頂点:灰雪の跳躍 ― “空を裂く祈り”
王都北門。
夜明け前の空はまだ灰雪に覆われ、世界そのものが息を潜めている。
そこに並ぶのは、白銀の鎧に身を包んだ数百の兵。
魔導障壁が幾重にも展開され、青白い光の弧を描いて街道を封じていた。
氷結した地面が、わずかな風で細かく鳴る。
空には、雪霊監視ドローンの群れが低く浮遊し、光の眼で侵入者を追う。
その最前線に、ひとりの男が立つ。
白衛隊長――ヴァイン。
彼の声が、雪気を裂くように響いた。
「全隊、氷壁を維持せよ! 対象エリゼ・ヴァルトハイト、禁雪具《白哭》を所持! 進行を止めろ!」
命令と同時に、兵たちが詠唱を重ねる。
氷壁の縁が淡く光り、世界がさらに冷え込んだように感じられる。
――しかし。
その封鎖の向こうに、ただひとつ“道”が残されていた。
崩れかけた旧輸送橋。
石と鉄骨が斜めにせり上がり、積もった雪がその表面を滑らかな斜面に変えている。
角度、四十五度。
橋というより――空へと突き上がる、自然の跳躍台。
エリゼは息を整え、胸の奥に残る風の気配を感じた。
背後からは軍靴の音と詠唱の波。
けれど、彼女の視線はただ前だけを見据えている。
「……行くしか、ないか。」
《白哭》の表面が、かすかに鳴いた。
それはまるで、彼女の決意を肯定するような、淡い氷の音だった。
世界が――息を止めた。
鐘の余韻が消えると同時に、BGMのように流れていたすべての音が、
ふっと、吸い込まれるように消えた。
雪の音も、風のざわめきも、兵たちの怒号も。
ただ、残ったのは“沈黙”という名の圧力。
まるで、世界そのものが彼女の行く末を見守るために動きを止めたかのようだった。
足元の雪を映しながら、ゆっくりと彼女の瞳へとズームしていく。
灰雪が空中で凍りつき、ただエリゼの髪と雪片だけが――ゆっくりと流れる。
時間の止まった世界で、たったひとり、彼女だけが生きていた。
「……雪なんて、大嫌い。」
その呟きは、音として響かない。
けれど、確かに空気を震わせた。
「でも――ありがとう。道をくれて。」
わずかに微笑み、エリゼは《白哭》の柄を握り直す。
その瞬間、
雪板の表面に刻まれた雪華紋が、淡く蒼光を放った。
足元の地面に青白い魔導陣が展開し、氷の文様が一斉に目を覚ます。
風が――逆流する。
止まっていた雪片が、彼女の周囲へと吸い込まれていく。
その光景は、まるで“世界がひとりの滑走者を迎える”かのようだった。
――世界の音が、消えた。
氷鳴も、心臓の鼓動さえも、
すべてが遠くへ吸い込まれていく。
エリゼの視界の端で、世界が“伸びた”。
街の影も、兵の姿も、灰雪の粒さえも、
ブラーのように歪み、溶け、白い残光だけを残す。
《白哭》が光を孕む。
板面に刻まれた雪華紋が、ひとつ、またひとつと弾ける。
燃えるように――だが、温度はない。
それは冷たく、透き通った炎だった
「世界の色が、ひとつの白に溶けた。」
跳躍台の端――。
《白哭》が雪を蹴る。
瞬間、爆音はない。
ただ、無音の衝撃波が世界を押し返した。
氷片が光のように四散し、
彼女の身体がふわりと浮き上がる。
重力という概念が、ひとときだけ彼女を忘れる。
時が止まり、空気が凍り、
“滑走”が“飛翔”へと変わる。
指先が風を掴む感覚――。
その感覚だけが、確かに世界に残っていた。
灰色の空が――裂けた。
《白哭》の軌跡が弧を描き、
白い尾が虹のような光を散らしていく。
灰雪の粒がその軌跡に触れた瞬間、
ひとつ、またひとつと溶け、消えた。
灰が白へと還っていく。
それはまるで、汚れた世界が息を吹き返すようだった。
逆光。
太陽とも月ともつかぬ光の向こう、
エリゼの姿がシルエットとなって浮かぶ。
両腕を広げ、風を抱く。
雪煙が翼のように彼女の背から伸び、
――まるで雪が、彼女に飛び方を教えているかのようだった。
リオン(遠くから):「エリゼェェェ!!」
セラ(涙声):「お願い……生きて!」
その声は届かない。
だが、確かに風が揺れた。
まるで彼女が微笑んだかのように。
群衆が息を呑む。
鐘の音が、最後の余韻を残して消えていく。
音も、色も、重力も――すべてが消え、
ただひとつ、白い軌跡だけが空に残る。
「灰雪を裂き、風を纏い、彼女は飛ぶ。
雪の上を――罪の上を――誰より自由に。」
そして空の向こう、
雲の裂け目から差し込む青白い光。
そこに、新しい世界が待っていた。
風が、変わった。
肌を打つ冷気が、凍てつく痛みから、
ただの“風”へと変わる。
《白哭》の尾が空を裂き、
灰雪の層を抜けた瞬間――
世界が、反転した。
視界を満たすのは、純白の光。
灰色の街も、鈍色の空も、
すべてが蒼と白に染まり、
ひとつの“無音の楽園”となる。
音がない。
けれど、心臓の鼓動だけが確かに響いていた。
「灰雪を裂き、風を纏い、彼女は飛ぶ。
雪の上を――罪の上を――誰より自由に。」
彼女の背後では、《白哭》の軌跡が光の環となり、
王都の上空を包み込むように広がっていく。
その光は遠ざかる街をやさしく照らし、
氷の屋根も、壊れた鐘楼も、まるで赦すように白く染め上げた。
エリゼは振り返らない。
ただ、風を掴むように指先を伸ばし、
ひとつ息を吐いた。
エリゼ(小さく):
「……これが、空の色……。」
頬をかすめた雪片が、光に溶ける。
もう灰ではない。
真の雪――“生きた空の欠片”。
弦とコーラスが静かに重なり、
音のない空に“再生”の旋律が流れ出す。
その旋律は、やがて遠くで聞く祈りのように響き、
彼女の滑走は、ひとつの祈りへと変わっていった。




