試練の宣告 ― “スカイ・サーキット”
氷の階段を踏みしめ、三人は最後の雲橋を渡りきった。
眼前に広がるのは――〈天冠の神殿〉。
その名が示すとおり、ここは空翔民族アルヴァリウスの聖域にして、
“風が生まれる場所”と伝えられる地。
床は透明な氷でできており、足下の彼方、雲の下には渦を巻く風の奔流がうごめいている。
それはただの空気の流れではなく、まるで“生きた意思”が息づくような律動だった。
吹雪の音もなく、世界は不思議な静寂に包まれている。
リオンが息を潜め、シルヴァが周囲を警戒する中、
エリゼはただ、風の匂いを感じていた。
――どこか懐かしい。だが、決して人の領域ではない。
そのときだった。
空間が、ふっと揺れた。
風が形を持ち、霧がゆっくりと渦を巻き始める。
まるで誰かの呼吸に呼応するように、雲の粒子が集まり、結晶のように光を帯びていく。
やがて、光が輪郭を成し――それは“人”の姿となった。
雪光をまとい、風そのものに抱かれるように現れた女性。
彼女の髪は淡く輝く白銀、動くたびに光を屈折させ、空気が揺らぐ。
その瞳は深い蒼。空をそのまま閉じ込めたような、底知れぬ深さと静けさが宿っていた。
「――風が、形を取った……?」
リオンが呟く。だが、答える者はいない。
彼女は静かに足を下ろす。
その瞬間、氷の床が低く鳴動し、空間全体の風向が反転した。
まるで神殿そのものが、彼女の存在に敬意を示しているかのようだ。
エリゼは息を呑む。
彼女の前に立つその女性――名を、ライラ・ヴァル=アルヴァリウス。
空翔民族の族長にして、“風の巫女”と呼ばれる者。
その背に広がる“風翼”は、羽根ではなかった。
それは、空気の律を結晶化させた純粋な流体の翼――風が物質化したような存在。
一振りすれば、空が震え、雲が裂ける。
そのたびに、神殿の周囲を包む気流が複雑にうねり、光の筋が走る。
――この女は、風そのものだ。
そう感じた瞬間、エリゼの胸の奥で《雪風》の紋章が淡く脈打った。
彼女の中の風が、目の前の存在に呼応している。
ライラは、微笑んだ。
その笑みには冷たさも威圧もなく、ただ“確信”だけが宿っていた。
「ようこそ、旅の滑翔者たち。
ここは空の律が生まれる地――風が、おまえたちを見ている。」
その声は、風笛のように透き通り、空全体に響き渡った。
エリゼは、静かに頷いた。
彼女の目には、恐れではなく、歓喜があった。
――ここで、風と向き合う。
この空こそ、私が求めていた場所。
氷の床がわずかに鳴り、風が揺らいだ。
〈天冠の神殿〉の中央――渦巻く風流の上を、ライラがゆっくりと歩み出る。
その歩みは静謐でありながら、ひとつひとつの足音が世界の律動と共鳴しているかのようだった。
彼女の足が床に触れるたび、氷が低く鳴動し、周囲の空気が波紋のように広がっていく。
風はそのたびに形を変え、彼女の背の“風翼”を撫でた。
エリゼは動けなかった。
ただ、その歩みを見つめる。
まるで自分の心臓の鼓動が、彼女の足音に重ねられていくような錯覚。
やがて、ライラはエリゼの真正面に立った。
距離にして数歩――だが、そこには空と地を隔てるような、言葉にならぬ境界があった。
風が止む。
音が消える。
その静寂の中で、ライラは唇を開いた。
「――あなたの滑り。」
声は微風のように柔らかく、しかし確かな重みを持って届く。
「それは、戦いか。それとも、祈りか?」
問いというよりも、“見透かす声”だった。
風そのものが、彼女の内側を覗き込むような感覚。
エリゼは目を閉じた。
脳裏を掠めるのは、これまでのすべての滑走――
勝ち負けに囚われ、速さに怯え、そして風を求め続けた日々。
戦うために滑ってきたのか?
違う。
そのどれもが、風と一緒に在りたいと願っただけ。
エリゼは、ゆっくりと目を開いた。
その瞳には、ためらいのない光が宿っていた。
「……私は、ただ風と並びたいだけ。」
一拍の沈黙。
神殿の風が、息を呑むように静まる。
そして次の瞬間――ライラの唇に、わずかな笑みが浮かんだ。
それは、氷が解ける瞬間のような、静かで優しい笑みだった。
「――ならば。」
ライラの背の風翼が、低く唸りながら展開する。
空気の律が震え、神殿の天井が白光に包まれる。
「空があなたを選ぶかどうか……確かめましょう。」
その言葉とともに、風が一斉に流れを変えた。
まるで世界そのものが、ひとつの“試練”として目を覚ますように。
エリゼの髪が宙に舞い、紋章《雪風》が胸で脈打つ。
その鼓動は、まるで――空が答えを告げる前触れのようだった。
天冠神殿の中央で、ライラが両手をゆるやかに広げた。
その瞬間――空が震えた。
轟音も、衝撃もない。ただ、世界の“律”そのものがひとつ息を呑んだような静寂のあと、上空の雲が螺旋を描いて動き始めた。
白銀の層が絡み合い、空を貫く巨大な“環”を形成する。
その内側では雷光が奔り、氷と風の粒子が七色に屈折しては、まるで天空の脈動そのもののように瞬いた。
風が咆哮し、神殿の床がきしむ。
それは怒りでも崩壊でもなく――儀式の始まり。
ライラはその光景を背に、静かに言葉を紡ぐ。
「それは戦場でも、儀式でもない。」
声は、風そのもののように空気へ溶けていく。
「ただ、“速さ”そのものを神に捧げるための舞台。」
彼女の言葉に応えるように、天を裂く雷が一閃した。
雲環の内側で、無数の流れが交錯する。
どこが上でどこが下かもわからない――空そのものが、立体的に編み込まれた迷宮へと姿を変えていく。
それが、アルヴァリウスに伝わる風の試練。
名を〈スカイ・サーキット〉という。
ライラはゆっくりとエリゼに視線を向けた。
瞳の奥で、風がきらめく。
「この空を駆け、風を読み、己の道を見いだしなさい。」
低く、しかし確かな響きをもって宣告が下される。
「コースは存在しない。雲も、気流も、雷も――すべては“自然の層”。
それらを読み、最短経路を創り出すのです。」
風が再びうねり、エリゼの髪を撫でる。
氷霧が頬を掠め、彼女の胸で《雪風》の紋章が光を放った。
ライラの声が、雷鳴に溶けて響く。
「ゴールは――天冠の最上層、“風環”の中心。」
エリゼは小さく息を飲む。
その中心は、まるで“空の心臓”のように脈打っていた。
ライラは風翼をひと振りし、白い羽根の粒を散らす。
「勝者は〈空翔の証〉を得る。」
一拍の間を置き、声の調子をわずかに落とす。
「――だが、風は甘くない。ひとたび道を誤れば、あなたを拒み、地へ還す。」
その言葉と同時に、雲環の中心で雷光が咲く。
轟くでも爆ぜるでもなく――ただ、世界が息を吹き返すように。
風が唸り、神殿を包み込む。
天と地の境が消え、ただ“滑走”のためだけに存在する空間が開かれる。
エリゼは前を見据えた。
瞳の奥で、風が揺れる。
――これが、空の試練。
幻を超えた者にしか辿り着けない、“速さの真実”の領域だった。
神殿の外縁――円を描くように並んだ雲橋の上に、アルヴァリウスの民が静かに集まっていた。
誰ひとり声を発さない。
ただ、それぞれが手にした銀色の“風笛”を口元へ運ぶ。
次の瞬間。
――ボウ……ォォォ……
低く、深く、腹の底に響く音が放たれた。
一つ、また一つと音が重なり、やがて百の音がひとつの律動へと溶けていく。
風笛の旋律は、音楽ではない。
言葉でもない。
それは空翔族が古来より風に捧げてきた、“祈り”そのものの響きだった。
空が震え、雲環の内側で七色の光が揺らめく。
旋律は空域全体を包み、さながら天空そのものが巨大な観客席と化したようだった。
リオンはその音を聞きながら、苦笑を浮かべた。
「まるで……天空そのものが観客だな。」
彼のマントが風に煽られ、軽く舞い上がる。
風笛に呼応して、空そのものが脈動しているのが分かった。
シルヴァは腕を組み、鋭い目つきで雲環を眺める。
「勝てば空の民、負ければ風の餌。……わかりやすい。」
その声音には皮肉と、どこか興味深げな響きが混じっていた。
風笛の祈りはさらに強まり、風の層が振動し、雲環に光を走らせる。
その音に合わせるように、エリゼの背で《雪風》の紋章が淡く脈打つ。
天空は今、ひとつの舞台となった。
空翔族は観客であり、風は審判。
そしてエリゼは――その中心に立つ挑戦者だった。
風笛の共鳴が空域を満たす中、
エリゼはゆっくりと一歩前へ出た。
雲橋の下では、白い雲が深い海のようにうねり、
雲環の中央では雷光が細い稲妻となって走っている。
その光の揺らぎが、彼女の頬を淡く照らした。
エリゼは胸に手を添えた。
薄い布越しに、《雪風》の紋章が温かな鼓動を返す。
それは風の心臓――彼女自身の“速さ”の証。
風がふ、と頬を撫でた。
試すようでも、励ますようでもない。
ただ、そこに在る流れが「さあ」と手を差し伸べたようだった。
エリゼ(心の声):
「……滑ることは、戦うことじゃない。
風に逆らうんじゃない。
一緒に、駆け抜けるんだ――空の心で。」
音もなく、彼女の背で風が揺れる。
《雪風》の紋が脈動し、蒼い粒子が薄く散る。
その瞳には、もはや恐れはなかった。
代わりに宿っていたのは――
空そのものを映す、静かで澄んだ“興奮”。
未知の速さを前にした滑走者だけが持つ、純粋な光。
エリゼはゆっくりと息を吸い、
真っすぐに“スカイ・サーキット”の空を見据えた。
風と並び、空を駆けるその瞬間を、
もう――ただ楽しみにしていた。
雲冠峰の空が、ひとつ息を吸い込んだように静まり返った。
次の瞬間――
ライラの背に広がる風翼が、音もなく“展開”する。
それは羽根ではない。
風そのものが形を取り、光を孕み、
純白の弧を描きながら空間へと溶けていく。
彼女が一歩踏み出すと、氷の床が微かに震えた。
風がひざまずくように流れを変え、
族長の存在だけで天地の律が書き換えられていく。
ライラ:「さあ――見せて。
風を愛する者の、真の速さを。」
その言葉は呪文ではなく、
空そのものが放つ“呼び声”のようだった。
直後、空が低く鳴った。
雲環が、ゆっくりと――しかし確かな意志をもって回転を始める。
螺旋を描く風の層が屈折し、
雪片は光を帯び、白い稲光のように空を切り裂いて舞い上がる。
風雪はただの粒子ではなかった。
滑走者を誘う“道標”であり、
速さを試す“試練”そのもの。
エリゼは息を呑む。
胸の奥の《雪風》が反応し、
風がまるで旧友のように彼女の頬を撫でた。
雷光が走り、雲の輪が完全に開く。
――〈スカイ・サーキット〉、開幕。
空が、速さを望んでいた。
そしてこの瞬間、エリゼの風もまた、走り出そうとしていた。




