幻雪圏への侵入 ― “記憶の鏡谷”
北方高地――幻雪圏。
そこは、終わりのない冬に閉ざされた地だった。
吹雪が絶え間なく空を引き裂き、風が水平に奔る。
地と空の境界は溶け合い、世界は一枚の白に呑み込まれている。
雪片が光を弾き、宙に散る。
その一つひとつが小さな鏡のように、わずかな光と影を映していた。
しかし、それらの像はすぐに崩れ、風に削られ、また同じ白に戻る。
音という音は、すべて雪の中に吸い込まれていた。
足音も、呼吸の音も、遠雷のような風のうなりすらも――
まるでこの地が「音」という存在そのものを拒絶しているかのようだった。
世界は、沈黙していた。
ただ、降りしきる雪だけが永遠を語っている。
「吹雪は心を削り、記憶を映す鏡となる。
そこに立つ者は――己を見ずにはいられない。」
その声は誰のものでもなく、風そのものの響きのようだった。
白い世界に溶けて、ゆっくりと消えていく。
やがて、雪の幕の向こうにかすかな人影が現れる。
ひとり――いや、三つの影。
そのうちの先頭を歩く少女の瞳に、吹雪の白が映っていた。
氷のような青。
それでも、どこかに温もりを残す色。
彼女の名は、エリゼ・フロストリア。
かつて“風を赦した者”と呼ばれた少女が、
いま――再び、雪の心を試されようとしていた。
風裂峡を後にして、三つの影が北を目指していた。
雪原の上を、風を裂くように。
エリゼ、リオン、そして風導士の精霊――シルヴァ。
三人を導くのは、《風陣の羅針》と呼ばれる古い風律の装置。
それは風脈の流れを読み取り、魔力の偏りを指し示す――はずだった。
だが、今日はその針が、落ち着くことを知らない。
北を指したかと思えば、東へ。次の瞬間には真逆を向く。
まるで世界そのものが、彼らを惑わせているように。
リオンが眉をひそめ、羅針盤を雪面に突き立てた。
「地図が狂ってる……」
氷の息を吐きながら、彼は荒々しく羅針盤を見下ろす。
「北が、三度も反転した。これじゃあ、風脈すら信用できねぇ。」
雪を踏みしめる足音だけが響く。
エリゼは無言で風を見上げた。灰色の空が、息を潜めている。
その中で、シルヴァがふと立ち止まり、風に手をかざす。
透き通る指先が、淡い光を掴むように震えた。
「……風が、誰かに見られている。」
その声は風の囁きのように細く、それでいて確かな響きを持っていた。
エリゼが小さく息をのむ。
「見られてる……? 私たちが……?」
その瞬間だった。
風が――止んだ。
音が、世界から抜け落ちる。
雪片が宙に浮かんだまま、動かなくなる。
リオンが何かを叫ぼうとしたが、声も凍りつく。
次の瞬間――吹雪が弾けた。
まるで空そのものが裏返るように。
光が反転し、地平がねじれ、
三人を包む空間が、ひとつの“鏡”となって閉じていく。
エリゼだけが、白の渦に飲み込まれながら、
リオンとシルヴァの姿が遠ざかっていくのを見た。
「リオン――!」
伸ばした手が光に溶け、
次に見た景色は――母の微笑みと、過去の雪原だった。
白。
その色だけが、世界を塗りつぶした。
光が爆ぜた瞬間、地面の感触が消える。
リオンの叫びが、氷の中に沈むように遠ざかっていった。
視界の端で、シルヴァの蒼い影も霞に溶ける。
伸ばした手が空を掴む――だが、そこに風はなかった。
音が、引き延ばされる。
まるで世界全体が、巨大な水槽に沈められたように。
風の唸りも、雪のざらめく音も、
すべてが遠く、泡の彼方でくぐもっていく。
そして――音が消えた。
残ったのは、耳鳴りと、自分の呼吸だけ。
肺の奥に響く息づかいが、やけに大きく聞こえる。
「……ここは……?」
エリゼが顔を上げる。
そこは、どこまでも透き通った硝子の空間だった。
空気すら光を帯び、彼女の動きに合わせて微かに波打つ。
雪は落ちてこない。
無数の白片が、空中で止まり、光の粒となって漂っている。
まるで時間そのものが凍ったかのように。
足元を見ると、地面は存在しない。
それでも彼女は、確かに“何か”の上に立っていた。
一歩、踏み出すたびに――
透明な雪が淡く光を放ち、足跡を形づくる。
「……幻、なの?」
呟きは自分の胸に吸い込まれていく。
答える声は、どこにもない。
ただ――静寂の奥で、遠くに誰かの影が立っていた。
白に溶けるような輪郭。
それは、彼女自身にあまりにも似ていた。
どこからともなく――風が囁いた。
それは声のようで、息のようで、雪の間をすり抜けて届く。
「――幻雪圏だ。ニヴァレン族の結界。
心の速さを測る、魂の試練。」
エリゼの瞳が、はっと見開かれる。
その声――間違いない、シルヴァだ。
けれど姿はどこにもない。
空も地も、光でできた硝子の迷宮に変わっていた。
「魂の……試練……?」
自分の声が空間の壁に反響し、遅れて返ってくる。
まるで、自分自身が問い返されたように。
「見えるものすべてが幻。
けれど――その幻の奥に、真実が眠っている。」
声が、遠ざかる。
呼びかけても、もう届かない。
次の瞬間――風が完全に、止んだ。
音が消える。
雪の粒ひとつすら、動かなくなった。
息を吸う音だけが、世界のすべてになる。
吐くたびに白い霧が揺れ、そのたびに周囲の光が淡く震える。
エリゼの身体を包む光が、ゆっくりと強くなっていく。
その輝きは痛いほどに白く、だが冷たくはなかった。
視界が蒼く染まる。
空も雪も、すべてが一つの色に溶けていく。
遠くで、微かな鈴の音のような響き――
それは記憶の奥底から呼び起こされる懐かしい旋律。
彼女は思わず呟いた。
「……これは、私の……記憶……?」
光が弾け、雪の景色が一変する。
そこに現れたのは――幼い日の、氷涙坂。
母の背中が、やわらかい光の中に立っていた。
足元が――音もなく崩れた。
支えを失った感覚。
次の瞬間、世界が反転する。
上も下も消えた空間。
彼女はただ、光の奔流に呑まれていく。
落下か、浮上か、それすら分からない。
雪片が螺旋を描きながら舞い散る。
ひとつひとつの粒が、淡く光を放ち――
その中に、人の記憶が映りはじめる。
母の声。
「エリゼ、風を感じて――恐れないで。」
氷涙坂の風景。
あの日、母の背中を追って転びながら笑った幼い自分。
雪原を滑る音、風に乗る笑い声、白い手。
それらが光の粒に刻まれ、周囲を漂う。
雪の粒が、まるで小さな鏡のように彼女を映す。
無数の“自分”が、回転する光の渦の中で交錯する。
「記憶は、風に溶ける。
しかし、風はそれを忘れない。
幻雪圏――そこは、“心の像”が実体を持つ谷。」
その言葉の余韻とともに、雪が彼女の周囲を包み込む。
落下の速度がゆるやかに、まるで眠りへ落ちるように静まっていく。
彼女のまぶたの裏には、ひとつの映像が浮かんでいた。
――母の微笑み。
そして、その背後に広がる、どこまでも白い雪の丘。
エリゼの唇が、かすかに動く。
「……お母さん……」
その言葉が空気に溶けた瞬間、
光がすべてを包み、記憶の底へ――彼女は吸い込まれていった。
落下の感覚が、ふいに止んだ。
足元に、やわらかな雪の感触が広がる。
――ここは。
見覚えのある斜面だった。
風を孕んだ坂道。白銀に覆われた丘の連なり。
空は淡い群青に染まり、雲の切れ間から光が差し込む。
吹き抜ける風が、どこか懐かしい匂いを運んでくる。
氷涙坂――。
かつて、母と共に滑り降りた記憶の場所。
“風の心臓”を初めて見た、あの冬の日の情景。
エリゼは息を呑んだ。
光も風も、すべてがあの時のまま。
――けれど、何かが決定的に違う。
雪が、動かない。
舞い上がるはずの粒が、宙で静止している。
空気が止まり、風が息を潜め、時間そのものが凍りついていた。
母の姿もまた、その中にあった。
やさしく微笑む表情のまま、まるで氷像のように。
手を伸ばせば届く距離にいるのに――彼女は、動かない。
「……お母さん?」
呼びかけても、音が響かない。
声は雪の中に吸い込まれ、消える。
そのとき。
母の凍った微笑みの“向こう側”に、
もうひとりの姿が立っていた。
白い雪衣に身を包み、銀糸の髪をなびかせた少女。
その顔――エリゼは息を詰めた。
自分と、同じ顔。
いや、それよりも整いすぎた顔立ち。
雪のように無垢で、風のように冷たい“理想の自分”。
彼女は微笑んでいた。
凍りついた母の影を背に、静かに、完璧な笑みを浮かべて。
「ようこそ、エリゼ。」
その声は、風も雪もない空間に、澄んだ鈴の音のように響いた。
「ここが、あなたの“心の終着点”――幻雪圏の鏡谷よ。」
エリゼは立ち尽くしたまま、拳を握りしめる。
雪の静寂の中、心臓の鼓動だけが、確かに響いていた。
凍りついた時間の中で――
母の微笑の傍らに立つ少女が、ゆっくりと動いた。
その指先が、凍てついた母の頬を撫でる。
まるで氷に触れても痛みを知らないかのような、優雅で滑らかな所作。
少女は、微笑んだ。
完璧に整ったその笑みは、雪のように白く、冷たく、美しい。
「ようこそ、わたし。」
その声は、エリゼ自身の声。
けれど、そこには一片の迷いも、傷もなかった。
「ここは、雪があなたを思い出す場所。」
雪が舞う。
無音のまま、空から降り注ぐ光の粒。
それらが、エリゼの周囲に円を描きながら降り積もる。
「……私を……思い出す?」
思わず呟いたエリゼの声は、吹雪のない空間に淡く溶けていく。
「幻雪圏――
そこでは、“忘れたい自分”が最も美しい形で現れる。」
足元の雪がきらめき、世界がわずかに呼吸するように震える。
凍っていた風が、ふたたび動き始めた。
雪片が流れ、二人の間にゆるやかな渦を描く。
その渦は、まるで舞台の幕が開く合図のようだった。
エリゼと幻のエリゼ――
二つの視線が交わる。
空気が張り詰め、世界が再び“静寂”を取り戻す。
だが、その静寂の底には、確かに鼓動がある。
――今、この雪原が、心の戦場へと変わろうとしていた。




