発走:罪の上を滑る
背後で、鋼が擦れる音がした。
兵たちが一斉に剣を抜き放ち、聖職者たちが詠唱を始める。
「雪を鎮めよ、風を封ぜよ」
その祈りの声は、まるで凍てついた鐘のように鈍く響き――すぐ、雪の音に飲まれた。
灰雪が降る。
ざわめく群衆の声が波のように押し寄せ、広場全体が震えている。
だが、そのただ中――エリゼの周囲だけが、“完全な静寂”に閉ざされていた。
風が、ない。
音が、ない。
灰雪が空中で漂い、落ちることを忘れている。
まるで、世界が“息を止めている”ようだった。
エリゼはゆっくりと膝を折り、手にした《白哭》を足元に置く。
氷の板のように冷たい輝きが、雪面に淡く反射する。
その動きは、処刑台の上とは思えないほど優雅で、祈りの儀式にも似ていた。
エリゼ(小声で):「……行くわ。」
右足を、静かにボードの上へ。
その瞬間――“キィン”という小さな氷鳴音が、世界の中心を貫いた。
空が震えた。
灰雪が一斉に反転し、落ちるはずの粒が、今度は上へと昇っていく。
世界の色が、白と黒の境界で歪み、光が裏返る。
音はない。
ただ、ひとつの心臓の鼓動だけが、ゆっくりと鳴った。
ドクン――
その鼓動を合図に、世界は――動き出そうとしていた。
ざわめきの中を、ひとりの声が突き抜けた。
「姫様――っ!」
群衆の壁をかき分け、セラが駆け出してくる。
雪にまみれた白衣が裂け、腕が震え、涙で視界を滲ませながら。
彼女の足跡だけが、真っ白な雪上に刻まれていく。
セラ:「姫様、それは――罪です!」
声は、悲鳴にも祈りにも聞こえた。
兵たちが彼女を押しとどめようとするが、セラは振り払って進む。
その手が、もう少しで届く――その瞬間。
エリゼは振り返らなかった。
ただ、ボードの上に立つ足先を微かに動かし、髪を揺らす。
エリゼ:「ならば、罪の上を――滑っていくわ。」
雪が一粒、頬をかすめる。
灰雪が光を帯び、風の流れが彼女を中心に螺旋を描いた。
その言葉に、世界がわずかに震えた。
兵たちが剣を構える。
だが、誰も踏み出せない。
――雪の上では、誰も動けない。
それはこの王国の“信仰”であり、“恐怖”そのものだった。
リオンが剣を抜く。
鋼の刃が鈍く光る。
けれど、その足は雪の縁を越えられない。
彼は歯を噛みしめ、動けない自分を睨みつける。
その視線の先で、エリゼはもう風を纏っていた。
俯瞰の空撮――
断罪広場に描かれる、ひとつの“風の線”。
それは、まだ誰も知らない自由の軌跡。
そして、罪を越える少女の――最初のスタートラインだった。
《白哭》が淡青の閃光を放った。
足元の雪が、まるで命を失ったように一瞬で融け、
次の瞬間には白い蒸気が噴き上がる。
熱でも、炎でもない。
それは“速度”そのものが生み出す摩擦の光。
だが――世界は、音を失った。
聖職者の詠唱も、兵の怒号も、群衆の悲鳴も。
すべてが霧の向こうに押しやられ、
聞こえるのは、風の振動と、自分の心臓の鼓動だけ。
ドクン――。
ナレーション:「静寂の中で、最初の一蹴が世界を裂いた。」
足が雪面を蹴る。
その一瞬、氷が砕け、風が爆ぜた。
空気が歪むほどの衝撃――にもかかわらず、音はない。
ただ、視界の中で世界が“引き延ばされる”。
時間がひしゃげ、空気の粒が線となって流れ、
灰雪が横に弾けて散る。
エリゼの身体が、音を置き去りにして前方へ跳ぶ。
その姿は、まるで雪を断ち切る光の矢。
スローモーション。
彼女の髪が遅れて揺れ、瞳の奥で風が渦を巻く。
その瞬間、止まっていた世界が、再び――動き出した。
処刑広場の端、石階段へと《白哭》が滑り込む。
重力など存在しないかのように、彼女の身体は宙を舞い、
氷の残響を引いて街へと飛び降りた。
石畳。
普通の人間なら足首を砕かれる硬さの地面を、
《白哭》は雪の膜を展開してなぞる。
その軌跡は――光る“雪の道”。
存在しないはずの雪が、彼女の進路に沿って生まれては消える。
街路を走るたび、氷の紋が咲き、淡くほどけていく。
王都の人々が悲鳴を上げた。
露店が倒れ、馬が嘶き、旗が吹き飛ぶ。
だが風の中心――エリゼの周囲だけは、完璧な静寂。
ドレスの裾が翻り、髪が白い尾を引く。
まるで夜空を裂く彗星。
雪煙が軌跡となり、断罪の都を一本の線で貫いていく。
ナレーション:「断罪の街を、雪が駆け抜けた。
それは逃走ではなく――再生の疾走だった。」
人々の視線が、恐怖から祈りへと変わっていく。
誰もが息を呑み、誰もが理解する。
――これは背信ではない。
閉じ込められていた“雪”が、ようやく空を取り戻した瞬間だった。
《白哭》が、咆哮する。
氷と風が混ざり合い、王都の外壁を駆け上がるように滑走。
灰雪の舞う空へ、白い尾を引いて跳び上がった。
背後――処刑広場の鐘が、三度鳴り響く。
一打目は“断罪”。
二打目は“覚醒”。
そして三打目――“再誕”。
鐘の余韻と同時に、エリゼの身体が宙を舞う。
《白哭》が蒼く光を放ち、雪の粒が翼のように広がった。
灰色の雲が迫る。
だが彼女は、恐れずにその中へ突入する。
轟音。
光。
灰雪の壁を貫いた瞬間、世界の色が反転した。
視界に広がるのは――限りない白の雪原。
雲の上の蒼空が、彼女を包み込む。
雪風が頬を撫で、瞳の中に光が宿る。
「灰雪を裂き、風を纏い、彼女は飛ぶ。
雪の上を――罪の上を――誰より自由に。」
遠ざかる王都の灰雲、その上でひとつの白い軌跡が伸びていく。
それは“断罪の証”ではなく、“始まりの線”。




