真我の覚醒 ― “新たな流れ”
――音が、ない。
風も、雪も、もう何も動いていない。
幻雪圏は、すでにその形を失っていた。
上下の感覚さえ曖昧な白の空間。
雪も氷も光も溶け合い、すべてが“蒼白の流体”となって漂っている。時間の流れは途切れ、世界は呼吸をやめていた。
その中心に、エリゼは浮かんでいた。
立っているのか、沈んでいるのか――それすら定かではない。
ただ、彼女の胸元から淡い光がこぼれ続けている。
《第三の心臓・雪幻》――砕けた跡。
その欠片はまだ生きているかのように微かに明滅し、彼女の周囲へと蒼い粒を散らしていた。
漂う光の欠片が、ゆるやかに旋回しながら彼女の髪を撫でる。
触れた瞬間、ひんやりとした感触が心の奥へ沁みた。
――終わったのだ。
あの幻も、戦いも、憎しみも。
今この空間には、彼女以外の“存在”が何ひとつ残っていない。
それなのに、エリゼの胸の内には、不思議な安堵が広がっていた。
恐れはない。悲しみもない。
まるで、長い夢を見終えた後の静けさのようだった。
視界の端で、光の粒がひとつ溶ける。
雪でもなく、涙でもない。
それは、ただ“記憶の蒸気”のように、音もなく消えていく。
――それでも、私はここにいる。
形も、言葉も、力も失っても。
この静寂の中で、たしかに感じる。
胸の奥――かすかに残った鼓動。
トン……トン……と。
それだけが、この世界に残された最後の音だった。
エリゼは、ゆっくりと目を閉じた。
無の中で、微かに光る“自分”という輪郭を確かめるように。
蒼光の粒が、ゆっくりと舞い降りてくる。
そのひとつひとつが、まるで生きているかのように脈打ちながら、エリゼの身体へと吸い込まれていった。
頬をかすめる感触は、冷たくも温かくもない。
ただ、どこか懐かしい。
――幼い日の雪の匂い。母の指先の温もり。
遠い記憶が、光とともに静かに還ってくる。
胸元に、淡く《雪幻》の紋章が浮かび上がった。
砕け散ったはずのその刻印が、再び形を取りかけ――次の瞬間、音もなく崩れ落ちる。
だが、消えた跡には新たな模様が生まれた。
《雪風》――蒼と白が交錯し、風の流線が雪の文様と溶け合っていく。
雪と風。
そして、幻の粒子。
それらがひとつの螺旋を描きながら彼女の周囲を包み込む。
空間全体が呼吸を始めたかのように、光が波打ち、空気が脈動する。
――まるで新しい心臓が、この世界ごと鼓動を打ち始めたようだった。
エリゼは静かに目を開く。
視界を満たす蒼白の光の中で、もう幻の影はどこにもない。
あるのは、確かな手応え――“自分”という存在の輪郭だけ。
理解が、胸の奥で形を成していく。
《雪幻》は敵ではなかった。
あれは、彼女がずっと押し込めてきた“愛未満の想い”――
誰かを赦すほど強くもなく、忘れるほど弱くもない、不器用な温度。
そのすべてが、ようやく一つになって帰ってきたのだ。
エリゼ(心の声):
「私は幻でも理想でもない。
雪を赦し、風を掴む――ただの私。」
その言葉に呼応するように、風が優しく吹いた。
彼女の髪を揺らし、砕けた光の粒を空へと運んでいく。
ナレーション:
「失われたものは、すべて還る。
風の中へ、心の中へ。
それが、速さの最も静かな形。」
――世界は、再び息を吹き返す。
静寂の中で、風が生まれた。
――最初は、ほんの一筋。頬を撫でるような、微かな流れ。
だがその風は、次第に彼女の背中へ集まり、輪郭を描き始める。
エリゼの肩甲のあたりから、白い光がふわりと立ち上がった。
羽ばたく音も、金属の軋みもない。
やがてそれは形を変え、まるで雪の羽根を編み込んだような“柔らかな翼”へと姿を変えていく。
以前の《雪風》は鋭かった。速さと力を象徴する、切り裂くための翼だった。
けれど今、彼女の背に広がるのは――包み込むような風。
雪と風、そのどちらの性質も併せ持ち、呼吸するように揺らめく有機の律動。
世界が、それに呼応するように再構成されていく。
崩壊していた幻界の空が、淡く揺れながら形を取り戻す。
溶けかけた光が結晶し、遠くの地平から“温かい白”の輝きが差し込んでくる。
吹雪は消え、代わりに透明な風が舞い、ゆるやかな波紋を空気の中へと描いた。
――それはまるで、“朝”の訪れだった。
音が戻る。
最初は風の呼吸のような微かなざわめき。
次いで、エリゼの胸の奥から“トン、トン”という鼓動が重なる。
それはただの心拍ではない。
風と雪と心が共鳴し合う、“新しいリズム”だった。
エリゼはそっと目を閉じ、両の翼を広げる。
その風の感触を、恐れも拒絶もなく――ただ、愛しいと思った。
かつては忌むべきものだった雪。
制御できずに壊してきた風。
そして、向き合うことを避け続けた“自分”。
今、それらはひとつになっていた。
エリゼ(心の声):
「この風は、誰かに与えられたものじゃない。
私が、選び取った――私の証。」
風翼が、ゆるやかに羽ばたく。
そのたびに、空が脈動し、地平が光を返す。
彼女の存在そのものが、世界の“律動”となっていく。
――そして、風はもう、彼女を置き去りにしない。
空が、裂けた。
――音もなく、世界の天頂を一筋の光が貫く。
まるで幻界そのものが「道」として形を変えたかのように、
蒼白の裂け目は、遥か上空へと真っ直ぐに伸びていた。
エリゼはその光を見上げる。
もう、迷いはなかった。
雪の痛みも、風の恐れも、幻の囁きも――
すべては、彼女の中に融けて、ひとつの流れになっていた。
背の風翼がわずかに震える。
その羽ばたきはもはや“飛翔”ではない。
“帰還”――心が本来の場所へ還るための、最初の一歩。
風が彼女を包む。
髪が靡き、白い粒子が舞い上がる。
雪にも光にも似た粒子たちは、彼女の軌跡を描くように
流星の尾となって空へ吸い込まれていく。
エリゼの瞳に、かすかな笑みが浮かぶ。
「行こう」
その一言が風に溶けた瞬間――彼女は滑り出した。
世界がスローモーションに変わる。
風の音が遠のき、時間さえもその速さに追いつけない。
白の残響だけが彼女を照らし、翼の輪郭を淡く滲ませる。
そして、光の裂け目の中へ――
瞬間、全ての色が反転する。
蒼も、白も、影さえも飲み込んで、
ただ“純白の輝き”だけが画面を覆った。
その光の中で、エリゼのシルエットがふわりと揺らめき、
やがて完全に消えていく。
残るのは、ひとすじの風音。
静かで、けれど確かに“生きている”音。
ナレーション:
「幻の果てに、彼女は“現実”を見つけた。
それは――風の名を持つ、新しい私。」




