【第9話】02
見上げれば茜色に染まる空に、薄紫のグラデーションがかかり始めている。
公園から自転車で一〇分ほど走った団地で、加藤誠司は自転車を止めた。
振り返ると、へろへろになりながら走ってくるメグルの姿が小さく見える。
「あいつ、意外と根性あるな……」
団地の階段を三階まで駆け上がり、ドアの前で加藤誠司は振り返った。
「よく見とけ、絶対にドアの外で弁当を渡すんだ。中へ入るなよ」
ようやく追いついたメグルが、膝に手をついて懸命に息を整えながら頷くのを見て、加藤誠司がブザーを押した。
しばらくして勢いよくドアが開き、スウェットの上下を着た細身の若い女性が顔を出した。
「おせーよ、もう酎ハイ二缶も空けちまったよ……。あっ、誠司くんじゃん、久しぶり~っ!」
「中村さんお久っす。弁当遅くなりました」
いきなり女性が抱きついてきたが、加藤誠司は落ち着いて対応していた。
「いいのよ、誠司くんなら……ねぇ、ちょっと上がってきなよ」
中村と呼ばれた女性が酒臭い息を吐きながら腕を引っ張るが、加藤誠司は一歩も動かない。
「すんません、もう一軒配達あるんで」
「ええ~っ、いいじゃん、ちょっとくらい付き合ってよ」
「……赤ちゃん、泣いてますから」
女性の背後から赤ちゃんの泣き声がする。
振り返った女性は部屋の中に向かって舌打ちした。
玄関から廊下まで缶酎ハイの空き缶などが入ったゴミ袋で埋まり、こここからでは部屋の様子は伺えない。
「……ったく、夜中っから明け方まで、ず~っと泣いてんの。ノイローゼになっちまうよ」
「たまには子ども食堂、来てくださいよ。赤ちゃん連れのお母さんもよく来るんですよ」
「……わたし、あーゆーとこ苦手。じゃあね」
派手な音を立てて玄関のドアが閉まる。
加藤誠司はメグルに振り返ると、ふんっと鼻を鳴らして笑顔を見せた。
「結構メンタルにくるだろ? 初めて見るやつはショックだよな」
階段を下りながら、話を続ける。
「俺の家もあんなんだったから別に慣れたもんだけど、俺のダチは配達始めてから、いつのまにか子ども食堂に来なくなっちまったよ。中坊の頃からずーっと『つながり』に来てたやつがそれきりだぜ。あそこでしか会ったことないから家とか知らないし、携帯で連絡も取れなくなるしよ……」
「えっ、連絡も?」
階段を降りて団地を振り返った加藤誠司につられて、メグルも団地をふり仰ぐ。
夕闇に沈んだ四階建ての団地は、ほとんどの部屋に明かりが灯っていた。
夕食の準備をしているのだろう、様々な料理の匂いがあちこちから漂っている。
「嫌になっちまったのかなぁ、いろんな現実見せられて……。とくにここ一年くらい、俺が知ってるやつだけで五~六人は辞めてるよ。そうやってみんな『つながり』からいなくなっていくんだ。まあ、俺も来年高校卒業するし、東京に行くつもりだけどな……」
「東京へ……就職とか?」
「調免とって店開きたいんだ。中坊の頃、初めて『つながり』の飯食ったときに決めたんだ。おれも坂田さんみたいに温ったけぇ心のこもった飯を作るんだってな!」
加藤誠司はとつぜん気が付いたように、メグルに言った。
「あ、中村さんも酒入ってなけりゃあ結構いい人だから、あんま気にすんなよ? お前が軽々しく配達手伝いたいって言うから、まずはダークな現実、見せてやろうと思ってよ」
「雨宮さんも配達してたんですよね?」
「香澄? ああやってるよ。たまに体触ってきたり、部屋に連れ込もうとする奴がいるとか愚痴ってたけどなぁ〜」
「ええっ、そんな危ないこともあるんですか?」
「まあ、たまにな……。だから配達を子どもたちに任せるようになった坂田さんに反感を持つやつも何人かはいるよ。なんで俺たちにこんな仕事まかせるんだってな……。
だけどガキの頃から世話になってるし、ほとんど一人で切り盛りしてる坂田さんを見れば、多少嫌なことがあってもみんな手伝うんだ。先輩たちもそうやって『つながり』を支えてきたわけだしよ……」
加藤誠司は気持ちを切り替えるよう、大きく背伸びをした。
「でもよ、俺はやりがいを感じてるんだ。初めて弁当届けたとき、俺より遥か年上のばあさんが、すごく丁寧にお礼をするんだ。俺みたいなチャラついた若造に頭を下げるんだぜ? ガツンッて頭を殴られた気がしたよ……。
あの瞬間、俺の見ていた世界が一八〇度変わったんだ。人に迷惑かけてばっかの俺が、人の役に立ちたいって本気で思った。……これも全部、坂田さんのおかげだよな」
しんみりと語る加藤誠司に、メグルが質問する。
「疑問を持ちつつも、誠司くんやほとんどのひとは坂田さんを信頼してるってことですね?」
片方の眉根を上げて、誠司がメグルの背中を蹴るフリをする。
「たりめーだろ! 母親のいない俺にとっては、本物の母親みたいな存在だぜ、なめんなよ!」
「そうゆうわけですか……」
加藤誠司は颯爽と自転車にまたがり、制服のポケットからメモ用紙を取り出した。
「次は一人暮らしのじいさんだ。足が悪くてなかなか外出できないんだってよ。俺も行くのは初めてだな……」
スマートフォンの地図でルート検索しながら、誠司が自転車を漕ぎだす。
その後を、あわててメグルも走って追いかけた。




