開戦 ― “スカイ・サーキット開幕”
雲冠峰の最上空――〈風環〉の真下は、地と空の境界が完全に溶けた領域だった。
そこに敷かれたスタートラインは、雲の糸と光の粒子を編んだような半透明の道。足を置いても沈まないのは、“気流”が形を保っているからにすぎない。地面の概念は存在せず、踏みしめるたびにゆらりと揺れ、まるで空自体が脈を打っているようだった。
空翔族たちの風笛が、すっと止む。
音が消える。世界が呼吸を忘れたような静寂が広がる。
次の瞬間――遠方で雷光が走る。
その光は誰も傷つけぬほど遠いはずなのに、残響だけが空の膜を震わせ、胸の奥に低い波動となって届いた。
ライラは静かに目を閉じた。
背に広がる六翼、《空冠翼》がふわりと膨らむ。
羽根ではない。風の律そのものが結晶化した六枚の光の流体。
翼が開くたび、空の流れが彼女に従うように沈黙を深めていく。
一方で、エリゼは喉が張りつくほど緊張していた。
背の《雪風》が胸の鼓動に合わせて脈動し、風が細い流れをつくって肩を揺らしていく。
ただ立っているだけなのに、もう足は空へ落ちてしまいそうだった。
そんな中で、ライラが小さく呟く。
「風よ。はじまりを告げて。」
その声が触れた瞬間――
空そのものが“呼吸”を取り戻した。
風環が低く、深く唸る。
雲がわずかに震え、気流がスタートラインへ向けて収束していく。
これが、空が二人の挑戦を“受け入れた”合図だった。
合図は笛でも鐘でもない。
この天空では、風そのものが審判であり、天こそが主催者だった。
はじめに走ったのは――光。
天冠のはるか上空で閃いた一筋の白光が、空域を横切りながら細かく震え、まるで空の皮膜を指先でなぞるように軌跡を残す。
次の瞬間、その光がぱん、と音もなく裂けた。
裂け目は細い亀裂となって雲へ落ち、
雲は絹布を無理に引き裂かれたように左右へはじけ飛ぶ。
そこから転がり落ちてきたのは――
轟くでも吹き荒れるでもない、“落ちてくる風”。
重力を持つ風。
雲冠峰の最上層にだけ現れる、空翔族の儀式に呼応する“下降風”。
風翔民族にとって、これこそがスタートの号砲。
ライラが一瞬、瞼を上げる。
その眼差しは静かで、何の迷いもない。六翼が光を集め、彼女の周囲だけがひと呼吸早く動き出す。
一方、エリゼは胸の《雪風》が鋭く脈打つのを感じた。
風が、落ちてくる。
空の律が、こちらへ向かってくる。
彼女は《雪風》の風翼を展開した。
氷の粒子が蒼光へ変わり、翼の縁で風が震えた。
――ひと拍。
下降風が二人の上へ、真っ直ぐ落ちてくる。
その瞬間――
ライラとエリゼは、同時に踏み切った。
地面はない。踏んだのは、ただ一瞬だけ形を得た“風”。
天から落ちた号砲の風を、二人は真っ向から蹴り上げて――
スカイ・サーキットが開幕した。
号砲となった下降風が散り、次の風の層が押し寄せるより早く――
ライラはすでに空を舞っていた。
その動きは“滑走”と呼ぶにはあまりに静かで、あまりに完成されている。
六翼《空冠翼》が淡く震えると、空気の層が波紋のように広がり、
彼女のために風の旋律が一本、すっと描かれる。
ライラはその“音の線”に沿うように身体を傾けた。
次の瞬間、彼女は弧を描きながら雲を蹴る。
雲片が砕け、細い氷霧が七色に屈折して散った。
それはまるで――
風が彼女の形を真似ようと伸びあがっているようだった。
抵抗は一切ない。
乱流すら生まれない。
空が彼女を押し、支え、抱き上げ、次の層へ導く。
地形のない空間で、彼女だけが“道”を持っているかのようだった。
六翼が開くたび、雲は左右に割れ、
そこに白い光の弧が残る。
ライラの軌跡が、空そのものをひと筆で描く絵の具のように。
――滑っているのではない。
――風が、彼女を描こうとしているのだ。
追う立場のはずのエリゼは、一瞬、言葉を忘れた。
目が、心が、追うより先に“見惚れて”しまう。
(エリゼ・心の声)
「……綺麗……じゃない。
これ……速い……!」
羨望でも恐怖でもない。
ただ、圧倒的な“流れ”が、胸の奥を震わせた。
ライラが風と調和し、旋律のように空を舞う一方で――
エリゼはまるで異なる道を選んだ。
風を読むのではない。
風に寄り添うのでもない。
ただ、荒ぶる流れを掴み、ねじ伏せ、力に変える。
背の《雪風》が大きく展開すると、周囲の雲が一気に波立った。
眠っていた乱流が目を覚まし、
彼女の身体を中心に、空そのものが“暴風の渦”へと変わっていく。
エリゼはその混乱を恐れず、むしろ加速の火種にした。
荒れ狂う下降風を踏みつけ、上昇気流を弾き飛ばし、
雷雲の隙間へ強引に突っ込む。
閃光が背後で炸裂し、彼女の軌跡だけが大きく波打つ。
雲海はまるで巨大な獣の背中のように隆起し、ひっくり返る。
ライラの優雅な滑りとは対照的な、
“風との殴り合い”のような軌道。
それでも――速い。
危険なまでに速い。
短い直線ではライラに肉薄し、時に並びかける。
だが、空はまだエリゼを受け入れてはいなかった。
風笛の残響越しに、遠くからシルヴァの声が届く。
シルヴァ(幻聴のように)
「おい、エリゼ! その滑りじゃ、空はつかめない!」
分かっている。
それでも――止まれない。
胸の奥の《雪風》が激しく脈動し、
“もっと速く”“もっと掴め”と叫ぶ。
エリゼは歯を噛みしめ、乱流を正面から蹴り裂いた。
エリゼ
「まだ負けない……!
速さなら――勝てる……!」
空が震えた。
荒れ風が吠えた。
エリゼは風と競り合うようにして、
ライラの背中へ、さらに深く迫っていった。
雷雲層へ入った瞬間、
空が断ち割れたような光景が広がった。
枝状の稲妻が幾重にも走り、
空間そのものが裂け、縫い目を失った布のように揺らいでいる。
風脈は四方八方へ暴れ、
上昇・下降の流れが秒ごとに入れ替わる――
常識的な滑走など不可能な“空の罠”。
だがライラは、まるで最初から知っていたかのように静かだった。
六翼《空冠翼》が淡い光を放ち、
空中の雷光の“流れ”を読み取る。
稲妻の刹那の空白――
その一瞬だけ生まれる“風穴”へと身体を滑り込ませた。
雷鳴が響く前に、ライラの姿は次の層へ抜けていた。
完璧。
美しい。
風と雷すら、彼女の進路を拒まない。
エリゼはその後を追った。
彼女のやり方は違う。
読み取るのではない。
恐れないのでもない。
ただ、突破する。
落雷すれすれを、
背中の風翼を限界まで開き、
雷光の横を、髪が焼けるほどの距離で突っ切った。
空が白くフラッシュする。
熱が皮膚を刺す。
乱流が骨を震わせる。
それでも――エリゼは叫んだ。
エリゼ(心の声)
「――怖くなんかない!
風よ、押すなら押せ! 私は抜ける!!」
荒れ狂う風を両足で踏みしめ、
落雷直下の乱流を逆手に取って跳ね上がる。
純粋な力技で雷雲の“裂け目”を突破した。
空気が一瞬、静まる。
その静寂の中で――
エリゼの脳裏に、あの言葉が蘇る。
リオン「その滑りは、まだ“戦ってる”だけだ。」
胸の奥で、何かがひりついた。
そう――
まだこの滑りは、風への挑戦にすぎない。
空と“並ぶ”滑りでは、まだなかった。
雷雲の向こうでライラの背が遠ざかる。
エリゼは奥歯を噛みしめ、再び翼を広げた。
雷雲層を抜けた瞬間、
空は一転して、静謐な光に満ちた。
眼前に広がるのは――
薄氷でできた巨大な虹のアーチ。
まるで空そのものが凍り、
七色の光をその内側に閉じ込めたような“氷の虹道”。
表面は氷膜のように極薄で、
足を乗せれば、風の層がそのまま推進力へ変わる。
速度は跳ね上がる。
だがその代わり、
滑りは極端に不安定になり、制御不能に陥る危険地帯でもあった。
最初に虹へ入ったのは、ライラ。
六翼《空冠翼》を小さく震わせ、
氷膜の“振動”と風の周波数を完全に合わせる。
――滑った瞬間、虹が歌い出した。
氷膜が割れず、風と同調し、
ライラの身体は加速の光と一体化する。
彼女は氷の上を滑っているのではない。
氷が、彼女の滑りを受け入れている。
虹が揺れ、七色の尾がきらめく。
その軌跡は、まるで天上の琴線。
そして――エリゼ。
彼女は虹へ乗らなかった。
踏み込んだ瞬間、刃を突き立てた。
氷膜が鋭く割れ、
虹が“悲鳴”のような音を立てて崩れかける。
爆ぜるような突風が、足元から吹き上がる。
エリゼはその反発力を全て吸収し、
鋭く前へ跳ぶ。
爆発的加速。
視界が白く弾ける。
気付けば、ライラの背はすぐ目の前に迫っていた。
距離が一気に縮まる。
だが――
ライラは振り返らない。
ただ視線だけをわずかに横へ向け、
エリゼを横目に捉え――
淡く、微笑んだ。
ライラ(小さく)
「速い。
でも――まだ“空の速さ”じゃない。」
柔らかな声だった。
説教でも嘲笑でもない。
ただ、空を知る者だけが持つ確信の温度。
エリゼの胸の奥が、かすかに疼いた。
破壊でもなく、力でもなく――
もっと別の“速さ”がある。
そんな予感だけが、風の中でかすかに震えていた。
薄氷の虹を抜けた先――
空は再び荒れた風の鉤爪をむき出しにし、
雲橋が砕けるように散った。
ライラとエリゼ、
速度だけなら完全に互角だった。
二人の光跡は幾重にも交差し、
雷雲の狭間を抜けては巻き上がり、
まるで空そのものが二色の旋律で書き換えられていくよう。
しかし。
空翔族〈アルヴァリウス〉たちが風笛を静かに吹き、
その“囁き”が空域全体へ滲む。
空翔族の声(風笛の囁き)
「荒波の速さ……」
「だが、まだ“風に選ばれて”はいない……」
その言葉に呼応するように、
風が二人をはっきりと違う反応で迎え始めた。
◆ライラの滑り――“風と溶け合う速さ”
ライラが滑れば、風が柔らかく曲線を描く。
六翼《空冠翼》は透明な地図のように空を照らし、
気流が彼女の前に“道”を敷く。
それは、風が彼女を抱き、
包み、
導いている速さ。
◆エリゼの滑り――“風と戦う速さ”
一方、エリゼの軌道は鋭い。
風を掴み、押し込み、捻じ伏せる。
風が跳ねれば跳ね返し、
荒れ狂えば、それすら推進力に変えて突き進む。
爆発的で、華々しく、速い。
だが、空の流れとは対等ではなかった。
エリゼ(心の声)
「……私は……風と、並べてない……?
ぶつかってるだけ……?」
その気づきが胸に刺さった瞬間、
背の紋章《雪風》がかすかに脈動した。
風が警告するように、彼女の腕をすり抜ける。
速さは互角。
しかし、速さの“質”はまるで違う。
その差に、エリゼはようやく気づき始めた。
――後に彼女が辿りつく、
“空と共鳴する滑り”へと向かう、
決定的な伏線となる気づきだった。




