到達 ― “雲冠峰の空域”
──風が、まだ戻っていなかった。
〈幻雪圏〉を抜けたその先、エリゼたちは無風の空をただ、上へ上へと滑る。
足下の雲は音もなく千切れ、霧が視界を白く塗りつぶしていく。
呼吸の音すら薄れていく中で、聞こえるのは――胸の鼓動だけ。
トン、トン。
まるで世界の底で鳴る心臓の音。
やがて、霧が裂けた。
その向こうに広がっていたのは、空の果て――否、“空の大地”。
そこでは雲が層をなし、氷の稜線がまるで山脈のように連なっていた。
空でありながら、確かに“地”の存在を感じさせる、矛盾に満ちた風景。
雪が逆光にきらめき、星屑のように漂うたび、世界そのものが息をしているようだった。
エリゼは息を呑む。
かつて地上で見上げたどんな空よりも、この場所は“静か”で、“深い”。
音も、風も、何もない。
それでも、心の奥では確かに何かが囁いていた。
「……ここが、風の始まり。」
その呟きは、雪に溶けて消える。
だが、彼女の瞳には――もう、迷いはなかった。
果てしない白と蒼の境界。
その中で、エリゼは“まだ見ぬ速さの世界”を見据えていた。
──風が、歌っていた。
霧を抜けた先、世界は再び姿を変える。
そこは“雲冠峰”。
雪と雲と風が混じり合い、空と地の境界が曖昧になった、天空の聖域。
人の手の届かぬほど高く、神話では〈空の門〉――風の生まれる場所と呼ばれていた。
氷の柱が垂直にそびえ立ち、光を反射して白銀の道を描く。
その柱同士を繋ぐように、半透明の雲橋が何本も空を渡っていた。
雲橋の上を、風翔者たちが滑る。
彼らの背からは羽根ではなく、“風流の器官”と呼ばれる透明な翼が伸びていた。
それは光を帯び、まるで風そのものが形を取ったように、呼吸と共に揺らめく。
彼らは滑るたび、空気が旋律を奏でた。
それは言葉ではなく、祈り。
空翔民族〈アルヴァリウス〉が、何千年も風神へ捧げてきた“律”そのもの。
風が鳴るたび、空気が虹色に屈折する。
やがてその屈折が巨大な“風環”となり、雲冠峰の空を円形に囲む。
環の中心――光が最も集まる場所に、〈天冠の神殿〉が浮かんでいた。
白い石と氷の柱で築かれたその殿堂は、風に溶け込むように揺らぎながら、静かに呼吸している。
「……これが、アルヴァリウスの空域。」
リオンが呟く。声はすぐに風に溶け、空へ消えた。
エリゼは言葉を失っていた。
風が祈りを持ち、空が意志を持つ世界。
滑る者たちは戦っていない。
ただ、風と“共鳴”していた。
――この空で、彼女は試される。
その胸の奥で、微かに《雪風》の紋章が脈を打つ。
世界が再び“速さ”を求めて、彼女を呼んでいた。
──風が、門を閉ざしていた。
雲橋の手前で、三人は足を止めた。
目の前に広がるのは、氷と雲が混ざり合って形成された透明の道。
だが、そこには確かな“壁”があった。
見えないはずの風が、はっきりと形を持って、侵入を拒むように流れている。
リオンが前へ出て、掌をかざす。
白い気流が指先にまとわりつき、すぐに弾けた。
「……この流れ、ただの風じゃない。」
その声には、慎重さよりも畏敬が混じっていた。
「まるで、意志を持ってる。」
隣でシルヴァが雪を踏みしめ、静かに言葉を継ぐ。
「風が門を閉じてる。入るには、“許し”が要るらしいな。」
彼の銀の瞳が空を見上げると、そこでは雲が逆回転し、微かに音を奏でていた。
まるでこの空域そのものが“生きた存在”として、外の者を試しているようだった。
エリゼは一歩前へ出た。
その瞬間、風が動いた。
彼女の頬を撫で、白銀の髪をゆるやかに揺らす。
冷たくも、拒絶の感触はなかった。
ただ、静かに“観察”されている――そんな確信があった。
胸の奥が、微かに鳴る。
《雪風》の紋章が、淡い蒼光を放った。
風がそれに呼応するように震え、空の律動がわずかに乱れる。
(……風が、見ている。
試されている。
――私が、“速さの意味”を知っているかどうか。)
その心の声に応えるように、雲橋の上を一筋の光が走った。
まるで鍵を回すように、風の壁が静かに裂ける。
開かれたのは、細く、しかし確かな道。
風が語る。
“進め”――だが、“証明せよ”。
エリゼは小さく息を吸い、瞳を細めた。
その先に待つ試練を、もう恐れてはいなかった。




