滑走決闘 ― “幻を超える速さ”
白い光が溶けて、世界が形を取り戻す。
そこは、終わりのない雪原――けれどそれは現実の大地ではなかった。
氷面は鏡のように澄み、足元に映るのは空でも星でもない。
幼い自分が、笑っていた。
あの頃の無邪気な笑顔が、薄い氷膜の下で泡のように揺らいでいる。
対して、少し離れた場所に立つ幻エリゼの周囲には、柔らかな光が揺れていた。
それは“母の微笑”。
暖かいのに、触れれば消えてしまう幻。
――心の奥に封じ込めたままの記憶が、舞台になっている。
エリゼの胸の鼓動が一度、大きく鳴った。
その振動が世界に伝わり、氷原がかすかに震える。
雪が風に持ち上がり、白い粒が宙に漂うたびに、空気が形を持つ。
まるで、彼女の心拍そのものが風を創っているようだった。
幻エリゼが一歩、前に出る。
彼女の瞳は氷のように透き通り、声は雪解けの音のように静かだった。
「雪を憎む者に、風を乗りこなす資格はない。」
その言葉が響くたび、雪片が鋭く震える。
幻の声は冷たく、美しい。
だがその奥には、ほんのわずかな哀しみが滲んでいた。
エリゼは静かに息を吐き、視線をまっすぐに返す。
胸の中にまだ残る恐れと痛みを、無理やり押し殺して。
「資格なんていらない。」
彼女は短く言い切る。
そして、足元の氷を蹴るように一歩踏み出した。
「私は――ただ、滑りたいだけ!」
その瞬間、二人の背に同時に風翼が展開した。
氷晶が音を立てて砕け、風が唸りを上げる。
白と蒼の光が絡み合い、雪原全体が震動する。
“心の雪原”――その名の通り、これは心の奥で繰り広げられる幻の舞台。
風が鳴り、雪が舞い、二人のエリゼが対峙する。
そして、静寂の中で――滑走決闘が幕を開けた。
氷の世界が鳴動した瞬間――幻エリゼの身体が、音もなく弾けた。
風翼が一閃。
その滑走は、まるで空間そのものが彼女を導いているかのように滑らかだった。
氷面は割れず、雪片すら乱れない。
ただ、白銀の尾が描く軌跡だけが、静寂の中に完璧な弧を残していく。
幻エリゼの滑走――それは速さというよりも、“祈り”に近かった。
規則正しい呼吸、均整を極めた姿勢、風の流れすら整流化されたかのような静謐。
まるで神殿の巫女が儀式を舞うように、彼女は雪原を滑る。
エリゼが追おうとする。
だが一歩踏み出すたび、氷面が波紋のように揺れ、幻影が無数に分裂する。
「なに……これ……!」
視界の端で、幻エリゼが手をかざす。
すると、滑走面の雪が一瞬にして“氷の花”へと変わり、道を閉ざした。
花弁のような氷晶が開き、そこから光の螺旋が立ち昇る。
それは“螺旋道”――彼女だけが走れる、理想のコース。
幻エリゼの声が、風に混じって響く。
「あなたの風は、粗雑で、乱れている。
その速さでは、幻すら掴めない。」
エリゼは焦燥を押し殺し、進路を変えようとする。
だが、正面に“風の結晶”が現れ、壁のように進路を封じる。
透明な壁が彼女の顔を映し、その向こうで幻エリゼが微笑んでいた。
――完全な対称、完全な軌跡。
幻エリゼの走りは、円を描いて世界を支配していく。
上空から見ると、その動きはまるで万華鏡。
氷の道が幾重にも反射し、雪原全体が回転して見える。
エリゼの心拍が速くなる。
その鼓動さえも、幻の世界に吸い取られていくようだった。
「……速い……っ!」
だが、その“速さ”には、熱も衝動もない。
それは、ただ“完璧すぎる美”――幻が作り上げた、冷たい速さ。
エリゼの風が乱れ、雪原に亀裂が走る。
鏡のような地面が反射光を散らし、世界が一瞬、白に染まった。
幻エリゼは振り返らずに言う。
「これが“幻の速さ”。
あなたの不完全では、追いつけない。」
その声は、氷の鐘のように静かに響き――
エリゼの胸に、鋭い痛みを残した。
エリゼの風翼が爆ぜた。
幻エリゼの完璧な滑走軌跡を、無理やり断ち切るように――
彼女は乱流の中へ飛び込む。
「制御なんて……知らない!」
その瞬間、氷原が悲鳴を上げた。
整然と輝いていた鏡面が、彼女の滑走と同時に砕け散る。
エリゼの風は暴れ馬のように跳ね、雪片を巻き上げ、空気を裂いた。
吹雪が渦を巻き、氷面に深い爪痕が刻まれる。
滑走の軌跡は歪み、爆風のような風圧が走り抜ける。
完璧な曲線を描いていた幻エリゼの世界が、ひとつひとつ、乱されていく。
――でも、制御できない。
風が裏返り、彼女の体を押し上げる。
一瞬、空へ放り出されるような感覚。
彼女は咄嗟に姿勢を崩しながらも、再び氷面を掴み取る。
「ぐっ……!」
風が唸る。
まるで怒っているかのように。
そのとき、遠くで誰かの声が聞こえた。
――リオンの声。
「風を信じろ、エリゼ!」
続いて、シルヴァの声が吹雪の奥から響く。
「幻は、お前の“恐れ”の形だ!」
幻聴――。
だが、胸の奥が震えた。
《雪風》の鼓動が不規則に鳴り響く。
彼女の滑走に合わせ、氷面が再び“記憶の鏡”へと変わる。
そこに映るのは――幼い日の自分。
そして、雪に倒れた母の姿。
白い息、伸ばされた手、止まった時間。
その瞬間、心の奥底に封じていた痛みが、再び蘇る。
「雪が……奪った……」
喉の奥で声が震える。
吹雪の中、幻エリゼの声が優しく、けれど刺すように響いた。
「あなたの速さは、逃げているだけ。
本当に向き合うことを――恐れている。」
その声が耳の奥を掴む。
幻影の姿は遠いのに、言葉だけが心に触れるほど近い。
エリゼは歯を食いしばり、風を叩くように叫ぶ。
「……違う! 私は……逃げてなんか……!」
だが、次の瞬間――
足元の氷が砕け、彼女の体が大きく傾ぐ。
風が暴れ、雪が逆流する。
幻影の軌跡はなおも完璧なまま、彼女のすぐ上をかすめていった。
――幻と現実の狭間で、風はまだ答えを見つけられない。
風が止まった。
あれほど荒れ狂っていた氷の奔流が、嘘のように静まる。
次の瞬間、世界から色が抜け落ち――モノクロの静寂が訪れる。
視界が滲む。
音も風も失われ、ただ「記憶の残響」だけが残る。
そこに、幼いエリゼがいた。
膝をつき、雪の中で泣いている。
小さな手で空を掴もうとして、でも届かずに震えている。
雪片が頬に触れるたび、彼女は泣き声を強くする。
その肩に、そっと温かな手が置かれた。
――母の声が、風のように囁く。
「雪は冷たい。でも、それは“生きている”から。」
その声は柔らかく、懐かしい。
風の匂い、母の体温、手のぬくもり――すべてが蘇る。
エリゼ(現在の彼女)は、思わず呟く。
「……お母さん……。」
瞳の奥が熱を帯びる。
だが、その光景の輪郭がふいに歪み始める。
雪が、白い光に変わっていく。
やわらかな記憶が、まるで“演出”のように整えられていく。
優しさが“完璧な美”へと上書きされていく。
その中心に――幻エリゼが立っていた。
彼女は微笑み、両手を広げる。
雪片をまるで宝石のように操り、モノクロの世界を白銀の輝きへと塗り替える。
幻エリゼ:「雪を愛せば、悲しみは美になる。
それが“速さ”の真理。」
彼女の声に呼応するように、凍った風が動き出す。
光の粉となった雪が渦を描き、幼いエリゼの涙までも光に変えていく。
だが――現在のエリゼは、その光をまっすぐ見つめた。
「……それは……違う。
美しくするために、泣いたわけじゃない……。」
言葉が震える。
幻影の微笑は崩れない。
白銀の光はますます強く、すべてを“正しい形”に整えようと迫ってくる。
母の記憶さえも、美の中に閉じ込めようとして――。
エリゼの胸の奥で、《雪風》が再び脈打つ。
氷のような痛みとともに。
――幻が、現実を塗り替えようとしている。
氷原が悲鳴をあげた。
幻エリゼが放った風の結晶が奔り、世界が軋む。
その中を、エリゼはただ――前へと滑る。
だが、風が狂った。
軌道が大きく逸れ、氷面が割れ、雪煙が爆ぜる。
バランスを崩し、彼女の身体が宙に投げ出された。
その瞬間、幻影の声が響く。
幻エリゼ:「もう終わりよ。あなたは、雪を拒んだまま――。」
「――違う!!」
叫びが吹雪を裂いた。
エリゼの瞳が烈火のように燃える。
声は震えていたが、その奥に宿るものは確かな“意志”だった。
「私は……雪を愛してなんかいない!
あんな冷たさ、憎んでた!
でも――それでも、滑りたいんだッ!!」
爆風が巻き起こる。
彼女の滑走路が、一瞬で光の粒へと砕け散った。
幻エリゼが構築した“鏡の道”が、ひび割れ、割れ目から光があふれ出す。
白銀の花びらが、崩れた氷片のように空へ舞い上がる。
それは“理想”の崩壊。
完璧さという檻が、ついに音を立てて壊れていく。
エリゼの背から、風が爆ぜた。
その風はこれまでのものと違う。
滑らかではなく、荒々しく、しかし――確かに“生きている”。
《雪風》が再び鼓動を刻む。
それは心臓の拍動と重なり、まるで世界が呼吸を取り戻すようだった。
エリゼの背に、光が集う。
形を成したのは、新たな紋章。
蒼く揺らめく風の印――《雪幻》が砕け、その奥から真の《雪風》が輝きを放つ。
風が走る。
雪が舞う。
幻エリゼが目を見開き、光の嵐に包まれて後退する。
「愛ではなく、意志。
赦しではなく、選択。
それこそが――幻を超える、速さ。」
そしてエリゼは、砕けた鏡の雪原を蹴り、
蒼い閃光となって、幻を突き破った。
氷が、世界の果てから音を立てて割れた。
幻雪圏の空が震え、無限の鏡面がひび割れる。
白銀の破片が宙を舞い、上下の境界が溶けていく。
風が光を帯び、雪が蒼い炎のように燃え上がった。
二人のエリゼが、向かい合う。
片や、理想と静寂の象徴。
片や、現実と痛みを背負う者。
二人の足元に、光の滑走路が現れる。
それは、記憶の残響で構成された一本の道。
――幻が現実に、現実が幻に重なり合う、心の交差点。
幻エリゼが滑り出す。
完璧な姿勢、無音の滑走。
しかし、もう先ほどまでの威厳はない。
その背中から、微細なひびが広がっていく。
エリゼも風翼を展開した。
蒼い風が唸りを上げ、氷を蹴り砕く。
身体が軽い――まるで風そのものになったような感覚。
二人の影が光の軌跡を描き、鏡の雪原を一直線に駆け抜ける。
幻雪圏の空が引き裂かれ、蒼と白の閃光が交錯する。
その瞬間――幻エリゼの身体が崩れ始めた。
氷の粒となり、風に溶け、形を保てなくなっていく。
幻エリゼ(かすれる声で):
「……それが……あなたの……答え……?」
エリゼは、滑走を止めずに答える。
風を切り裂く声で。
「ううん。これは――私の始まり。」
彼女の言葉とともに、《雪風》が完全覚醒。
背の翼が蒼光を放ち、風と雪が一体化する。
その力が、幻雪圏の全域に波紋のように広がった。
鏡の世界が砕け、白の大地が光の粒へと変わる。
記憶も理想も、すべてが風の流れに乗って空へ還っていく。
ナレーション:
「幻は散った。
だが、幻を越えた風だけが――
真実の空を知る。」
エリゼは滑走をやめない。
砕けた鏡の破片を踏み越え、
蒼翼の軌跡を描いて、
――幻を突き破り、現実の空へと帰還していった。
雪の音が、止んだ。
幻雪圏を覆っていた白の世界が、まるで幕が下りるように静まる。
風も、光も、言葉も――ただ、深い呼吸だけが残った。
エリゼの足元。
そこにひとつ、氷の結晶が転がっている。
小さく、儚い、けれど確かに“心臓”の形をしていた。
それは《雪幻》。
彼女の内に眠っていた、三つ目の心臓。
“理想”と“逃避”が織り上げた、幻の鼓動。
エリゼはゆっくりとその氷片を見下ろす。
まるで、かつての自分に別れを告げるように。
「……ありがとう。」
指先が触れた瞬間、氷結晶は音もなく砕けた。
細かな光粒が舞い上がり、風に乗って空へ散っていく。
それは雪ではなく、蒼い呼吸。
彼女の心が、再び風とつながる瞬間だった。
「幻が砕けた時、真実の心臓が息をする。
そして風は――再び、彼女を選んだ。」
エリゼは深く息を吸い込む。
冷たいはずの空気が、どこか懐かしく優しい。
目を開くと、白が少しずつ溶けていく。
幻雪圏の空が割れ、雲の隙間から淡い光が差し込む。
新しい空が、そこにあった。
彼女は顔を上げ、その光に向かって一歩を踏み出す。
その背に、風が――確かに微笑んでいた。




