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《Snowboard Chronicle:Seven Hearts of Snow》 ――雪を嫌う悪役令嬢、世界を滑る。  作者: 南蛇井


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証と継承 ― “雪翼の授与”

ゴールの光を抜けた瞬間、耳に届いていたすべての音が――ふっと消えた。

 風環を満たしていた眩い輝きが、まるで深呼吸をするようにゆっくりと収束し、空そのものが薄い膜を張ったように静まり返る。


 雲橋に並ぶ空翔族たちが、一斉に動きを止めた。

 風笛も、羽音も、ざわめきもない。その沈黙は恐れではなく、ただ“待つ”という意志の静けさだった。


 雲の流れが緩やかにほどけていく。

 本来なら絶え間なく形を変え続けるはずの雲が、いまは空の一点を見守るかのように留まり、光を抱きしめている。


 エリゼは胸に手を当てた。

 そこでは――まだ生まれたばかりの心臓のように、《雪翼》がかすかに鳴動している。

 蒼い光が掌越しに呼吸し、鼓動するたびに風が薄く震えた。


 息を呑む。

 空が、自分を見ている。

 誰よりも高い場所から、静かに、深く。


 その視線のような静寂は、祝福にも審判にも似ていた。

 けれどエリゼは怯えなかった。


 ――これは終わりではない。

 この静けさは、次の瞬間を迎えるための“儀式”なのだ。


 そう確信できるほど、空は優しく、澄みきっていた。

静寂の中心に、一歩、足音ではなく“風の形”が生まれた。


 ライラが歩み寄ってくる――

 しかし、氷床に触れているはずの足は音を立てず、

 ただ彼女の周囲で風粒が規則正しく揺れ、その動きが彼女の軌跡を示していた。


 六翼《空冠翼》は完全に静止している。

 だが止まったのではない。

 “余計な流れをすべて沈め”、ただ存在するだけで周囲の風脈を整えているのだ。


 その静止は、まるで空そのものが彼女に膝を折っているようですらあった。


 エリゼは、もう怯えなかった。

 かつては威圧と感じたその静謐さが、いまは“並ぶ者だけに許される風の温度”として胸に届いている。


 風が拒まない。

 むしろ――エリゼをライラの隣へと導いている。


 やがてライラは目の高さまで歩み寄り、ふっと微笑んだ。

 その微笑は雪より柔らかく、空より澄んでいた。


 そして、光の粒が彼女の声とともに静かに揺れる。


 ライラ「……よく、ここまで来ましたね。」


 その声音は穏やかで、しかし聖域の巫女としての威厳を帯び、

 風の律そのものが言葉を紡いでいるかのようだった。


 エリゼの目前で、ライラの六翼《空冠翼》がわずかに震え、

 空気が柔らかく波紋のように広がった。

 それは、空翔族における“評価”の所作――責めるのでも、称えるのでもない。

 ただ事実を風に乗せて伝える儀の一端。


 ライラは静かに、けれど確かな響きを持つ声で言った。


 「あなたは風を力で押し、

  速度でねじ伏せようとしていた。

  ――最初は、ね。」


 エリゼは目を伏せ、そっと唇を噛む。

 逃げ隠れできる言葉ではない。

 自分がずっとやってきた“滑り方”――風と、戦ってきたこと。


 けれど、ライラは首を横に振った。

 その仕草はまるで、雲のすき間から日差しが差すみたいに優しい。


 「けれど、風はあなたに勝ちたいと思っていない。」


 エリゼは顔を上げる。

 その瞬間、風がふたりの間をかすめ、白い粒子がきらめいた。


 「あなたが耳を傾けたとき、風はようやく……

  あなたの名を知ったの。」


 その言葉に、胸の奥で《雪翼》が控えめに鼓動する。

 それは風の心臓が、確かに“共鳴”の形を覚えた証だった。


 エリゼの滑走は、もう競争ではなかった。

 勝ち負けでもなく、力押しでもない。


 ――風と並び、風に抱かれ、風と“ともに”駆ける滑り。


 ライラは静かに瞳を細める。

 その目には、弟子でも挑戦者でもない、

 一人の“同じ空を滑る者”としてのエリゼが映っていた。


ライラはそっと片手を持ち上げ、

 エリゼの胸元――《雪風》の紋が宿る一点へ、

 触れるでも押すでもなく、ただ“風の距離”で手をかざした。


 その瞬間だった。


 谷間に満ちる風が、ひとりでに息を吸い込むように震えた。

 雲橋に佇む空翔族たちの風笛が、

 合図でも指令でもない、祈りの旋律を自然と奏で始める。


 低く、深く、空と同じ高さの音。


 その響きに呼応するように、空の粒子が舞い上がった。

 雪片のように白く、光のように淡く、

 それらは風に運ばれ、エリゼの胸の前へと螺旋を描きながら集束していく。


 やがて――光が形を成し始めた。


 雪の六角形。

 風の流線。

 空の環。


 三つの律動が重なり合い、

 ひとつの“心臓”として脈動する。


 四つ目の心臓。

 《雪翼ユキヨク》。


 光が拍動するたびに、

 エリゼの背に透明の翼が一枚、そっと継ぎ足されるような感覚が走る。

 痛みではない。

 温もりとも違う――ただ“受け入れられていく”気配。


 ライラが静かに言葉を紡いだ。


 「あなたは風を支配せず、風に愛された。

   その心に――

   〈空翔の証〉を。」


 光が吸い込まれるようにエリゼの胸へ沈む。

 次の瞬間、背中の翼がふわりと膨らみ、

 新しい律動が彼女の全身を優しく満たした。


 ――風の心臓が、今、ひとつ増えた。

 風笛の旋律が、突如として空翔の聖域を満たした。

 先ほどまでの静けさが嘘のように、

 無数の音色が重なり合い、空そのものが歌い始める。


 それは勝敗を讃える音ではない。

 戦いや競技の果てに響く歓声でもない。


 ――“空の民として認められた者”にのみ贈られる、祝福の風。


 雲橋に並ぶ空翔族たちが、次々と風翼を広げた。

 白金、蒼、薄桃、氷光――多彩な風の色が弧を描き、

 太陽の光を反射してエリゼへと降り注ぐ。


 その光は、まるで

 「ようこそ」

 と言っているかのように柔らかい。


 族長ライラが一歩下がり、

 今度は族全体が“迎え入れる”空気へと変わる。


 後方で見守っていたリオンが、呆れたように笑った。


 「……本当に、空に選ばれちまったな。」


 エリゼは振り返り、少し照れたように微笑む。

 その横で、シルヴァがわざとらしく肩をすくめた。


 「風も、面倒を見る相手が増えたわけだ。」


 軽口の裏に隠された誇りと安心が、

 風よりも温かくエリゼの胸に届く。


 その瞬間、

 新たな心臓《雪翼》が静かに脈動した。


エリゼはそっと胸に手を当てた。


 指先の下で脈打つのは、

 これまでの《雪風》とも、砕け散った《雪幻》とも違う――

 まったく新しい音。


 軽い。

 広い。

 空そのものが呼吸しているような、

 果てしなく続く“揺らぎ”のリズム。


 聞き慣れないはずなのに、

 どうしてか懐かしい気がした。


 (……これは、戦うための音じゃない。)


 胸の奥で、静かに言葉が形を取る。


 (誰かに追いつくための速さでもない。)


 空翔族の風笛が遠くで揺れ、

 風がそっと髪を撫でていく。


 エリゼは瞼を閉じ、深く息を吸い込んだ。


 (ただ、空と一緒に――

  滑っていきたい。)


 その瞬間、背に宿った新しい翼《雪翼》が柔らかく震え、

 空の律動と完全に同期する。


 彼女の速さはもはや“名もなき勢い”ではなかった。

 力ずくの加速でも、幻を破るための刃でもない。


 風と並び、空と響き合う――

 真の空翔者の速さ。


 エリゼはそっと目を開けた。

 世界が、すべて新しく見えた。


 ライラは、静かに、しかしどこか誇らしげな足取りでエリゼの前へ戻ってきた。

 六翼《空冠翼》は完全な静寂のまま――けれど、その周囲だけ、風が柔らかな光をまとう。


 風笛の音が遠のき、

 雲橋に立つ空翔族たちの気配が、息をひそめたように静まる。


 ライラはエリゼの肩に軽く触れ、

 そしてその名を呼んだ。


 「エリゼ。」


 エリゼは胸に宿る《雪翼》の律動を確かめるように、ゆっくりと顔を上げた。


 ライラは微笑む。

 優しさと威厳が同居した、空翔族の族長としての微笑み。


 「今日からあなたは――」


 一瞬、風が止まる。

谷も、雲も、光さえも、その次の言葉を待つ。


 「**風翔スカイランナー**の名を持つ者となる。」


 その宣言が空へ放たれた瞬間、

 風環ウィンド・ヘイローの奥で、透き通った音が響いた。


 鈴の音のようであり、

 風笛の祈りのようであり、

 空そのものが“ひとりの滑走者を歓迎した”音。


 エリゼの胸がじんわりと熱を帯び、

 《雪翼》がひときわ大きく脈打つ。


 自分の中で、なにかが変わった。

 いや――

 世界の方が、自分を新しい名で呼んでくれたのだ。


 ライラは手を離し、静かに一歩退く。


 「さあ、風翔のエリゼ。

  あなたの物語は、ここから先――

  新たな空域へと続いていく。」


 風が、まるで祝福するように彼女の髪を撫で抜けた。


 エリゼはそっと息を吸い込む。

 空の気配が胸に満ちていく。


 ――もう迷わない。

 この空は、わたしの滑る場所だ。


 こうして、エリゼの物語は新たな章へと踏み出す。

 風と雪と空が、彼女の名を記し直すように――。





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