“幻を抜けた空へ”
――吹雪が止んでいた。
谷を覆っていた白の嵐が、まるで世界そのものの呼吸を止めたように、音ひとつ残さず消え去っている。
空気は静まり返り、雪面は鏡のように滑らかだった。そこに射し込む陽光が、薄い虹の環をつくり、雪と光の境界をぼやかしている。
風もない。
けれど、確かに世界は生きていた。
その静寂は、死ではなく“再生の余韻”だった。
――リオンとシルヴァは、谷の中央に立っていた。
長い戦いの果てに、ようやく辿り着いた現実。
幻雪圏の崩壊とともに閉じた空間から、ふたりは戻ってきたのだ。
「……終わった、のか」
リオンが、ゆっくりと息を吐いた。
吐息が白く溶け、静かな風に散っていく。
その声を追うように、シルヴァの銀髪が揺れた。
彼はまだ視線を空に向けたまま、口を閉ざしている。
――油断はしない。だが、その目には確かに“安堵”が宿っていた。
遠く、崩壊の名残が空に薄く漂っていた。
光の粒――幻界の残響。
それが風もなく浮遊し、ゆるやかにリオンたちの周囲を巡っている。
まるで、まだ“彼女”の息がそこに残っているかのように。
「……あいつ、戻ってくると思うか?」
リオンが問う。
シルヴァは少しの間、沈黙した。
そして短く、しかし確信をもって答えた。
「――ああ。あの女は、風の中で消えるようなやつじゃない。」
静寂が再び戻る。
谷を包む光は徐々に柔らかくなり、空気の温度がわずかに上がる。
白と蒼の狭間に、微かに金色の気配――夜明けの兆しが差し始めていた。
その光景は、戦いの終わりではなく――
何かが“帰ってくる”ための舞台のようだった。
――空が、ひとすじ、裂けた。
蒼白の空の中心を縫うように、一本の光が落ちてくる。
それは流星ではなく、雪でもない。
ただ――「還る」という意志を宿した、真っ直ぐな光だった。
リオンとシルヴァが見上げる。
谷に広がる静寂が、光の鼓動に合わせてかすかに震える。
やがて、その光の芯に“人の影”が見えた。
――白のヴェールを纏い、風の粒子に包まれた少女。
降り注ぐ光の中で、彼女はゆっくりと姿を現す。
髪は淡い銀に輝き、雪の粒を受けてやさしく流れた。
瞳は、深い蒼。
それはもう、かつての氷のような冷たさを帯びてはいない。
静けさの中に、“温度のある強さ”が宿っていた。
風が彼女を迎えるように舞い上がる。
粒子が周囲を巡り、彼女の歩みに合わせて旋回する。
その姿はまるで、風そのものが形を持った存在だった。
そして――彼女の足が、雪面に触れる。
その瞬間、世界が“息をした”。
谷を覆っていた空気が一斉に揺らぎ、
凍っていた風がふたたび流れ始める。
音のない世界に、最初の旋律が戻ってきた。
それは風の歌。
呼吸にも似た柔らかな律動が、雪と空を満たしていく。
まるで、世界そのものが彼女の鼓動に合わせて目を覚ますように――。
リオンは小さく息を呑んだ。
「……エリゼ。」
名を呼ぶ声に、彼女はゆっくりと微笑む。
その微笑みは、幻でも、奇跡でもない。
――ただ、“帰ってきた”人間の表情だった。
雪面に降り立ったエリゼを、二つの影が出迎える。
吹雪の止んだ谷に、静かな吐息だけが響いていた。
シルヴァが先に口を開く。
低く、だが確かな声だった。
「……通り抜けたな。幻雪圏を。」
彼の瞳は驚きよりも、静かな敬意を映していた。
あの凍てつく世界を、あの果ての幻を越えて戻った――その事実だけが、言葉以上に雄弁だった。
リオンが口元をゆるめ、少しだけ笑う。
「幻を超えるには、速さしかない、か。」
雪を踏みしめながら近づき、彼はかすかに首を振った。
「……あいつ、本当にやり遂げたんだな。」
エリゼは何も言わず、二人を見つめた。
風が彼女の髪を揺らし、白い光を散らす。
その背には――新しい紋章《雪風》が静かに輝いている。
リオンも、シルヴァも、思わず息を呑んだ。
かつて《雪幻》が刻んでいた冷たい結晶の文様は、もうどこにもない。
代わりにそこにあったのは、風と雪が溶け合った柔らかな輝き。
氷のように鋭くもなく、炎のように激しくもない。
ただ、確かな“生”の鼓動を感じさせる光。
《雪風》――幻を越え、現実に還った者の証。
シルヴァは静かに目を細め、その光を見つめた。
彼の唇が、かすかに弧を描く。
「……ようやく、見つけたんだな。自分の速さを。」
エリゼは微笑んだ。
それはどんな言葉よりも、確かな答えだった。
エリゼは、しばらく黙っていた。
谷を渡る風の音だけが、静かに世界を満たしている。
彼女はゆっくりと息を吸い込み――
そして、長く、深く吐き出した。
白い吐息はすぐに蒼い風へと変わり、谷を優しく撫でていく。
それはただの空気の流れではなかった。
まるで世界そのものが、彼女の呼吸に呼応して“目を覚ます”ようだった。
風が雪を巻き上げる。
細やかな粒子が日光に反射し、リオンとシルヴァのマントをそっと揺らす。
その風には――確かに“生命”の匂いがあった。
もう、幻の冷たさではない。
現実の、あたたかい風。
エリゼの瞳がゆるやかに細められる。
心の奥で、静かに言葉が形を取った。
「……幻は、終わった。
でも――私の速さは、まだ止まらない。
ここからが、本当の空。」
彼女は一歩、前へ出た。
雪が、ぎゅっと音を立てて沈む。
その音が、まるで「現実」の合図のようだった。
幻界では聞こえなかった、生の感触。
冷たく、確かで、痛みすらも愛しい。
背中の風翼は、いまは静かに閉じられている。
だがその羽根の根元には、脈打つような微光が宿っていた。
風の心臓が、まだ彼女の中で生きている――そう伝えるように。
その姿はもう、かつて“幻を追いかけていた少女”ではなかった。
エリゼは今、確かに現実を掴む手を持つ者として、そこに立っていた。
――幻を抜けた彼女の胸に、残るのはひとつの鼓動。
それは《雪風》。
かつて《雪幻》と呼ばれた虚構の心臓でも、
誰かに与えられた奇跡でもない。
ただ、彼女自身が選び、掴み取った――
“現実を駆け抜けるための、本物の風の心臓”。
*
カメラがゆっくりと上昇する。
雪原の中央に、三つの影が並んで立っている。
エリゼ、リオン、そしてシルヴァ。
吹雪の名残がまだ空気の中に漂い、
そこへ新しい風が流れ始める。
それは旋律のように滑らかで、
どこまでも透き通った“空の息吹”。
エリゼの髪がそっと揺れる。
彼女は顔を上げ、光の射す空を見つめた。
その瞳に映るのは、もう幻ではない。
確かに息づく、この世界の空だ。
リオンが目を細め、
シルヴァが小さく息を吐く。
三人の足元から、風が舞い上がる。
雪が光の粒に変わり、空へ昇っていく。
《RE:DEFINE - FINALE:帰還/幻を抜けた空へ》
――風は続く。
それが、彼女たちの“現実”となった。




