出会い ― “氷涙の姫フィリア”
氷の渓谷を抜ける風が、細く鳴いた。
エリゼは《白哭》の刃を雪面に滑らせ、蒼光の回廊を進む。
壁面に閉じ込められた氷花たちが、彼女の通過に合わせて微かに震える。
世界は凍りついているはずなのに――どこか、生きていた。
そのときだった。
上空から、風の流れとは逆に“声”が降りてきた。
――歌。
言葉ではない。
けれど、確かに旋律があった。
雪片がひとつひとつ震え、空気が柔らかな紋様を描いていく。
まるで、氷そのものが息をして歌っているようだった。
エリゼは滑走を止め、顔を上げた。
氷の滝――蒼涙瀑の頂。
光がそこに集まり、滝の上でひとりの少女が歌っていた。
彼女の髪は白銀。
滝の光を受けて、夜明けのように輝いている。
薄衣が風に舞い、結晶の羽がふわりと散る。
その姿は――雪の精。
祈りを紡ぐ氷の魂。
「その声は、雪の心を知る者の声。
氷が涙を流すために生まれた、純白の祈り。」
エリゼの胸の奥で、何かがきしむように鳴った。
懐かしい痛み。
けれど、なぜ懐かしいのかはわからない。
彼女はただ、滝の上に立つ少女を見つめた。
雪がその間を漂い、二人の間に音もなく橋をかけていた。
氷の滝の上、蒼の光が微かに揺れる。
フィリアは静かに歌を止め、ゆっくりとエリゼを見下ろした。
その瞳は澄んだ群青――けれど、底には氷刃のような光が潜んでいた。
「……あなた、人間ね。」
声は囁きのように柔らかかったが、空気が一瞬にして冷えた。
氷壁が軋み、滝の流れがぴたりと止まる。
エリゼは無言で、視線だけを上へ向ける。
その動作ひとつが、氷精の王女の気配を刺激した。
「わかるの?」
「雪が言ってるの。あなたの息は――あたたかすぎるって。」
淡く笑うフィリア。
だがその笑みは、春のような優しさではない。
凍てついた美しさの奥に、刃の冷たさを秘めていた。
エリゼは唇を噛む。何かを言おうとして、言葉が出てこない。
沈黙が、氷の世界をさらに硬くしていく。
フィリア:「人間は雪を壊した。
灰を降らせ、風を濁らせた。
それなのに――“雪に導かれた”ですって?」
その声音には、静かな怒りが滲んでいた。
雪の粒が鋭く震え、風がざわめく。
エリゼの頬にあたる雪が、少しだけ痛い。
エリゼ(小さく):
「……雪が嫌い。でも、逃げたくなかった。」
その言葉が氷の空気に溶けた瞬間、
フィリアの瞳がわずかに揺れた。
まるで胸の奥のどこかを掠められたように。
けれど、すぐに表情は凍りつく。
彼女は指を鳴らした。澄んだ音が氷壁に反響し、渓谷全体が応える。
フィリア:「ならば――雪に問われなさい。
あなたの心が、まだ凍っていないのかを。」
その瞬間、滝の光が裂け、無数の氷片が宙に舞った。
エリゼの足元に淡い蒼光の紋が浮かび上がる。
試練の始まりを告げる、氷涙の門の呼吸だった。
氷滝の光がひときわ強く瞬いた瞬間、
空気が震え、渓谷全体が淡い蒼に包まれた。
雪の粒が――形を変える。
ひとつ、またひとつと、光の輪郭が浮かび上がり、
やがて人のような影となって宙を舞った。
それは雪精――氷涙圏を護る、氷の守り手たち。
言葉を持たぬ彼らは、ただ風の音で語る。
その響きが、まるで「審判の鐘」のように静かに重なっていく。
「雪精霊の審判――それは血によらず、心の温度で下される。」
フィリアが片手を掲げると、滝の氷が裂け、
下方の雪原に巨大な紋章が走った。
瞬く間に地形が変わり、氷の坂が姿を現す。
天へ向かうように緩やかで、けれど底知れぬ深さを秘めた“氷涙の坂”。
フィリア:「この坂を登り、滑り、涙を流すことができたなら――
雪はあなたを拒まない。」
その声に呼応するように、周囲の雪精たちが一斉に光を放つ。
青白い粒子が舞い上がり、空へと昇る光の道ができる。
エリゼはその光景を見つめ、静かに《白哭》を握りしめた。
凍てつく風が頬を打つ。
それでも、彼女の瞳は揺らがない。
エリゼ:「……わかった。雪が、そう望むなら。」
足元の雪が、きしりと鳴いた。
それは――“始まりの音”。
氷精たちが輪を描き、坂の入口が蒼く輝き始める。
そして、彼女の前に広がるのは試練の道。
氷涙の姫の審判が、いま――始まろうとしていた。
氷の滝の上――
蒼の光に包まれたフィリアは、しばらくエリゼを見下ろしていた。
その瞳は氷のように澄んでいて、けれどどこか、悲しみを滲ませている。
フィリア(小さく):「……どうして、そんな目で雪を見るの。」
その声は風に溶け、音になる前に凍った。
次の瞬間、彼女の背から氷の羽がふわりと広がる。
羽片が光の粒となって舞い上がり、渓谷の空に消えていく。
姿が完全に溶けてなくなると、滝の上にひとつ――
淡く輝く“涙の結晶”が残されていた。
それは小さく、手のひらに乗るほどの透明な氷玉。
中心に、かすかな蒼の光が脈を打っている。
エリゼは無言で歩み寄り、その結晶を拾い上げた。
掌の上で光が跳ね、雪の音が微かに鳴る。
エリゼ:「……これが、雪の涙。」
その言葉に呼応するように、周囲の氷壁が静かに脈動する。
まるで大地そのものが息をしているように、光が波のように広がっていく。
渓谷全体が淡く光を放ち、青白い拍動が空へと伸びていく。
それは――“氷涙の試練”の始まりを告げる鼓動。
静寂の中、エリゼの瞳だけが燃えるように輝いていた。




