表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
《Snowboard Chronicle:Seven Hearts of Snow》 ――雪を嫌う悪役令嬢、世界を滑る。  作者: 南蛇井


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

21/51

幻雪圏への侵入 ― “記憶の鏡谷”

北方高地――幻雪圏げんせつけん


そこは、終わりのない冬に閉ざされた地だった。

吹雪が絶え間なく空を引き裂き、風が水平に奔る。

地と空の境界は溶け合い、世界は一枚の白に呑み込まれている。


雪片が光を弾き、宙に散る。

その一つひとつが小さな鏡のように、わずかな光と影を映していた。

しかし、それらの像はすぐに崩れ、風に削られ、また同じ白に戻る。


音という音は、すべて雪の中に吸い込まれていた。

足音も、呼吸の音も、遠雷のような風のうなりすらも――

まるでこの地が「音」という存在そのものを拒絶しているかのようだった。


世界は、沈黙していた。

ただ、降りしきる雪だけが永遠を語っている。


「吹雪は心を削り、記憶を映す鏡となる。

 そこに立つ者は――己を見ずにはいられない。」


その声は誰のものでもなく、風そのものの響きのようだった。

白い世界に溶けて、ゆっくりと消えていく。


やがて、雪の幕の向こうにかすかな人影が現れる。

ひとり――いや、三つの影。

そのうちの先頭を歩く少女の瞳に、吹雪の白が映っていた。


氷のような青。

それでも、どこかに温もりを残す色。


彼女の名は、エリゼ・フロストリア。

かつて“風を赦した者”と呼ばれた少女が、

いま――再び、雪の心を試されようとしていた。

風裂峡を後にして、三つの影が北を目指していた。

雪原の上を、風を裂くように。


エリゼ、リオン、そして風導士の精霊――シルヴァ。

三人を導くのは、《風陣の羅針コンパス・アーク》と呼ばれる古い風律の装置。

それは風脈の流れを読み取り、魔力の偏りを指し示す――はずだった。


だが、今日はその針が、落ち着くことを知らない。

北を指したかと思えば、東へ。次の瞬間には真逆を向く。

まるで世界そのものが、彼らを惑わせているように。


リオンが眉をひそめ、羅針盤を雪面に突き立てた。

「地図が狂ってる……」

氷の息を吐きながら、彼は荒々しく羅針盤を見下ろす。

「北が、三度も反転した。これじゃあ、風脈すら信用できねぇ。」


雪を踏みしめる足音だけが響く。

エリゼは無言で風を見上げた。灰色の空が、息を潜めている。

その中で、シルヴァがふと立ち止まり、風に手をかざす。

透き通る指先が、淡い光を掴むように震えた。


「……風が、誰かに見られている。」

その声は風の囁きのように細く、それでいて確かな響きを持っていた。


エリゼが小さく息をのむ。

「見られてる……? 私たちが……?」


その瞬間だった。

風が――止んだ。


音が、世界から抜け落ちる。

雪片が宙に浮かんだまま、動かなくなる。

リオンが何かを叫ぼうとしたが、声も凍りつく。


次の瞬間――吹雪が弾けた。

まるで空そのものが裏返るように。


光が反転し、地平がねじれ、

三人を包む空間が、ひとつの“鏡”となって閉じていく。


エリゼだけが、白の渦に飲み込まれながら、

リオンとシルヴァの姿が遠ざかっていくのを見た。


「リオン――!」

伸ばした手が光に溶け、

次に見た景色は――母の微笑みと、過去の雪原だった。


白。

その色だけが、世界を塗りつぶした。


光が爆ぜた瞬間、地面の感触が消える。

リオンの叫びが、氷の中に沈むように遠ざかっていった。

視界の端で、シルヴァの蒼い影も霞に溶ける。

伸ばした手が空を掴む――だが、そこに風はなかった。


音が、引き延ばされる。

まるで世界全体が、巨大な水槽に沈められたように。

風の唸りも、雪のざらめく音も、

すべてが遠く、泡の彼方でくぐもっていく。


そして――音が消えた。


残ったのは、耳鳴りと、自分の呼吸だけ。

肺の奥に響く息づかいが、やけに大きく聞こえる。

「……ここは……?」


エリゼが顔を上げる。

そこは、どこまでも透き通った硝子の空間だった。


空気すら光を帯び、彼女の動きに合わせて微かに波打つ。

雪は落ちてこない。

無数の白片が、空中で止まり、光の粒となって漂っている。


まるで時間そのものが凍ったかのように。


足元を見ると、地面は存在しない。

それでも彼女は、確かに“何か”の上に立っていた。

一歩、踏み出すたびに――

透明な雪が淡く光を放ち、足跡を形づくる。


「……幻、なの?」

呟きは自分の胸に吸い込まれていく。

答える声は、どこにもない。


ただ――静寂の奥で、遠くに誰かの影が立っていた。

白に溶けるような輪郭。

それは、彼女自身にあまりにも似ていた。



どこからともなく――風が囁いた。

それは声のようで、息のようで、雪の間をすり抜けて届く。


「――幻雪圏だ。ニヴァレン族の結界。

  心の速さを測る、魂の試練。」


エリゼの瞳が、はっと見開かれる。

その声――間違いない、シルヴァだ。

けれど姿はどこにもない。

空も地も、光でできた硝子の迷宮に変わっていた。


「魂の……試練……?」

自分の声が空間の壁に反響し、遅れて返ってくる。

まるで、自分自身が問い返されたように。


「見えるものすべてが幻。

  けれど――その幻の奥に、真実が眠っている。」


声が、遠ざかる。

呼びかけても、もう届かない。


次の瞬間――風が完全に、止んだ。

音が消える。

雪の粒ひとつすら、動かなくなった。


息を吸う音だけが、世界のすべてになる。

吐くたびに白い霧が揺れ、そのたびに周囲の光が淡く震える。


エリゼの身体を包む光が、ゆっくりと強くなっていく。

その輝きは痛いほどに白く、だが冷たくはなかった。


視界が蒼く染まる。

空も雪も、すべてが一つの色に溶けていく。

遠くで、微かな鈴の音のような響き――

それは記憶の奥底から呼び起こされる懐かしい旋律。


彼女は思わず呟いた。

「……これは、私の……記憶……?」


光が弾け、雪の景色が一変する。

そこに現れたのは――幼い日の、氷涙坂。

母の背中が、やわらかい光の中に立っていた。


足元が――音もなく崩れた。

支えを失った感覚。

次の瞬間、世界が反転する。


上も下も消えた空間。

彼女はただ、光の奔流に呑まれていく。

落下か、浮上か、それすら分からない。


雪片が螺旋を描きながら舞い散る。

ひとつひとつの粒が、淡く光を放ち――

その中に、人の記憶が映りはじめる。


母の声。

「エリゼ、風を感じて――恐れないで。」


氷涙坂の風景。

あの日、母の背中を追って転びながら笑った幼い自分。


雪原を滑る音、風に乗る笑い声、白い手。

それらが光の粒に刻まれ、周囲を漂う。


雪の粒が、まるで小さな鏡のように彼女を映す。

無数の“自分”が、回転する光の渦の中で交錯する。



「記憶は、風に溶ける。

  しかし、風はそれを忘れない。

  幻雪圏――そこは、“心の像”が実体を持つ谷。」


その言葉の余韻とともに、雪が彼女の周囲を包み込む。

落下の速度がゆるやかに、まるで眠りへ落ちるように静まっていく。


彼女のまぶたの裏には、ひとつの映像が浮かんでいた。

――母の微笑み。

そして、その背後に広がる、どこまでも白い雪の丘。


エリゼの唇が、かすかに動く。

「……お母さん……」


その言葉が空気に溶けた瞬間、

光がすべてを包み、記憶の底へ――彼女は吸い込まれていった。


落下の感覚が、ふいに止んだ。

足元に、やわらかな雪の感触が広がる。


――ここは。


見覚えのある斜面だった。

風を孕んだ坂道。白銀に覆われた丘の連なり。

空は淡い群青に染まり、雲の切れ間から光が差し込む。

吹き抜ける風が、どこか懐かしい匂いを運んでくる。


氷涙坂――。

かつて、母と共に滑り降りた記憶の場所。

“風の心臓”を初めて見た、あの冬の日の情景。


エリゼは息を呑んだ。

光も風も、すべてがあの時のまま。

――けれど、何かが決定的に違う。


雪が、動かない。

舞い上がるはずの粒が、宙で静止している。

空気が止まり、風が息を潜め、時間そのものが凍りついていた。


母の姿もまた、その中にあった。

やさしく微笑む表情のまま、まるで氷像のように。

手を伸ばせば届く距離にいるのに――彼女は、動かない。


「……お母さん?」


呼びかけても、音が響かない。

声は雪の中に吸い込まれ、消える。


そのとき。


母の凍った微笑みの“向こう側”に、

もうひとりの姿が立っていた。


白い雪衣に身を包み、銀糸の髪をなびかせた少女。

その顔――エリゼは息を詰めた。


自分と、同じ顔。

いや、それよりも整いすぎた顔立ち。

雪のように無垢で、風のように冷たい“理想の自分”。


彼女は微笑んでいた。

凍りついた母の影を背に、静かに、完璧な笑みを浮かべて。


「ようこそ、エリゼ。」


その声は、風も雪もない空間に、澄んだ鈴の音のように響いた。

「ここが、あなたの“心の終着点”――幻雪圏の鏡谷よ。」


エリゼは立ち尽くしたまま、拳を握りしめる。

雪の静寂の中、心臓の鼓動だけが、確かに響いていた。

凍りついた時間の中で――

母の微笑の傍らに立つ少女が、ゆっくりと動いた。


その指先が、凍てついた母の頬を撫でる。

まるで氷に触れても痛みを知らないかのような、優雅で滑らかな所作。


少女は、微笑んだ。

完璧に整ったその笑みは、雪のように白く、冷たく、美しい。


「ようこそ、わたし。」


その声は、エリゼ自身の声。

けれど、そこには一片の迷いも、傷もなかった。


「ここは、雪があなたを思い出す場所。」


雪が舞う。

無音のまま、空から降り注ぐ光の粒。

それらが、エリゼの周囲に円を描きながら降り積もる。


「……私を……思い出す?」


思わず呟いたエリゼの声は、吹雪のない空間に淡く溶けていく。




「幻雪圏――

 そこでは、“忘れたい自分”が最も美しい形で現れる。」


足元の雪がきらめき、世界がわずかに呼吸するように震える。

凍っていた風が、ふたたび動き始めた。


雪片が流れ、二人の間にゆるやかな渦を描く。

その渦は、まるで舞台の幕が開く合図のようだった。


エリゼと幻のエリゼ――

二つの視線が交わる。


空気が張り詰め、世界が再び“静寂”を取り戻す。

だが、その静寂の底には、確かに鼓動がある。


――今、この雪原が、心の戦場へと変わろうとしていた。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ