“自由の空”
白光を孕んだ風が、そっと雲橋の縁を撫でていた。
雲冠峰の最上層――〈風環〉の真下。ここは、空と大地の境界が完全に溶け合う場所だ。
足元には、薄く透明な雲橋がたゆたうように漂っている。
踏みしめるたび、まるで呼吸するかのように微かな震えを返してきた。
エリゼはその端に立ち、静かに息を吐く。
胸元に宿る《雪翼》が、かすかな光の鼓動で応えた。
目の前に広がるのは――世界そのものを抱く巨大な大空域。
雲は大海のようにうねり、遠くまで続く稜線を描いている。
その上を奔るのは、無数の“風の流線”。
青、白、金、蒼。
色とりどりに屈折する風の帯が、幾重にも重なり合い、
まるで空全体が巨大な地図となって、滑走者を誘っているかのようだった。
本来、この“風の道”は空翔族の血を持つ者しか見えないとされている。
だが今は、エリゼの目にそのすべてが――
細部に至るまで鮮やかな輪郭で、確かな存在として映っていた。
《雪翼》がふわりと脈打つ。
風がそれに共鳴するようにさざめき、彼女の頬をかすかに撫でる。
エリゼは一歩、前へ進んだ。
その足取りは、もう迷いのない、風と並ぶ者の歩みだった。
「……ここから、始まる。」
空は静かに、しかし確かに――彼女を迎え入れていた。
雲冠峰の最上層――〈風環〉の縁。
白い雲海と大空の境目に、エリゼはひとり、静かに立っていた。
胸元の《雪翼》が、淡い蒼光を宿して脈動する。
その律動は風と完全に同期しており、触れれば即座に羽ばたきそうなほど柔らかく、
背中の翼は閉じたままでも、微細な光をこぼしていた。
眼下には、世界中の風が集まる“空の地図”。
幾千もの流線が層を成し、彼女が踏み出すのを待っているように煌めいている。
エリゼはゆっくりと息を吸い込んだ。
その背後――少し離れた位置に、二つの影が立っている。
リオン。
腕を組み、いつもの無愛想な表情のまま、
だがその口元には誇らしげな、抑えきれない笑みが滲んでいた。
「……あいつ、本当に空まで行っちまったか。」
シルヴァ。
風の流れを読む癖で指先を空に掲げていたが、
その横顔には警戒ではなく、安堵がほんのりと灯っている。
「もう心配いらない。風が……あの子を守ってる。」
二人の視線は、ただ一人の少女へ向けられていた。
エリゼ・ヴァル・フロスト。
四つの心臓を得て、“空と並ぶ速さ”に至った者。
その背を押すでも、止めるでもなく――
ただ、見守る者たちがいる。
そして、彼女の前には無数の風の道が、
未来のように広がっていた。
視界いっぱいに広がる“風の地図”。
淡く揺らめく青白の流線。
金に瞬く上昇気流。
白銀の霧を引く下降の帯――。
それらはかつて、彼女にとって“越えるべき障害”でしかなかった。
押し切るべき壁。
ねじ伏せる敵。
戦いの舞台。
だが今は違う。
胸で脈動する《雪翼》がそっと語りかける。
否――語るのではなく、風そのものが彼女に触れてくるのが分かる。
風は戦わない。
試さない。
拒まない。
すべては、共に走るために存在していた。
エリゼはゆっくりと瞼を閉じ、静かに息を吸い込んだ。
その瞬間、世界のすべてが“寄り添う音”に変わる。
エリゼ(心の声)
「空は、戦場じゃない。
風は、私たちを試すためにあるんじゃない。
――共に、走るためにある。」
胸の奥で《雪翼》が、温かく、柔らかく脈打つ。
それは激しい心臓ではない。
祈りにも似た“共鳴”のリズム。
今日、彼女が空翔族ライラから授かったのは――
ただ速さを上げる心臓ではない。
“空と心を並べるための器”。
それを理解した瞬間、
風の道すべてが――まるで微笑むように、エリゼへと流れ始めた。
風がそっと、彼女の足元へ寄り添った。
まるで「行け」と告げるように、雲表が細く割れ、
その裂け目に白い光が走って――一本の“滑走レーン”が空へ伸びていく。
背後で、リオンが小さく息を呑む。
リオン(かすかな声)
「……行くのか。」
シルヴァは腕を組み、苦笑をまぜた吐息を漏らす。
シルヴァ
「次は上層……“外気境界”。
甘くねぇぞ、あそこは。」
けれどエリゼは振り返らない。
ゆっくりと、ただ一歩――雲冠峰の縁を越えるように踏み出す。
その一拍遅れて。
――《雪翼》が展開した。
蒼白の羽光が三段に折り広がり、
無数の氷粒子と風の線が彼女の背から溢れ出す。
翼は音もなく、ただ優雅に、
空に“受け入れられた者”だけが持つ滑らかな軌跡を描いた。
その姿に、周囲の空翔族すら息を止める。
次の瞬間、空がエリゼを抱き上げるように大きく脈動した。
風脈が渦を描き、彼女の身体を持ち上げ――
エリゼは落下ではなく、吸い上げられるように空へ昇る。
世界が淡い白光に満たされる。
光の向こうで、一本の鮮烈な“風の流線”が開かれる。
それは雲冠峰よりもさらに上――
空翔族でさえ滅多に見られない、天空の最上層。
《外気境界》
大気が薄れ、風が純粋な“流れ”だけになる高さ。
そこは――次なる章、
**《大気圏突入/無限回廊編》**への入口。
エリゼは光の中へ吸い込まれながら、確かに聞いた。
胸の《雪翼》が紡ぐ、未来への律動。
「風翔者エリゼ。
その翼が向かう先は、まだ誰も知らない。
ただ一つ――
自由の空は、ここから始まる。」




