残った兵士が叫ぶ。カイルはその言葉を、氷のような瞳で切り捨てた。
「忠誠なら、今は別の場所に預けている。……それに、君たちはまだ気づいていないのか?」
カイルが指差した先、後方の補給部隊の方角から、黒い煙が立ち昇った。 だが、それは火災の煙ではない。リリアーヌの指示で元野盗たちが調合した『特製催涙煙弾(胡椒入り)』の煙だ。
「……っ、うわああ! 目が、目がぁぁぁ!」 「喉が焼ける! 水だ、水を……!」
後方の補給路は、カイルが事前に手配していたジャックたちの手によって、完全に遮断されていた。 武器を奪うのではない。食糧を、水を、そして「戦う気力」を、騎士の常識を外れた卑劣な——否、効率的な手段で奪っていく。
「さて。次は指揮系統だ」
カイルは混乱する軍の隙を突き、本陣近くの副官たちの馬の脚を、正確に小石の投擲で狙い撃つ。 次々と落馬する指揮官たち。命令が届かなくなり、二千の兵はただの「怯えた群衆」へと成り下がった。
カイルは最後の一人を気絶させると、乱れた髪を無造作に払い、リリアーヌが待つ街道へと姿を現した。 彼の服には返り血一滴ついていない。
「……リリアーヌ。横槍はすべて折っておいた。あとは君の好きにしろ」
リリアーヌの隣に跪き、淡々と報告するカイル。 その冷徹なまでの有能さと、彼女にだけ向ける絶対的な信服の眼差しに、馬上のエドワード王子は恐怖で顔を歪ませた。
「カ、カイル……! 君までそんな、薄汚い野党のような真似を……!」
「……野盗、か。そう見えるならそれでいい」
カイルは腰の剣をわずかに抜き、その切っ先を王子に向けた。
「だが、この男たちには君の知らない『筋』がある。それを踏みにじった代償は、高くつくぞ。……さあ、姉御の問いに答えろ。ここで消えるか、それとも膝を折るかだ」
リリアーヌの圧倒的な「静」の圧力と、カイルの研ぎ澄まされた「動」の殺意。 二つの最強に挟み撃ちにされた正規軍は、もはや一歩も動くことができなかった。




