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《Snowboard Chronicle:Seven Hearts of Snow》 ――雪を嫌う悪役令嬢、世界を滑る。  作者: 南蛇井


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32/51

最終滑走 ― “空と並走する”

風が――変わった。


《雪翼》が覚醒した瞬間、レース空域を満たしていた荒れた気流は、まるで何かの拍動に呼応するように静まり、次の瞬間には光を帯びてゆっくりと脈動を始めた。


雲冠峰の空は、もはや“空間”ではなかった。

それは生き物の内側にいるような、温かさと柔らかな振動をもってエリゼの周囲を包み込む。


風脈は曲がり、揺れ、

滑走者の動きに合わせて形を変える――

まるで「道」を示すのではなく、

「一緒に走ろう」と手を差し伸べているように。


エリゼは思わず息を呑んだ。


その前を滑るライラの六翼がひらめくたび、

空に白金色の曲線が描かれた。

ひとつひとつが流麗で、祈りの筆跡のように澄んでいる。


そして――


エリゼが《雪翼》をひらめかせるたび、

その白金の線に寄り添うように、蒼い曲線が生まれた。

それは風がエリゼの滑走を追いかけ、重なり、抱き込むような動き。


やがて二本の光は絡み合い、

雲上に巨大な“二重螺旋”を描き始める。


白金と蒼。

まるで空の深層と風の心臓が、互いを映し合っているようだった。


空翔族の神話に語られる“風の契り”。

風と滑走者が完全に並走したときだけ現れるという、伝承上の紋。


その象徴が――

エリゼとライラの滑走によって、今、空に刻まれていた。


エリゼの胸が熱くなる。


「……こんなの……」


風を“競い相手”だと思っていた頃には、決して見られなかった景色。


風は怒っていなかった。

試してなどいなかった。


ただ――

彼女が並びに来るのを、待っていた。


風が――エリゼを抱いた。


それは彼女がずっと求めながら、しかし一度も掴めなかった“速さ”の本質だった。


エリゼの身体は、もう空とぶつかっていない。

重力を蹴り、風を抑え込んで進んでいた以前の滑走は、たった今その意味を失っていた。


《雪翼》がひらめくたび、彼女の身体は空へ沈み、

次の瞬間には空そのものに押し上げられる。


推進力は“力”ではなく――

空と彼女の呼吸が重なった瞬間に生まれる律動。


エリゼは風を掴んでいない。

風が、彼女の背を押している。


「あ……」


言葉にならない。

ただ、胸の奥が震える。


彼女の滑走には“意思”と“空の意志”の区別がなくなっていた。

意図して曲がるのではない。

風脈の緩やかなカーブに合わせ、自然と身体が旋回していく。


それは――追走でも、追い抜きでもない。


ただ、ライラと並んでいる。

同じ高さ、同じ速度、同じ風の呼吸の上で。


空翔族の奥義を極めた者だけが到達するという境地。

〈共鳴滑走〉――空の律と自我が一致する瞬間。


その境地を、エリゼは今、たったひとりで切り開いていた。


前を走るライラの六翼が、わずかに震える。

感情を隠し続けてきた彼女にしては、あまりに露骨な動揺。


ライラ(震えの混じる微笑で)

「これが……あなたの速さ……?」


驚嘆、畏怖、そして……歓喜。

そのすべてを含んだ声だった。


ライラは初めて悟る。

“並走”という概念に到達した者など、これまで一度もいなかったと。


しかしエリゼは違う。


彼女は風に選ばれ、風を選び返し、

そのうえで――空と手をつないだ。


もう、勝敗の形では測れない。


二人の軌跡は重なり、

蒼と白金の二重螺旋は、さらに濃く空に刻まれていく。


空が震えていた。

その振動は、祝福の音そのものだった。



空が――息をした。


その瞬間、世界がふたりを中心に静かに反転した。


上空の雲橋が次々と裂け、

内部に封じられていた気流が、淡い光をまとって溢れ出す。

それは崩壊ではない。歓迎の証。


ライラとエリゼの前へ、

空自らが“道”を差し出している。


稲妻が暴れていた雷雲は、まるで祝福するように音もなく収まり、

雲の層は柔らかな光を縁取って、滑走のための“奏道そうどう”へ変わる。


風環――天冠神殿の象徴である輪が、高鳴る。

だがそれは音ではなく、**鈴の音のような“無音”**だった。


空翔族が神話として語る《空の調べ》。

空そのものが、真に風と並走した者を認めたときだけ起こる現象。


ライラが軽く息を呑む。

その六翼が震えているのは、もはや風を制御してのことではない。

空の律そのものに打たれているからだ。


エリゼの胸の奥で、新たに覚醒した《雪翼》が脈動する。

その鼓動が、空の呼吸と完全に同期していた。


風が頬を撫でた。

押すでも、試すでもない。

ただ触れるだけの、優しい風。


エリゼ(心の声)

「――空が、私を見てる……。

 ううん……“待っててくれた”んだ……。」


蒼と白金の二重螺旋は、もはや速度の軌跡ではない。

それは、空と人――

そしてふたりの滑走者が結んだ新しい契りの形だった。



最終区間へ――空が静かに伸びていく。

風環の中心へと続く、一本の輝く航路。


ライラが六翼《空冠翼》を震わせ、速度をひと段階引き上げる。

その瞬間、彼女の背後に描かれた曲線――白金の風道が、一気に鋭さを増した。


だが。


エリゼの《雪翼》は考えるより早く、その曲線をなぞった。

追いすがるでも、奪い取るでもない。

ただ、“重なる”ように。


まるでふたりの滑走が、ひとつの旋律になる。


逆にエリゼが加速をかけると、

今度はライラの翼が柔らかく揺れ、蒼の軌跡に寄り添うように軌道を調整する。


推進でも牽制でもない。

ふたりの気流が――重なった。


距離は縮まらない。

離れもしない。

ただ、完全に「並んで」いた。


速度は極限を超え、雲が破れ、空が光の筋を描く。

だというのに、そこに競争の気配は一つもない。


勝負が――消えた。


風だけが、ふたりを祝福するように鳴っている。


ライラは横目でエリゼを見やり、

その瞳に、戦いではなく“誇り”の色を宿す。


ライラ(静かに、誇らしげに)

「――ようやく……あなたは、空と並んだ。」


その言葉は、勝敗より重い。

空翔族が百年追い続け、誰も届かなかった境地。


それを今、

白き滑走者と蒼の風翼が、確かに掴んでいた。


風環の中心――

そこは、空翔族が“空の心臓”と呼ぶ場所。

どんな風も、どんな速度も、最後にはここへ収束する。


そのゴールが、光の裂け目となって開いた。


白金の曲線が右へ、

蒼の曲線が左へ――

そして、ふたりの軌道は一点で交わる。


ライラとエリゼが、

同じ呼吸のまま、同じ滑走角度で――

同時に光の中へ滑り込んだ。


瞬間、世界が息を止める。


ふたりの軌跡が空に描いた巨大螺旋紋は、

白金と蒼が幾重にも重なりあい、

まるで空が自ら描いた“祝福の紋章”だった。


雲が静止し、

雷雲が割れ、

風環が大きく脈動する。


そして――


音のない風鈴が鳴った。


チリ……とも、カラン……とも違う。

物質の震えではなく、

風そのものが揺らめいて発する“無音の響き”。


空翔族全員が息を呑む。

風笛を持つ者たちでさえ、音を忘れたように立ち尽くす。


それは、勝者を讃える音ではない。

敗者を悼む音でもない。


――空が、ふたりを“同格”として迎えた証。


速さが意味を失い、

ただ“並ぶ”ことだけが、空の答えとなった。


世界に響いたその無音の調べは、

空翔族の誰もが百年に一度聴けるかどうかの――

奇跡の音だった。


光の裂け目――“風環の中心”を抜けた瞬間、

ふたりの身体は柔らかな気流に包まれて、ゆっくりと着地した。


そこは、雲の上にわずかにせり出した“空の台座”。

地ではなく、風そのものが支えとなる場所。


蒼と白金の粒子が舞い散り、

まるで空が喜びの息を漏らしたかのように光が降り注ぐ。


エリゼとライラ。

どちらも遅れず、どちらも先に出ず――

完全に同じ瞬間に滑走を終えた。


ふたりの足が雲の床に触れ終えたと同時に、

風環が低く歌うように振動し、柔らかな光の輪がふたりを包む。


ライラは六翼《空冠翼》を静かに収めた。

その動作だけで、周囲の風向きが穏やかに整っていく。


彼女は、まっすぐエリゼを見つめた。


「勝敗――そんなもの、空は最初から望んでいない。」


その声は、叱責でも称賛でもなかった。

空の真理を、そのまま言葉にしただけのやさしさ。


「空はただ、“共に駆ける者”を選ぶだけ。」


エリゼは胸に手を当てる。

そこに宿るのは、まだ熱を帯びた《雪翼》の脈動。


鼓動は、心臓というより――風そのものの音だった。


「……私、空と……一緒に滑れたんだ……。」


それは、勝利の実感ではない。

初めて“自分が世界と分かち合えた”という感覚。


ライラは静かに頷き、

その目に宿るのは確かな敬意だった。


「ええ。あなたは初めて――

 風と並走する速さに辿り着いた。」


ふたりの間に風が流れる。

争いの風でも、試す風でもない。


ただ――ふたりを結ぶ、あたたかな風。


それは、空翔族が最も大切にする“共鳴”そのものだった。



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