試練開始 ― “天逆流走(てんぎゃくりゅうそう)”
エリゼが息を整え、足場とも呼べない“静止した空”に重心を置いた瞬間だった。
――世界の中心が、わずかに呼吸した。
リュミナが腕をゆっくりと下ろす。
その動きは風も雪も持たないはずの天空層で、唯一意味を持つ“合図”だった。
次の瞬間——
空間に漂っていた雪片が、一斉に 逆方向へ揺れた。
止まっていた雪が、逆流する。
世界がひっくり返る前触れ。
そして——重力が反転した。
足元の感覚がふっと消え、
空が落ちてくるように視界へ迫りくる。
天と地が交換されるのではなく、
概念そのものが“裏返る”。
リュミナは一歩、前に出た。
歩いたというより、世界の演算が“神の位置に合わせて移動した”ような動き。
銀の瞳が、真っすぐエリゼを射抜く。
リュミナ
「では――走りなさい。
雪の理が、あなたを止める前に。」
その声は空気を震わせなかった。
音にもならず、風にも乗らず、
ただ“冷たい光の衝撃”としてエリゼの脳の奥へ直接落ちた。
その瞬間、
天地の線が完全に消えた。
世界が裏返ったのだ。
雪は上へ。
空は下へ。
エリゼだけが“そのまま”取り残される。
――これが、天逆流走の開始合図。
静止していた雪が逆巻き、
落ちていた空が迫り来る。
世界すべてが、彼女を止めるために動き始めた。
重力が反転した直後、
エリゼは思わず息を呑んだ。
視界の上——
本来、果てなく広がっているはずの蒼紫の膜が、
轟音もなく、落ちてくる。
空が迫りくる。
大地のように重厚に。
巨大な天蓋をひっくり返したように。
「……空が……落ちてくる……?」
その呟きすら空間に吸われる。
音は存在しない。
存在を許さない世界だ。
そして次の瞬間——
静止していた雪片が一転、
まるで天井からこぼれ落ちる滝のように 逆方向へ流れ出した。
下ではなく、
上でもなく、
“前方へ”。
世界全体が逆流し、
雪の川がエリゼへ襲い掛かる。
その雪は、ただの粒ではない。
・触れれば心臓の律を奪う
・意志を凍らせる
・速さの概念すら凍結する
天空層の“逆流雪”——
雪神リュミナが創り出す、止めるための絶対障壁。
エリゼの《雪翼》が蒼白の閃光を放ち、
逆流する雪片の奔流を前に震える。
空が落ちる。
雪が逆巻く。
上下が崩れ、前後が歪む。
それでもエリゼだけは、
重力を拒むように立っていた。
――ここから、天逆流走が始まる。
空が反転し、逆流雪が奔流を成したその中心で、
リュミナの銀の瞳が静かにエリゼを見下ろす。
リュミナ
「ここから先は——雪の理の底。
あなたは、空を“落ちて”進むのです。」
エリゼは息を呑んだ。
風を掴めない世界で、ただ落ちるしかないという矛盾。
だが、それこそがこの層の法則。
●天逆流走の第一法則
進む方向は“上”ではなく、“下(空の奥)”へ落ちること。
リュミナ
「滑るのではありません。墜ちるのです。
天空層には“底”がある。そこへ向けて落ちなさい。」
足元の雪片が、
地面ではなく“空の深淵”へ吸い込まれるように沈んでいく。
エリゼ
「……空の……底……?」
世界がすでに地上の形を捨てていることが、ひしひしと迫る。
●天逆流走の第二法則
落下するほど空気密度が増し、“減速”する。
通常の滑走は加速すれば加速するほど風が後押しする。
だが、ここは逆だ。
落ちれば落ちるほど、
空気がぬめるようにまとわりつき、動きを止めようとする。
リュミナ
「速さは無意味。
雪があなたを拒むほど、あなたの動きは鈍る。」
エリゼは思わず拳を握る。
●天逆流走の第三法則
逆流する雪は“前方から”降り注ぐ。
エリゼが一歩踏み出した瞬間——
前方の虚空が裂け、逆流雪が牙のように襲いかかる。
エリゼ
「……っ!」
逆流雪は痛くない。
冷たくもない。
ただ、触れたものの——
“心臓の律”を奪う。
脈動が一拍抜けるだけで、
身体の重さが一瞬で数倍に跳ね上がる。
エリゼは胸を押さえた。
エリゼ
「心臓が……掴まれる……!」
リュミナ
「雪は心に触れる。
拒む者ほど、深く、強く。」
●天逆流走の第四法則
“雪嫌い”は、この世界で致命傷となる。
リュミナの声は、ため息のように響く。
リュミナ
「あなたは雪を嫌った。
雪を憎んだ。
だから逆流雪は——
あなたの存在そのものを攻撃するでしょう。」
エリゼの足が震える。
雪嫌いの自分が、この試練の最大の弱点になる。
それを見抜いたリュミナは、
淡々と宣告を下す。
リュミナ
「雪を好きになれぬ者は、ここで止まる。
雪嫌いのままで——息絶える。」
空が静かに震える。
逆流雪が、まるでエリゼの心臓だけを狙うように流れを変えた。
エリゼ
「……嫌いでも……嫌いなままで、でも……!」
深く息を吸い——
エリゼは落下の姿勢を取る。
エリゼ
「私は——止まらない!!」
天空層の底へ。
雪の理の核心へ。
雪神の領域を切り裂くために。
ここから、
天逆流走 が始まる。
逆流する雪が、音もなくエリゼの顔へ迫る。
触れれば心臓を奪われる——そのはずなのに。
雪片は皮膚に触れる寸前で、
時間が止められたように静止した。
しかし、触れなくても——
凍てつくような痛みだけが胸に襲いかかる。
《雪翼》がぎゅっと縮むように脈を乱し、
律動が一拍、二拍と遅れ始めた。
エリゼ
(心の声)
「怖い……
痛い……
嫌い……
でも……!」
逆流雪はエリゼの心の鼓動に反応するかのように、
白から薄赤、そして深紅へと色を変えていく。
その赤は——
エリゼの恐怖そのもの。
雪が殺意を持つのではない。
エリゼの“嫌い”が、雪を攻撃者へ変えている。
エリゼの呼吸が荒くなる。
世界は無音なのに、胸の一拍だけが響く。
どくん……
どくん…………
《雪翼》の律が奪われ続ければ、
落下の世界は彼女から動きを容赦なく奪う。
リュミナの冷ややかな声が、
雪の粒に染みるように空間を満たす。
リュミナ
「雪を嫌う心こそ、雪を最も強く呼び寄せる。
あなたが“嫌い”と言うたびに……
雪はあなたの心臓へ戻ろうとする。」
エリゼは震える指先を胸に押し当てた。
エリゼ
(心の声)
「嫌いでも……
怖くても……
痛くても……
止まらないで……
お願い……動いて……!」
《雪翼》は軋むような光を放ち、
逆流雪の紅色と干渉し合う。
逆流雪はさらに形を鋭く変え、
まるで刃のような“意志”を帯びてエリゼに向けられた。
雪嫌いである限り——
雪は彼女を殺そうとする。
しかし、
エリゼはまだ足を止めない。
胸の震えも、涙も、痛みも抱えたまま——
彼女は“嫌いな雪の中”へ飛び込む準備を続けていた。
その姿は、
雪神リュミナの想定したどんな“雪の理”とも違っていた。
ここから、
エリゼ自身の“速さの原点”が揺り起こされていく。
逆流雪の紅が、世界そのものを染め上げていく。
胸の奥では《雪翼》の律が乱れ、
どくん……どくん……と、不規則な痛みが走る。
このままでは本当に止まる。
心臓も、滑走も、世界も。
エリゼは震える左手を胸へ押し当てる。
「——合わせて……! 動いて……!」
右の指先で《雪翼》の中心を掴むように触れ、
強制的にリズムを打ち直す。
ぱん、ぱん、ぱん——
胸の奥で、蒼白の律動が跳ね返る。
逆流雪がその光に驚いたように一瞬だけ揺れた。
エリゼの瞳に、涙がにじむ。
エリゼ
「……嫌いでも……」
逆流する雪が、また鋭く降り注ぐ。
その全てが彼女の痛みをなぞるように迫る。
それでも、エリゼは一歩前へ滑り出した。
エリゼ
「嫌いなままで……!」
《雪翼》が蒼と白の二重光で脈打つ。
反発するように逆流雪を押し返す。
そして、叫ぶ。
エリゼ
「私は——止まらない!!」
それは祈りではなく、赦しではなく、
ただの“宣言”だった。
雪を好きになる必要なんてない。
雪を赦す必要もない。
過去を忘れる必要もない。
嫌いでも、怖くても、痛くても——走れる。
その瞬間、天空層の理が揺らいだ。
・逆流雪が一瞬、動きを失う
・空の紫蒼の膜が波紋を描く
・静止していた雪粒が、わずかに“彼女の進行方向へ流れる”
リュミナの銀の瞳が初めて大きく見開かれた。
リュミナ
「……雪を……嫌うまま……走る……?
そんな理、不可能——」
世界が否定を叫ぶ中、
エリゼの《雪翼》だけが肯定するように強く輝いた。
ここに、
“雪を好きにならなくても走る”英雄のテーマが確立される。
エリゼは足を揃え、逆落としの姿勢へ身体を倒した。
滑走者の姿勢——だが向いているのは“地面”ではない。
空の底。
紫蒼の空膜のさらに下、
世界の中心へと吸い込まれるような“落下の方向”へ。
静止した雪片が、彼女のわずかな動きに反応して揺らぐ。
エリゼ
「……行く。」
呼吸は震えていたが、
その震えすらも《雪翼》の光に飲み込まれてゆく。
エリゼが一歩、踏み鳴らした。
——世界が、落ちてきた。
ぱきん、と音のない音が空に走る。
●世界の描写
・空が“上から降りてくる”。
天蓋そのものが巨大な壁となり、彼女に迫る。
・雪片が逆巻き、前方へ濁流のように流れ落ちる。
雪の滝。落下方向が、常識と真逆。
・重力が斜めに捻れ、
空間そのものがエリゼを押し潰そうとする。
・雪神リュミナだけは微動だにしない。
動かない“原点”として世界の中心に立ち続ける。
——動いているのは、エリゼただひとりだった。
逆流する雪は、彼女の滑走軌道を潰すために形を変え、
前方へ垂直落下しながら鋭く迫り来る。
世界のあらゆる法則が、
“止まれ” “止まれ” “止まれ”
と無言の圧を放つ。
だが、エリゼは滑り出す。
空を逆さに、
世界の底へと——
雪の殺意を切り裂きながら。
彼女の《雪翼》が蒼白に伸び、
逆流雪の壁へ突き刺さる。
たった一本の滑走の線が、
静止世界に“初めての運動”を刻んだ。
世界のすべてが彼女を止めようと落ちてくる中、
エリゼだけが前へ進む。
崩れ落ちる天空層にただひとつ、
確かな軌跡が描かれた——
天逆流走、開始。




