幻の自己 ― “純白の姫”
雪が静かに降り積もる——。
白の静寂が、世界を包み込む。
だが次の瞬間、その静寂が――裂けた。
氷片が宙に舞い、光を帯びて渦を描く。
まるで無音の爆発。時間がひと息止まり、風が逆巻く。
やがて、舞う氷の粒がゆっくりと人の形を作り始めた。
その中心に現れたのは、ひとりの少女。
――いや、“もう一人のエリゼ”。
彼女は淡く発光する雪光の中に立っていた。
髪は銀糸のように輝き、指先に触れるだけで溶けてしまいそうなほど繊細。
瞳は、まるで氷の結晶を閉じ込めたような透明な蒼。
年の差はわずか。けれど、そこに漂う空気が違う。
大人びた気品と、凍てつくほどの静謐。
白銀のドレスが風にひるがえり、氷の冠が微かに光を反射する。
背に広がるのは、透き通った風翼――
それは《雪風》を思わせながらも、より滑らかで均整のとれた人工の美。
まるで“雪そのものに選ばれた姫”のようだった。
「あなたが憎む雪は、私が愛した雪。
あなたが壊したものを、私が守ってきたの。」
その声は、静かに胸の奥を打つ。
優しい――なのに、息が凍るほど冷たい。
慰めと断罪が同居した声。
エリゼは思わず一歩、後ずさった。
足元の雪が軋み、彼女の影が揺れる。
目の前の“自分”を見つめながら、喉が塞がったように言葉が出ない。
美しかった。
あまりにも、完璧だった。
その“理想の自分”に、抗う言葉が見つからない。
胸の奥で、何かがひび割れる音がした。
――どうして、私の顔で、そんなに綺麗に笑えるの。
風が吹き抜け、二人の髪を同じ方向に揺らした。
まるで鏡の中の存在が、現実を侵食していくように。
その瞬間から、エリゼの世界は静かに崩れ始めていた。
雪の粒が、光のように舞っていた。
風は止み、世界そのものが息を潜めている。
その中で――幻のエリゼが、一歩を踏み出した。
彼女の足は雪に沈まない。
音も立てず、まるで空気そのものに溶け込むように、ゆっくりと現実のエリゼへ歩み寄る。
その動きは優雅で、ひとつひとつが儀式のように洗練されていた。
「雪を愛せば、誰も傷つかない。」
凍るような静けさの中で、その声だけがやさしく響く。
「冷たさの中に、美しさを見つけなさい。
それが――母の望みだったはずでしょう?」
その言葉を聞いた瞬間、エリゼの胸が締めつけられた。
息が、止まる。
幻の背後――薄い光の幕が揺れ、そこに“母”の姿が一瞬だけ浮かぶ。
あの懐かしい微笑。
雪の中で、優しく髪を撫でてくれた、あの日の姿。
彼女は静かに頷き、エリゼに「それでいいのよ」とでも言うように微笑んでいた。
――だが。
何かが違う。
エリゼの心の奥で、微かな違和感が波紋のように広がる。
その微笑が、あまりにも静かすぎた。
あまりにも完璧だった。
まるで“母の幻”が、感情の再現ではなく――記憶の模倣でしかないように。
エリゼ(心の声):
「違う……。お母さんは……そんなふうに笑ってなかった。」
彼女の拳が小さく震える。
その震えに合わせて、雪片がわずかに乱れた。
幻エリゼは、微笑みを崩さない。
その瞳は優しすぎて、冷たすぎた。
「どうして否定するの? 痛みのない世界を、望んだはずでしょう。」
エリゼの視線が、彼女を貫くように揺れる。
ナレーション:
「幻は、記憶から生まれる。
“理想”という名の呪縛が、彼女の足を縛る。」
風が再び吹き始める。
雪の粒が、まるで鎖のようにエリゼの足元に絡みついた。
白は美しい。
――だからこそ、逃げられない。
雪の粒が光を放ち、世界が静かに軋んだ。
幻エリゼが両腕を広げる。
その仕草に呼応するように、空気が震え、周囲の雪が一斉に浮かび上がる。
それはもう雪ではなかった――光の粒、情報の結晶。
風が数式を描くように渦を巻き、幾何学的な対称性を帯びて整列する。
彼女の背から展開された翼は、あまりにも美しかった。
透明な氷の羽が重なり合い、淡く蒼白い輝きを放つ。
《雪風》。
エリゼが幾度の戦いと苦悩の果てに掴んだ、あの風の象徴。
だが――これは違う。
風が、息をしていなかった。
流れが“生きていない”。
均整を崩さないその軌道は、まるで機械仕掛けの風のよう。
幻エリゼは微笑んだ。
その笑みは、慈愛と優越の境界を曖昧にしたような、完璧な静謐さだった。
「見て。これが、あなたが目指したはずの姿。
痛みも迷いもない、純粋な雪の姫。」
彼女の翼がふわりと動く。
たった一振り――それだけで、風が爆ぜた。
轟音もなく、ただ“圧”だけが襲いかかる。
雪片が弾丸のように変形し、地を裂き、氷の破片が刃となって舞う。
エリゼは咄嗟に滑るように身をかわす。
しかし、足元の雪が瞬時に凍結し、氷膜が彼女の動きを縫い止める。
逃げ場を失った足が軋み、呼吸が白く滲む。
エリゼ(息を呑みながら):
「……これが、私……?」
その問いは自分自身へのものだった。
幻影は、まるでその心の隙を知っていたように微笑みを深める。
風が静まり、彼女の足元に雪の花が咲く。
一輪、また一輪。
その花弁の一枚一枚が、光の中で形を変える――
母の手、幼い日の笑顔、憧れ、祈り、約束。
すべてが「理想のエリゼ」を形作る記憶の断片。
幻エリゼ:
「“完璧な私”に、なりたかったでしょう?」
その声はやさしく、残酷だった。
エリゼは唇を噛み、視線を逸らすことができなかった。
彼女の胸の奥で、かつての憧れが小さく鳴り響く。
――“そうなれたら、よかったのに。”
その一瞬の迷いが、雪原の静寂をさらに深く、冷たくした。
エリゼの胸の奥で――《雪風》の鼓動が、不意に乱れた。
それは彼女の心拍と共鳴し、まるで雪の音が内側から崩れていくような響きを立てる。
風がざわめき、雪原がゆっくりと歪み始めた。
白い地面が、鏡のように透き通る。
そこに波紋が広がり、過去の映像が浮かび上がる。
――幼い日の記憶。
凍える坂の上で、転び、泣きじゃくる少女。
「どうして滑れないの」と母の声。
優しいはずのその響きが、冷たい雪のように胸を刺す。
泣きながら、少女は震える声で言った。
「……ごめんなさい。雪……嫌いじゃないの……好き、だよ……。」
その瞬間、記憶の中の母は微笑んだ。
けれど――その笑みは、どこか“条件付きの愛”のように感じられた。
エリゼの瞳が、苦痛に歪む。
彼女は震える唇で、ようやく本音をこぼした。
「……雪が嫌いだった。
でも、それを言えなかった。
だから、笑って……“愛してる”って嘘をついた。」
その告白に、雪原の空気が一瞬だけ柔らかく波打つ。
しかし、すぐに冷たく戻る。
幻エリゼは、まるでその痛みを抱きしめるように歩み寄る。
声は甘く、雪よりも静かだった。
「それでいいの。
真実なんて、冷たすぎる。
幻の中で、美しく生きればいい。」
その言葉は、氷のように滑らかで、凍るように優しい。
まるで傷口に雪をかぶせるように、痛みを“美”で覆ってしまう。
エリゼの視界が、ゆらりと揺らぐ。
風の流れが乱れ、現実と幻の境界が曖昧になる。
自分の輪郭が、溶け出していくような錯覚。
――このまま幻の中にいたら、楽になれる。
痛みも、孤独も、雪も赦してくれる。
彼女の瞳が、わずかに迷いを帯びる。
その隙間に、“幻”が入り込もうとしていた。
「幻は、心の揺らぎに宿る。
真実を恐れた瞬間――それは、最も美しい形で、彼女を包み込む。」
幻エリゼが、ゆっくりと背を向けた。
白銀の髪が風に舞い、氷冠が淡く輝く。
そして、背の《風翼》が大きく展開される。
透明な風が渦を巻き、雪片が螺旋を描きながら天へと吸い上げられていく。
氷の粒が、音を立てて集まり、風の陣を描く。
それはまるで、世界そのものが呼吸を止めて見守る“儀式”のようだった。
幻エリゼの声が響く。
その調べは静かに、しかし絶対的な支配を含んでいた。
「さあ、証明して。
あなたが――本当に“私”より速いのか。」
言葉と同時に、世界が歪む。
風が音を失い、雪が光となって溶ける。
彼女たちの足元に、一本の“光の滑走路”が走った。
それは風と雪が融合してできた、心の軌跡。
ナレーション:
「幻は、速さを試す。
心の流れが滞れば、幻が現実を呑み込む。
この谷で生き残るのは、ただ一つ――“真実の風”だけ。」
エリゼは拳を握る。
その指先に、微かな風の鼓動。
胸の奥で《雪風》が再び息を吹き返す。
深く息を吸い込み、彼女は目を閉じる。
風が髪を揺らし、雪が瞳に映る。
「……幻だろうと、私だ。
だったら、勝って――終わらせる。」
静寂。
その一瞬、時さえも息を潜める。
次の瞬間、二人の“風翼”が同時に展開した。
音を置き去りにするような衝撃。
雪原が砕け、氷の破片が宙を舞う。
風が叫び、光が奔る。
――そして、始まる。
“心の雪原”を駆ける、幻影の決闘。
自らの過去と、理想と、幻を斬り裂くための――
速さの戦いが、いま、幕を開けた。




