《風が赦す地へ》
蒼光の柱が、ゆっくりと収束していった。
風裂峡の空は、夜明け前の蒼に淡い橙を混ぜ始め、長く荒れ狂っていた雲が裂けていく。
風が止む。
あれほど耳を裂いていた唸りが消え、世界は一瞬、息を潜めた。
その静寂の中心に――ひとすじの光が降りてくる。
白銀の粒をまとった蒼の残光。
それは、空から舞い降りる祈りのように、風を撫でながらゆっくりと地上へと近づいてくる。
光の中から、少女の輪郭が現れた。
氷の衣をまとい、風の名を背負う者。
エリゼは目を閉じたまま、両腕をわずかに広げ、まるで風に抱かれるように降下していく。
その足が、断崖の雪をそっと踏んだ。
――瞬間、世界が音を取り戻す。
暴れ続けていた突風が、まるで長い夢から覚めたように穏やかに流れ始めた。
崖の岩壁を撫で、雪を巻き上げ、そして空へと還っていく。
風裂峡の大地は、初めて“静けさ”という名の息を吸い込んだ。
白い息を吐きながら、エリゼは顔を上げた。
頬を撫でる風はもう痛くない。
冷たさの中に、確かに――優しさがあった。
彼女の瞳に、淡い光が映る。
それは夜と朝の境界、嵐の果てに生まれた新しい空の色。
「嵐は終わり、風はようやくその居場所を見つけた。」
エリゼの髪が、最後の突風に揺られ、柔らかく舞った。
それは祝福のような、風の頬ずりだった。
空から、静かな雪が舞い降りていた。
だが、それはもはや痛みの象徴ではない。
一片一片が柔らかく光を帯び、まるで風に溶けながら微笑んでいるかのようだった。
エリゼはゆっくりと顔を上げる。
頬に触れた雪が溶ける前に、彼女は目を閉じた。
胸の奥で――“もうひとつの心臓”が静かに鼓動を打つ。
《雪風》――氷と風の律がひとつになった、その音。
ドクン、ドクン、と穏やかなリズムが空気に滲み出し、彼女の周囲に淡い蒼の光を広げていく。
その背に浮かぶ紋章が、風のように揺らめいた。
蒼く、透明に、まるで空へ向かう路を描くように。
光はゆっくりと東の空へと伸びていき、やがて遠い地平線に溶けていった。
エリゼ(モノローグ):
> 「雪を赦した私を……今度は風が、受け入れてくれた。」
その声は風に混ざり、誰の耳にも届かぬまま、しかし確かに世界を包み込む。
蒼の風が、そっと彼女の髪を撫でた。
雪の粒を巻き上げながら、空と地を結ぶ一本の道を描く。
それは――赦しの道。
痛みを越え、拒絶を越え、ようやく出会った“和解”の流れ。
雪は舞い続け、風は笑っていた。
空も、大地も、ようやくひとつの律を取り戻したかのように。
風裂峡の夜明けは、静寂の中にあった。
灰と蒼の空がゆっくりと混ざり、薄い光が断崖を照らしていく。
リオンはその端に立ち、眼下の光景を見つめていた。
吹き荒れていた暴風は消え、ただ柔らかな風だけが彼のマントを揺らしている。
かつて敵として槍を向け合った少女――
いま、その姿は穏やかな風の中にあった。
エリゼは断崖の中腹に立ち、蒼の紋章《雪風》を背に光を帯びている。
彼女が放つ光が、雪面を淡く照らす。
風が、その光を運びながらリオンの頬を撫でた。
それは、まるで言葉のない別れの挨拶のようだった。
リオンは槍――《蒼槍ランス・ヴァルグ》――をゆっくりと地に突き立てる。
その刃先が雪を裂き、短い音を立てた。
そして彼は、風に祈るように目を閉じる。
リオン(低く、しかし確かな声で):
> 「……行け、エリゼ。その風の果てまで。」
その言葉は、かつての師としての誇りでもあり、
戦士としての潔さでもあり――何よりも、ひとりの人間としての赦しだった。
エリゼは静かに微笑み、リオンの方を見上げる。
目と目が一瞬だけ交わる。
言葉はいらなかった。
風が、すべてを運んでくれる。
彼女は小さく頷き、背の《雪風》がさらに強く輝いた。
その光が雪を淡く染め、空へと伸びていく。
リオンのマントが風に舞う。
それはまるで、彼自身が彼女の旅立ちを見送るために、
風の一部となって寄り添うかのようだった。
そして――風が吹く。
優しく、どこまでも清らかに。
別れではなく、継承の風。
エリゼはその風を背に受け、空を見上げた。
そこには、もう恐れも悲しみもなかった。
ただ、未来へと続くひとすじの道があるだけだった。
風が、再び彼女を抱いた。
その流れはもはや暴力ではなく、優しい掌のように彼女の身体を包み込む。
エリゼの背から広がる《スカイグライド》の翼が、柔らかな蒼光を帯びて揺らめく。
氷片がきらめきながら舞い散り、夜明けの空へと溶けていく。
その足が地を離れた瞬間――風が静かに唸り、彼女を押し上げた。
ふわりと浮かぶ身体。
雪の粒が尾を引くように流れ、まるで星のように輝く。
東の空。
黎明の光が差し込み、暗い峡谷を照らし始める。
そこへ向かって、エリゼはゆっくりと翼を広げた。
《雪風》の紋章が胸に脈打ち、蒼い閃光が彼女の軌跡を描く。
風裂峡が下へと遠ざかり、灰の霧の海がみるみる小さくなっていく。
やがて、雲を突き抜けた先――
そこには、まだ誰の目にも映されたことのない蒼の地平があった。
風脈が光の帯となって絡み合い、ひとつの楽園のように輝いている。
それが、“風が赦す地”と呼ばれる場所。
エリゼの目に、微笑が浮かぶ。
風が頬を撫で、雪が肩に触れる。
それはまるで、世界そのものが彼女の帰還を祝福しているかのようだった。
ナレーション:
> 「風は拒まない。
> 赦しの流れは、次なる空を探し続ける。
> そして――その名は、“雪風”とともに語り継がれる。」
蒼い光の尾を引きながら、エリゼは新たな空へと消えていく。
その軌跡だけが、永遠に残る風の道として――
“風の心臓”の伝承に刻まれた。
風裂峡の断崖に、静寂が戻っていた。
かつて暴風が荒れ狂ったこの地に、今は穏やかな風が流れている。
リオンはその中心に立っていた。
氷の地面に刺した槍が、陽光を受けて鈍く光る。
彼の頬を、ひとすじの風が撫でていった。
――柔らかい。
それは、戦場で感じた風ではない。
まるで、懐かしい声に頬を撫でられたような、温もりのある流れだった。
リオンは目を細め、微かに笑う。
耳を澄ませば、風の中に彼女の声が混じっている気がした。
あの時と同じ――無邪気で、少し照れたような笑い声。
彼はゆっくりと目を閉じ、胸の前に拳を置いた。
風が服の裾を揺らし、雪を運んでくる。
リオン(小声で):
「……また会おう。風の果てで。」
その言葉が風に溶け、空へと流れていく。
彼の背後では、風裂峡の谷が光を帯びていた。
蒼と白の風が優雅に交わり、まるで新しい命を宿したかのように柔らかく脈打っている。
断崖、谷、そして空。
風裂峡は、もはや“試練の地”ではなく――“再生の地”となっていた。
最後に、空の彼方に一本の蒼い軌跡が輝く。
それは《雪風》の残した風の道。




