対峙 ― “風の継承者ライラ”
幻雪圏を抜けた先――〈天冠神殿〉その外縁に広がる“風環舞台”に、エリゼは立っていた。
そこは地でも空でもない、境界そのものの空域だった。
雲は大地のように層をなし、背の高い雪稜――しかし氷ではなく“高密度の霧”が固まったような塔が、空へ向かって伸びている。遠い斜面では風が可視の線となって走り、まるで無数の龍脈が上空を蠢いているようだった。
そして、その最上に浮かぶ巨大な“輪”――
風環。
虹のようでもあり、氷の結晶のようでもあり、しかしどれとも違う。風そのものが円環を描いて固定されている。中心から漏れる白光が、舞台全体に柔らかな輝きを注ぎ、空域を聖域へと変えていた。
エリゼは息を呑む。
ここは――風の頂。
次の瞬間。
ふわり、と風が沈む。
空の音が吸い込まれるように消え、舞台中央へ白い粒子が寄り集まった。雲の薄片が折りたたまれ、氷霧が形を結ぶ。その中心に――
ひとりの女性が、舞い降りた。
髪は雪の光を編み込んだように淡く輝き、風の流れに合わせてしなやかに揺れる。瞳は、空よりも深い蒼。背には、物質ではない“風の結晶”が六枚、優雅に広がっていた。
その翼がひらめいた瞬間、周囲の風が完全に“従う”。
彼女の周囲だけが、風の支配を逃れたかのように静まり返り、そこにだけ別の重力が流れているようだった。気流の奔流も、雲の濁流も、彼女の一歩に合わせて形を変える。
まるで――空そのものが彼女の影だった。
エリゼは悟る。
この人こそ、空翔民族アルヴァリウスの頂点。
風の巫女。
風に選ばれ、風に愛された存在。
――ライラ・ヴァル=アルヴァリウス。
ただ立っているだけで、風景の重力すら変えてしまう“風の継承者”が、静かに微笑んだ。
ライラの背に広がる六枚の翼――
《空冠翼》。
それは羽根ではなかった。
氷でも、光でも、風でもない。
ただ“律”そのものが姿を取った、純粋な流体。
目に映るのは淡い白光。
だが近づけば、無数の風線が編み込まれ、まるで大気の鼓動そのものが羽となっているようだった。
翼の表面には常に微細な振動が走り、空間の気流を音のように読み取っては、色と光で可視化する。
六翼がひと振りされるたび――
雲が裂ける。
風脈が整列する。
天へ続く迷路が、何もない空に浮かび上がる。
まるで彼女の進む道を、空の方が“先に準備している”かのようだった。
エリゼは思わず息を呑む。
――これは、滑走ではない。
ライラの動きは、あまりに静かで、あまりに滑らかだった。
エリゼのような爆発的加速も、雪風のような跳躍もない。
ただ、風の曲線をそのまま身体でなぞる。
その結果、速度は雷光と遜色ないというのに、乱流は一切生まれない。
風が、彼女を運んでいるのではない。
風が、彼女になりたがっているのだ。
ひとたび滑り出せば、彼女の周囲の空気はすべて従属し、
重力でさえ、ライラにとってはただの風向きの一つに過ぎなかった。
エリゼは胸の奥が震えるのを感じる。
――これは、“速さの最終形”だ。
自分の速さが、まだ始まりにすぎなかったことを、
彼女は初めて悟った。
エリゼが一歩、前へ踏み出した。
その瞬間――
空気がざわり、と逆巻く。
天冠神殿の外縁を巡る気流が、一斉に牙を剥いた。
風が、侵入者を拒む。
足首に絡みつくような逆風。
前髪を乱し、頬を叩き、肺の奥にまで入り込もうとする圧。
エリゼは思わず息を呑んだ。
まるで、この空域そのものが彼女の“速さ”を試すように――
いや、拒絶さえしているように思えた。
だが。
ライラの視線が、ふとエリゼに触れた。
たったそれだけだった。
暴れていた風が、音もなく沈静する。
嵐に飲まれかけていた空気が、まるで子どもが叱られたように静まり返った。
風が従うのではない――
風が“彼女に帰順した”のだ。
エリゼは息を吸い込む。
自然と、背の《雪風》の紋章が脈動し、風翼が開こうと――
その瞬間、動きが止まる。
目の前にある“調和”が、あまりにも違いすぎた。
ライラの六翼《空冠翼》は、ただ広がっているだけで空全体を整えている。
襲いかかった風を静め、乱流の芽を消し、
エリゼが踏み出す空気すら“安全な地”へと変えてしまう。
エリゼの《雪風》は“風を掴む”ための翼だ。
しかしライラの翼は、“風そのものを正しい流れへ戻す”翼。
似ているようで、根本から違う。
速さの質が、次元が、意味が違う。
エリゼ(心の声)
――これが……“空の民の速さ”。
彼女は初めて、風に抱かれるという感覚を知った。
ライラはそっと手を掲げた。
空気の層をなぞるように、指先で軽く触れる。
それだけで――周囲の風が、まるで大切な秘密を打ち明けるように震え、静かに従った。
そして、囁くように、しかし揺るぎない真理の響きをもって言う。
ライラ
「空を掴む者は、風を支配しない。
風に抱かれる者だけが、真の速さに至る。」
その声は、雪解けのように柔らかく、
同時に“抗えぬ正しさ”を帯びてエリゼの胸に落ちた。
速さは力ではない。
風を押し切ることでも、読み切ることでもない。
“抱かれる”――そんな発想、今まで一度も持ったことがない。
エリゼは息を吸いそこねた。
エリゼ(心の声)
「抱かれる……風に……?
私はずっと、風と戦ってきた……。
でも、この人は……風と“寄り添って”いる……?」
胸の奥が熱くなる。
敗北ではない。屈辱でもない。
未知だ。
目の前の女性は、自分より強いのではなく――自分より“自由”だ。
エリゼがまだたどり着いていない、もっと広い空を生きている。
風に抱かれ、風を抱き返す者の速さ。
その境地に触れた瞬間、
エリゼの瞳は新しい色を帯びる。
興奮。
渇望。
そして――次の空を掴む覚悟。
彼女は静かに、しかし確かに思った。
エリゼ(心の声)
「……この人に勝ちたい。
違う。――この人の空に届きたい。」




