【第4話】02
午後五時十三分……。
フィットネスジムの壁一面の鏡に向かいながら、メグルはひとり策を練っていた。
フィットネスジムで殺人事件が起きたのは三ヶ月前。
そして魔鬼がこの場所に目をつけ、越界門を開いたのは二ヶ月前の満月の夜。
そのとき人間界へ入界させた越界者のうち何人かは、直接、魔鬼の手足となって動いているはずだ……。
くせのある前髪をくるくると人差し指に巻きつけながら、メグルは考えた。
モグラが危惧するのも十分わかる。
林杏香と二条美華の関係は、単に顧客と仲介業者というよりは、魔鬼と越界者の主従関係のようにも見える。
だとしたら解せないのは、なぜ新たに入居者など募集し、あんなにも契約させようと焦っているかだ。
こんな条件のいい越界門は、これからも空き物件のままにして、いつまでも使い続けたいはず。
故にあの二人が本当に魔鬼と越界者ならば、逆に入居希望者を近づけないようにするはずなんだ……。
メグルは気がついたように、ポケットの中から名刺を取り出した。
二条美華にもらった、本来内見に立ち会うはずだった門田熊雄の名刺――。
名刺の裏に点々と血しぶきのような滲みがある。
「やっぱり、携帯電話くらい契約しないと不便でしょうがないな……」
メグルは立ち上がって辺りを見回した。
受付に埃をかぶった固定電話がある。
緑色のLEDが光っているのをみて、駄目もとで外線ボタンを押し受話器を耳に当ててみた。
「驚いたな。使えるぞ、この電話……」
*
一方モグラは、開店前の二階の居酒屋『鳥家族』に押しかけていた。
ついさっき揉めたばかりの店長に無理を言って、入店させて貰ったのだ。
「まったく、できの悪い息子を持つと親も大変だぜ……」
カウンターで冷酒を三杯飲んで、すでにモグラは出来上がっていた。
「あんまり似てねえ息子だな」
目のまえで店長が鶏肉を串に刺している。
「ありゃ養子だ。おいらの息子ならもうちっと器量がいい」
ふんっと鼻を鳴らすだけで、店長は目も合わさずに訊ねた。
「で、契約したのかい? 九階の物件」
「なんで知ってるんだ? おいらたちが九階の内見に来たって?」
「だって美沙衣ちゃんと一緒にいたじゃないか……。まあ、どうせご破算なんだろ? もう何人も内見に来ているが、契約がまとまった事なんて一度もないからな。俺としては誰でもいいから、さっさとジムを再開してくれないと体がなまっちまうぜ……」
作業を止めて、自慢の上腕二頭筋をぱしぱしと叩いた。
「美沙衣ちゃん……? あの仲介業者は二条美華って娘だぜ、人違いじゃないのか?」
「何言ってるんだ、俺もあのジムに通ってたんだから間違いない。雰囲気は変わっちまったがジムの経営者兼インストラクターをやっていた、林美沙衣ちゃんだ」
「あの娘が以前の経営者でインストラクター……? しかも林って……」
一升瓶を抱えながら、モグラが眉をしかめる。
「そうだよ。彼女はオーナーの妹で渦中の人物さ……。まあ、ご破算てことであんたも知ってるだろうが、例の殺人事件以降、ジムも廃業に追い込まれるし、彼女も随分メンタルをやられちゃってさ……。よくウチで酒飲みながら、死にたいなんてボヤいてたよ……」
店長は肉を刺した串を数本、焼き台に乗せながら続けた。
「バカなこと言ってんじゃねぇ、あんたの責任じゃないし、いつかは報われるって俺は励ましてたんだけどな……」
自ら冷酒をコップに注ぎながら、モグラが訊ねた。
「なんでぇ、よく知った仲じゃねぇか。昼間に顔合わした時は、なんか他人行儀に見えたぜぇ……?」
炭火に炙られ、ちりちりと音を立てる焼き鳥に視線を落としながら、店長が寂しそうにこたえた。
「彼女、ある日を境にとつぜん別人みたいに変わったんだよ。いつもジャージ姿だったのに、普段着ないようなスーツ姿になって目つきも鋭くなっちゃってさ……。
ある朝、挨拶したんだけど、俺のことなんて知らないみたいに無視されたよ。自殺なんかしないで強くなったのはいいけど、俺は以前のほんわかした美沙衣ちゃんの方が好きだったな……。これ、うちのオリジナルの試作品、喰いなよ」
出された試作品の焼き鳥にかぶりつきながら、モグラが首を傾げる。
「あのふたりが実は姉妹とはねぇ……。だから仲介業者のふりして、あんなにも契約を迫ってきたのか……。てこたぁ、魔鬼とは関係ねぇな……。いやどうだろか? アルコールでからきし頭が回らねぇ……。なんらおい、この肉硬ぇな~! 店長、ちょっとオメェが喰ってみろ!」
噛み切れない肉を小皿にペッと吐き出し、食べかけの焼き鳥を店長に突き返すモグラ。
店長は焼き台の串を回しながら、目も合わさずにこたえる。
「おれ、筋肉のためにササミしか食わないんで……。ところで、一緒にいた息子はどうしたんだい?」
泥酔のモグラが、しゃくりあげながらこたえた。
「九階のジムに……いるんじゃ……ねぇか」
作業の手をぴたりと止めて、店長がモグラに眼を向ける。
「なんでまだジムに? ご破算だったんだろ?」
「とりあえず何泊かして、幽霊なんていないと確かめてみればぁ~なんて美華ちゃんに言われちゃってさ……。息子もすっかりその気になっちゃって……。んん……どうした、怖い顔しちゃってよう?」
唖然とした表情の店長。
やがて気が付いたように、店の入り口に向かって声を上げた。
「ああ、い、いらっしゃい……っ!!」
黒いコートにシルクハット、黒いスーツに身を固めたがっしりとした大柄の男が、暖簾の奥で仁王立ちしていたのだ。




