【第2話】02
「神宮寺様が座っている、まさにそのベンチプレスで、頭から血を流して即死している死体が発見されました。足元に見えるその滲みが、その時の血痕です」
悲鳴をあげてモグラが飛び退いた。
「凶器は二十キロのダンベル。動機は前の経営者でインストラクターでもある若い女性をめぐる恋愛沙汰です。その後、犯人は逃亡。まだ見つかっておりません」
強く降り出した雨が窓に当たり、静まり返ったジム内に激しい音を響かせている。
「いかがなさいますか? まだ、内見を続けますか?」
床の滲みを見つめながらモグラが神妙にこたえる。
「ミツオと……。息子と少し相談をさせてください」
「わかりました。……ではその間、わたしは十階にお住いのビルオーナー様へご挨拶に伺ってまいります」
二条美華がジムをあとにする。
その後ろ姿が消えるのを見届けてから、モグラが振り返った。
「おいメグル、驚いたな。事故物件だってよ!」
しかしメグルは、落ち着いた様子で床の滲みを触っていた。
「何も驚くことはないだろ。お前も以前言ってたじゃないか? 魔鬼は夜に人気のない場所に越界門を開くって。まさにここは打ってつけの場所なのさ。
事故物件だから簡単に借り手はつかない。しかも怖がって夜に人は寄りつかない。仮に面白半分で肝試しに来るような連中がいたとしても、十階にいるというオーナーが鍵を開けなければ、ジム内に立ち入ることさえできない……」
そう言いながらも何か腑に落ちない様子で、メグルは一点を見つめたまま、くせのある前髪をくるくると人差し指に絡ませ始めた。
思考中のメグルがよくやる癖。
「どうしたメグル、何かに気がついちゃったのか……?」
モグラが心配そうに顔を覗き込む。
「まさか、まさかだがよう……。十階のオーナーが魔鬼だなんて、考えてねえよな……?」
メグルがはっとして顔を上げた。
「……しまった。ぼくとしたことがしくじった! 充分あり得る話だぞ! せっかく開いた越界門を見張るのに、十階のオーナーは打ってつけのポジションだ!」
突然モグラの背中を押して、メグルが走り出す。
「逃げるぞモグラ! 例の一件で、ぼくの顔は魔鬼たちにバレてるかも知れない!」
「だから言わんこっちゃねぇ! 作戦もないまま敵地に乗り込むなんて無茶するからだい!」
ふたりが慌ててフィットネスジムから飛び出す。
しかしエレベータの前には、二条美華が立っていた。
その口元からは、いつもの微笑みが消えている。
「このビルのオーナー様が、ぜひお二人にお会いしたいそうです。こちらへどうぞ」
すでに扉を開けて、エレベータを待機させていた。
「ああいや、こんな立派な物件、よくよく考えたらおいらの資金じゃとても足りなさそうなので……」
「そうおっしゃらずに、是非……」
頭を下げながらも、濃いアイシャドウの鋭い眼光がふたりをしっかり捉えている。
後ずさりするモグラの背中を強く押しながら、メグルが押し殺した声で叫んだ。
「モグラ見ろ、廊下の先だ!」
暗い廊下の先で、非常口の誘導灯が金属製のドアを緑色に照らしている。エレベータの前さえ過ぎれば、内階段から階下に逃げることができるのだ。
「そこを通してくださぁ~い!」
そう叫んで、エレベータの前を通り過ぎようとするふたり。
しかし二条美華は勢いよく壁に手をついて、その行く手を阻んだ。
そしてモグラの耳元に、そっとささやく。
「なにも問題ありません、神宮寺様……。ここは事故物件。格安でお貸しすることが可能です」
その瞬間、思わず首をすくめるほどの凄まじい破裂音が響いて、廊下の照明が一斉に消えた。
突然の暗闇に皆の動きが止まる。
即座にメグルはモグラの腕をつかみ、廊下の先で緑色に光っている非常口の誘導灯に向かって走った。
「駄目です! そこは……!」
二条美華の言葉を無視して、非常口の金属製ドアを押し開けた。
…………!!
メグルは我が目を疑った。
あろうことか、階下に続く階段がない。
天井までとどく黒い壁で、階段が塞がれている。
しだいに暗闇に目が慣れて、黒い壁がその正体をあらわす。
それはうず高く積み上げられた事務机、椅子、キャビネット――。
「見られたくなかったのですが……」
スマートフォンのライトを手にした二条美華が、ふたりの背中越しに申し訳なさそうに階段を照らした。
「ついさきほどオーナー様から、リフォーム中の八階オフィスの荷物が一時的に内階段を塞いでいるので、絶対にお客様に見られないようにと念を押されたばかりでしたので……。消防法で禁止されていることですから、どうかご内密に……」
二条美華はスマホのライトを十階へ上がる階段へ向けた。
「落雷による一時的な停電ですね。とはいえ、エレベータが動かないと階下に降りられませんので、やはりオーナー様のお宅に寄らせていただきましょう」
メグルとモグラは、愕然とした表情を互いに見合わせるしかなかった。




