氷涙圏への到達 ― “蒼き渓谷”
灰雪の大地を抜けて三日。
風は静かに鳴き、空はまだ沈黙していた。
エリゼは《白哭》を操りながら、果てのない雪原を滑り続けていた。
靴底から伝わる感触が、いつしか変わっていく。
硬くざらついていた灰雪が、次第に柔らかく、透き通るような粒へと変わっていた。
彼女は息を吐き、白い霧の中に言葉を落とす。
「……色が、違う。」
目を上げると、空の色もまた変わり始めていた。
鈍い鉛から、淡い蒼へ。
その境界は曖昧で、まるで世界が“別の記憶”へと塗り替えられていくようだった。
「灰の雪は、罪の記憶を降らせる。
だが、蒼の雪は――心の色を映す。」
雪片がひとつ、彼女の頬をかすめる。
それは冷たくも、どこか優しい。
灰の雪が「終わり」を告げるように散り、代わりに蒼い光が風の中で瞬いた。
遠く、視界の果て――
氷でできた巨大な壁が、空へと連なっていた。
内部には淡い光が脈打ち、まるで生き物のように呼吸している。
「……あれが、氷涙圏。」
声に出した瞬間、胸の奥がひやりと震えた。
その輝きは“拒絶”ではなく、“導き”のように思えた。
雪面が微かに青白く染まり、
《白哭》の板面が共鳴して低く鳴る。
無音だった世界に、細い弦のような音が差し込む。
灰と蒼が交わる――
そのわずかな瞬間、彼女の心に“初めての色”が灯った。
氷壁が近づくにつれて、世界がひとつ、呼吸を止めた。
空気が変わる――それはただ冷たくなるだけではない。
肺の奥で凍るような静寂。
風が、まるで何かを語りかけるように低く歌っていた。
「ここは、風そのものが生きている場所。
雪片は息をし、氷は記憶を宿す。」
エリゼは《白哭》の板を軽く押し出し、氷壁の裂け目へと滑り込む。
入口を抜けた瞬間、世界が一変した。
そこは――光の回廊だった。
頭上には天を貫く氷の樹々が並び、枝先から滴る結晶が鈴のように鳴る。
ひとつ落ちるたび、透明な音が空間に波紋を描き、壁面に無数の光の円を咲かせる。
足元では、凍りついた水流――“光の川”がうねり、淡く蒼い光を放っていた。
滑走するたびにその波紋が揺れ、彼女の影を万華鏡のように反射する。
「……まるで、世界の中を滑ってるみたい。」
呟いた声が、壁に吸い込まれていく。
代わりに返ってきたのは、微かに重なる“声の欠片”たち。
誰かの祈り、誰かの歌。
氷の中で眠る記憶のさざめきが、彼女を包み込んだ。
《白哭》が共鳴する。
板面の雪紋が蒼く光り、まるでこの場所を懐かしむかのように柔らかく鳴いた。
風が頬を撫でる。
その冷たさの中に、かすかな“温もり”があった。
エリゼはその風に導かれるように、光の回廊をさらに奥へと滑り進んでいく――。
氷壁が見えてきた瞬間、
エリゼの肺が――凍った。
息を吸うたびに、胸の奥が軋む。
空気が変わる。
それは冷気というより、世界そのものの「質」が変わる感覚だった。
風が、声を帯びていた。
耳の奥で、誰かがささやく。
泣いているような、笑っているような――雪の声。
「ここは、風そのものが生きている場所。
雪片は息をし、氷は記憶を宿す。」
エリゼは《白哭》の先端をそっと雪に押し当て、滑り出す。
氷壁の裂け目へ――蒼の世界へ。
入った瞬間、視界が一気に開けた。
氷樹が林立する“光の回廊”。
枝先から零れる結晶が、鈴の音のようにチリ、と鳴る。
足元の氷床には光が流れ、まるで“凍った川”が命を持って脈打っているようだった。
「……ここ、なの……?」
呟く声が壁に吸い込まれる。
だがすぐに――反響する。
幾千の声が重なって返ってくる。
それは風の祈り。氷に刻まれた記憶。
《白哭》が応えるように震えた。
板面の雪紋が淡く蒼光を放ち、低い音を響かせる。
キィン――。
音が風に溶け、回廊全体がわずかに脈動する。
まるで、この地そのものが彼女を“迎えている”かのように。
エリゼはそっと目を細めた。
冷たいはずの風が、なぜか――少しだけ、優しい。
「……ねえ、あなたも、ここを知っているの?」
問いかけに応えるように、《白哭》の表面で雪紋が揺れた。
その蒼が導く先、回廊の奥で――かすかに歌声が聞こえる。
それは、氷のように澄んだ少女の声。
雪の向こうから届く“呼び声”だった。
エリゼは再び板を踏み込み、音もなく――蒼の光の中へと滑り込んでいった。
風が――止んだ。
代わりに、世界のどこかが、微かに“鳴り始めた”。
チリ……チリ……
雪が落ちる音ではない。
もっと細い、もっと深い。
まるで氷そのものが、呼吸をしているような音。
エリゼは立ち止まり、息を呑んだ。
耳の奥で、世界が震えている。
白ではなく、蒼の音。
冷たいはずなのに、どこか温度を持つ不思議な旋律。
「……雪が、鳴いてる……?」
声に出した瞬間、その音が反応した。
氷壁の中に響きが広がり、波紋のように空気を揺らす。
それはまるで、雪そのものが彼女の言葉に応えるようだった。
《白哭》が小さく震える。
板面に刻まれた雪紋が脈動し、淡い蒼光を灯す。
音の粒がそこへ吸い寄せられ、共鳴の輪を描いた。
キィン……
透明な音が走り抜け、氷の大地全体が微かに共鳴する。
音が光になり、光が雪を震わせ、雪がまた音を返す。
循環する響きの中で、エリゼは立ち尽くす。
それは、言葉では届かない“対話”。
雪と、氷と、風と。
そして――《白哭》と。
「彼女はまだ知らない。
その共鳴が、やがて“雪涙の心臓”を呼び覚ますことを。」
エリゼはそっと目を閉じた。
音が降り続ける。
まるで世界が静かに、彼女の名を呼んでいるかのように。
世界が静止したかのような静寂の中――ふいに、“音”が生まれた。
それは、風でも氷でもない。
けれど確かに、世界のどこかが“歌っている”。
言葉を持たない旋律。
声とも息ともつかぬ、透明な“祈り”のような響き。
雪の粒が震え、空気の層が微かに揺らぎ、目には見えない紋様を描いていく。
「それは、風の中に生まれ、雪とともに祈る歌。
聞く者の心を映し、同じ涙を流させる。」
エリゼは滑走を止め、静かに顔を上げた。
蒼く霞んだ空の向こうから、旋律が降りてくる。
雪片が頬に触れ、温もりを残したまま、指先で溶けて消えた。
「……誰かが、呼んでる。」
かすかな声が、氷の回廊に吸い込まれる。
返事のように、歌がひときわ強く響いた。
それは寂寞ではなく――“意志”を持つ声。
冷たく澄んでいて、どこか懐かしい。
胸の奥をやさしく撫でるような響き。
《白哭》が再び鳴いた。
雪面に淡い光が走り、音の軌跡が彼女の周囲を包む。
まるで“導く”ように、蒼い道が氷壁の奥へと続いていた。
「その歌の主を、人は“氷涙の姫”と呼ぶ。
雪を愛し、涙に祈る者――
そして今、彼女が一人の人間を迎え入れようとしていた。」
エリゼは息を整え、前を見据える。
心臓が、旋律のリズムに合わせて鼓動を刻む。
歌声が微笑むように遠ざかり、彼女はそれを追う。
雪の道が、彼女を“運命の出会い”へと導いていった。
氷壁の回廊を抜けた先――そこに、それはあった。
まるで天空を切り取ったかのような、巨大な円環。
氷でできた“門”は、静かに脈動している。
表面には無数の光の紋様が刻まれ、ゆるやかに回転していた。
青白い輝きが、氷を透かして内側から息づいている。
「灰の世界で閉じた風が、いま再び息を吹き返す。
そこは、祈りと涙が交わる“氷涙圏”。」
エリゼは《白哭》を抱え、足を止めた。
門の中央に浮かぶ光の模様――その形が、彼女のボードに刻まれた紋章と重なっていく。
《白哭》が低く共鳴した。
一瞬、空気が震え、雪片が跳ねる。
音は次第に波紋となって広がり、氷壁全体を叩く。
キィン――。
透き通った音が世界を満たした瞬間、門の中心が眩く開いた。
風が吹き抜けた。
だがそれは冷たくない。
胸の奥に懐かしさを残す、やさしい息吹だった。
エリゼはボードを構え、静かに息を吸う。
その目に、恐れはない。
代わりに映っているのは――新しい青の光。
「行こう、《白哭》。」
彼女が一歩踏み出すと、氷の門が光に溶けた。
視界が一気に蒼と白で満たされ、音が弾ける。
無数の雪の粒が生命のように踊り、空を埋め尽くした。
それはまるで、雪が彼女を祝福しているかのようだった。
「こうして、少女は灰の大地を越え――
蒼の祈りが支配する世界、“氷涙圏”へと至る。」
――そこから先は、もう“人の領域”ではなかった。




