【第1話】04
「どうかなさいました?」
振り返ると、ビルの入り口の前に黒いスーツを着た細身の女性が立っていた。
黒い傘にかくれて顔は見えないが、品のある透き通った声だ。
「この野郎がね、おいらのことを邪魔だの生ゴミ臭いだの、モグラ野郎だのって、酷い言葉を浴びせるんですよ……」
ボロ雑巾のように絞られたモグラが、情けない声でうったえた。
「そんな酷いこと言ってないだろ! お前が階段で寝っ転がってるから注意しただけだろうが!」
若い男はネコでも掴むように襟首へ手を伸ばすと、僧帽筋と三角筋を隆起させつつモグラの細い体を軽々と持ち上げた。
ぶんぶんと揺さぶられたモグラは、すっかり戦意喪失だ。
そんな光景を前にして、女性は慌てることもなく傘の柄を肩に掛けると、おもむろに鞄からファイルを取り出した。
「二階の居酒屋『鳥家族』の店長様ですね。オーナー様や他の入居者様から共用部分の使用に関するトラブルの報告を受けています。ゴミ出しのルールを守らない、内階段に食材を積み上げる、客の吐瀉物を放置する等々……。これ以上トラブルが続くようであれば、退去していただくことなりますが……」
すると店長と呼ばれた若い男は、一転態度をやわらげた。
「もちろんトラブルなんか起こしませんよ、ちょっとじゃれ合ってただけだからね! あんたも安くしてやるから、今晩ウチの店に呑みに来なよ! ……じゃあ俺はこれで!」
よれよれになったモグラの背中をバシッと叩き、逃げるように内階段を駆け上がっていく店長。
その姿を見送った女性は差していた傘を畳むと、ゆっくりとガラスドアを開けて入ってきた。
そして、くしゃくしゃに崩折れているモグラに、そっと手を差し出す。
「あんな筋肉でじゃれてきたら、たまったものじゃないですよね……」
品のある美しい声に、うなだれていたモグラが顔を上げる。
その女性は、鮮やかな青いスカーフを首に巻き、長い黒髪を後ろでまとめていた。
細い銀縁の眼鏡越しに向ける女性の優しい眼差しを見たとたん、モグラの垂れた目尻がグインと釣り上がり、ぐにゃりと折れ曲がっていた口髭が、ぴんっと張りを取り戻した。
差し出された女性の白くたおやかな手を両手でギュッと握りしめ、弾かれたようにすっくと立ち上がる。
「力だけが頼りの若造なんか全く恐くないですよ。何事においても男は経験がモノを言うのです。彼とわたしでは重ねてきた経験に雲泥の差がありますから、その場を丸く収めるために、ワザと負けたフリをしてあげたのです、ワザとね……。お名前をよろしいですか?」
「穴場ホームズの二条美華と申します。もしかして、お電話いただいた神宮寺様でございますか?」
「ああっ! 穴場ホームズさん遅いよ、いったい何分遅刻……」
怒鳴り声をあげたメグルの前に、即座にモグラが立ち塞がった。
「全然……待っておりませんよ。そう、わたしが九階の内見をお願いした神宮寺雅貴(偽名)です。さあ、参りましょう!」




