覚醒:封印の解放《白哭》
――音のない世界に、ひとつだけ“音”が生まれた。
止まった灰雪の中で、低い“キィィン”という氷鳴音が響く。
それは風のようでもあり、悲鳴のようでもあった。
誰の耳にも届かない。
群衆は凍りついたまま、鐘の余韻を保った姿勢で静止している。
ただ一人、エリゼだけが――その音を聞いていた。
胸の奥、心臓の鼓動とぴたりと重なるように、その氷音は震える。
冷たく、深く、まるで“遠い呼び声”のように。
彼女の足元――白い石畳に、光の筋が走った。
細く、淡く、ひとすじの線が雪の下から滲み出す。
まるで地の奥から、氷の芽が顔を出すかのように。
光はゆっくりと円を描き、やがて複雑な幾何の紋様を形づくる。
雪の結晶を思わせるその模様が、静かに回転を始めた。
「それは、ヴァルトハイト家に代々刻まれた“雪封印”。
雪を忌む一族が、自らの血にかけて縛った鎖だった。」
エリゼの瞳に、淡い蒼の光が反射する。
封印紋の線がかすかに震え、ひび割れを起こした。
パキン……
微かな音が広場に響く。
誰も動かないはずの世界で、確かに“何か”が壊れた。
ひびの隙間から、淡青の光が漏れ出す。
それは静かで、美しく、
けれど――どうしようもなく不穏な“始まり”の色だった。
モノローグ:
「……聞こえる。
封じていたはずの、私の中の音が。」
氷の紋様がさらに広がる。
その光が、まるで息をするように脈打った。
――パリン。
乾いた破裂音が、静止した世界の中に響いた。
その瞬間、足元の封印紋がまるで命を得たように脈動を始める。
氷の線が光を孕み、円環が音もなくほどけていく。
淡青の輝きがエリゼの足元から立ちのぼり、
脚を、胸を、腕を――包み込むように流れ上がる。
雪を拒むはずだったその身体を、
雪そのものが優しく撫でるように。
衣の下で、古い封印文字が次々と浮かび上がった。
肌の上を走るそれは、雪の結晶を思わせる繊細な紋。
白く、冷たく、しかし――今は燃えるように光っている。
エリゼ(モノローグ):
「これが……私の中の“雪”。
閉じ込められていた、もう一人の私。」
彼女はゆっくりと右手を掲げた。
光が掌へと流れ込み、指先から淡青の粒が舞い上がる。
まるで無数の雪片が、逆風の中で帰巣するように――
彼女の指先に吸い込まれていく。
光が集まり、形を変えていく。
冷たい金属のような質感、雪のような透き通る輝き。
その中心に、淡い結晶構造が浮かび上がった。
――それは、“板”だった。
風を裂くために生まれた、白銀の滑走具。
古より禁忌とされた、氷の魔導ボード。
エリゼの掌の上で、“それ”は息をするように震える。
エリゼ(小声):
「……目を覚まして。《白哭》。」
その名を呼んだ瞬間、世界の静止が軋んだ。
雪が、微かに――鳴いた。
「……来て。《白哭》」
その囁きは、まるで氷面に落ちた一滴の涙のようだった。
だが次の瞬間――静止していた世界が、音を取り戻す。
――キィィィィンッ。
氷鳴音が爆発的に広がった。
白祈広場の地面が細かくひび割れ、
凍てついた石畳の隙間から、眩い光が噴き上がる。
吹き上がる氷片が宙に舞い、灰雪と衝突して閃光を散らす。
まるで雪が泣いているような――
世界そのものが悲鳴を上げているような音。
その渦の中心で、光が形を取る。
結晶が幾重にも折り重なり、線と線が交差し、
やがて一枚の“滑走板”が姿を現した。
表面は鏡のように滑らかで、雪の反射をそのまま閉じ込めたかのよう。
裏面には雪華の紋が刻まれ、微細な結晶が呼吸するように輝く。
「それは古より禁忌とされた雪の遺物。
乗る者の心と魔力を変換し、風を力へと変える。
――名を、《白哭》。」
雪が鳴き、風が震える。
静止していた灰雪が、彼女の吐息に合わせて微かに流れを変える。
広場の空気が揺れた。
それは“動いてはならない世界”が、
彼女の存在によって――わずかに、動き始めた証。
エリゼの髪がひと筋、頬をかすめて舞う。
その瞳の奥には、確かな“風”があった。
止まっていた時間が、ゆっくりと動き出した。
灰雪が再び落ちる。
凍りついていた群衆が、一斉に息を吹き返すようにざわめいた。
祈りの姿勢を保ったままの聖職者が、震える唇で言葉をこぼす。
「――動いた……? 雪が……動いた……!?」
瞬く間に広がるざわめき。
兵たちの甲冑が擦れる音が、雪よりも冷たく響く。
そして、その中心で、ただ一人、動かずに立つ影。
銀鎧の王太子リオン。
その瞳に映るのは、かつて婚約者だった少女――エリゼ・ヴァルトハイト。
彼は息を詰まらせ、反射的に剣の柄を掴んだ。
リオン:「まさか……禁雪具を呼ぶとは!」
声が、広場全体に反響する。
群衆がざわめき、祭司たちが一斉に叫んだ。
「禁忌だ! 雪神の逆鱗を招くぞ!」
「雪を操る者は、災厄の証!」
「断て! その足を断て!」
祈りにも似た罵声が、波のように押し寄せる。
だが――その中心に立つ彼女は、微笑んでいた。
吹雪のような声ではなく、春の雪解けのように静かな声で。
エリゼ:「雪を憎んだ家の娘が、雪を呼ぶなんて――皮肉ね。」
その笑みは、氷よりも透明で、風よりも軽やかだった。
灰雪が舞い上がるたび、彼女の髪が流れ、
掌に浮かぶ《白哭》が淡く輝く。
彼女の瞳には、凍てついた決意と、
雪風のような――止まることを知らない自由が宿っていた。
――静寂の中で、雪が鳴いた。
《白哭》が淡く震える。
氷が擦れ合うような微かな音が、次第に広がり、
やがて“泣いている”ような響きに変わる。
それは、世界の静止を破る“始まりの音”だった。
エリゼはゆっくりとその光を見つめる。
冷たいはずの輝きが、なぜか温かく感じられた。
両の手で《白哭》を抱き上げる。
雪片が舞い、髪が揺れ、灰雪の粒が空中で弾けた。
その動作は、祈りのように静かで、
挑戦のように美しかった。
エリゼ(小声で):「……行こう。」
彼女はボードを足元に置く。
白く輝くその板の表面に、雪の粒が滑り落ち、
きらりと一瞬、星のように光った。
リオンが何かを叫ぶ。
だが、その声は雪風にかき消され、
ただ、ひとつの“音”だけが響く――《白哭》の共鳴音。
「その瞬間、雪は武器となり、風は翼となった。
断罪は、自由への滑走に変わる。」
――そして、風が走り出す。
彼女の足元に雪煙が巻き、世界の色がほどけていく。
“静止”の境界線を蹴り破り、
ひとりの少女が、風そのものとなって走り出そうとしていた。




