《風の心臓・雪風(ゆきかぜ)》
――落ちていく。
世界が裏返るように反転し、白と蒼の奔流が視界を覆う。
エリゼの身体は風裂峡の中心へと吸い込まれていた。そこは、風と氷が交わり、怒りと祈りが渦を巻く“風の心臓部”。
轟音。唸り。裂ける空。
しかし、その中心だけは――奇妙なほど静かだった。
重力に引かれながら、エリゼはその静寂に包まれる。耳を塞がれるような沈黙の中で、
胸の奥から、確かに響く鼓動を感じた。
――ドクン。
――ドクン。
それは音ではない。
空気そのものが震え、風が彼女の心臓と共に呼吸を始める。
胸の奥に、もうひとつの鼓動。《雪風》――氷と風が共鳴して生まれた、二つ目の心臓。
かつて氷涙坂で母が見せてくれた“風の心臓”の律動が、いま彼女の中で再び鳴り始める。
氷片が周囲を舞い、風の粒子が螺旋を描いて身体を包み込む。
その流れはやがて、涙に触れた。
落下の最中に零れた一粒の涙が、蒼く光を帯びる。
その光が風と混じり合い、渦の流れを塗り替えていく。
白い嵐の中に、一筋の蒼が走った。
それはまるで、風そのものが彼女の涙を赦すような優しい軌跡。
世界が震え、風が呼応する。
空間の裂け目が静かに開き、全ての音が――ふっと、止んだ。
そして、静寂の中に声が響く。
それは誰のものでもない、風そのものの言葉だった。
> 「雪が涙で祈ったように、
> 風は流れで赦す。
> その循環こそが、命の律動。」
時間が凍る。
風が止まり、光だけが脈打つ。
エリゼの身体が宙に静止し、髪が蒼光の中でゆっくりと揺れる。
彼女の心臓――《雪風》が、一度、大きく鳴った。
ドクン――と。
その一瞬、世界の全てが彼女の呼吸と同期した。
風が彼女を拒むことをやめ、
空が、彼女を受け入れた。
そして、風は語ることをやめ、ただ流れた。
それが、再生の始まりだった。
静寂の底――。
エリゼの手の中で、《白哭》がわずかに震えた。
その刃を覆っていた氷紋が、まるで心臓の鼓動に呼応するように脈打ち始める。
ひとすじの蒼光が、刃の中心を走った。
それはまるで氷の血管のように広がり、刀身全体へと流れ込んでいく。
――ピシリ。
氷紋がひとつ、割れた。
次の瞬間、内部からあふれ出した光が、紋章の形を描き出す。
《雪風》――
風と氷、ふたつの理が交わる印。
刃先に刻まれたその紋章が完成した瞬間、
《白哭》は鋭い音を立てて輝き、周囲の氷片が羽のように舞い上がった。
白銀の破片は、風に乗って螺旋を描き、やがて彼女の背に集う。
光の羽――いや、風そのものの翼が形成されていく。
無数の微光が層を成し、空気の流れが一筋の“流線”として視える。
それは、風を読む目であり、風を掴む手。
彼女だけの新たな“道”の形だった。
そのとき、柔らかな声が心に届く。
> 「これが、あなたの流れ。」
> 「奪う風ではなく、与える風。」
声の主――風の精霊。
その姿は形を持たず、ただ優しく彼女を包み込む。
エリゼはゆっくりと瞳を開いた。
その瞳は深い蒼へと変わり、かつて恐れていた風の煌めきを映していた。
彼女の頬を撫でる風――
もう痛みではなかった。冷たさの中に、確かな温もりが宿っている。
エリゼ(小さく呟く):
「……これが、“赦された風”……」
風が応えるように、彼女の髪を揺らす。
蒼の光が広がり、世界が再び動き出した。
そして――彼女の背に展開した翼が、初めて羽ばたく。
――落下の軌跡が、光へと反転する。
風裂峡の中心、渦巻く風の胎動の中。
エリゼはその空間の只中で、両腕をゆっくりと広げた。
瞬間、背中に奔った蒼光。
《白哭》の刃先から放たれた光が彼女の全身を包み込み、
風と氷の粒子が収束して――形を変える。
ドウン――。
低い轟音とともに、彼女の背から翼が咲いた。
それは風の線で描かれたような、純粋な光の翼。
氷片をまといながら、空気の振動を音速に変えるほどの力を帯びている。
蒼と白が混ざり合い、世界の色が塗り替わる。
風の渦が彼女のまわりでほどけ、落下の勢いが、
そのまま――“飛翔”へと変わった。
エリゼは風を踏みしめる。
足裏が確かに空気の層を捉え、次の瞬間、身体が弾かれるように跳ね上がる。
その動きはまるで、風脈を駆ける流星。
断崖を螺旋状に駆け上がりながら、彼女の翼が光の尾を引いた。
音が、消える。
代わりに、鼓動と風の響きだけが世界を満たしていた。
――上空。
リオンはその光景を見上げていた。
蒼のマントが乱れ、足元の風陣がひとつ、またひとつと崩壊していく。
術士たちの詠唱が途切れ、誰もが言葉を失っていた。
彼の目に映るのは、ただ一人の少女。
かつて“風を恐れていた少女”が、いま――風そのものになっている。
リオン(息を呑むように):「……これが、お前の――風か。」
その声が、確かに風に乗って届いた。
エリゼはふと、視線を彼の方へ向ける。
風の中、彼女の表情がわずかに緩む。
微笑――そう見えた。
その一瞬を残して、エリゼは再び空を裂く。
翼が羽ばたくたび、風が形を変え、
空が、彼女の通り道になる。
風はもう、彼女を拒まない。
エリゼ・ヴァルトハイトは――風と一つになった。
――世界が、息を吹き返した。
風裂峡を覆っていた咆哮の渦が、ゆっくりと静まっていく。
暴風の軋む音が消え、代わりに柔らかな律動だけが響いた。
空気そのものが青く発光している。
峡谷の岩肌、氷壁、そして雲さえも――蒼の光に包まれていた。
その中心に、一本の上昇気流が立ち上る。
天へと続く、風の柱。
その道を、エリゼが駆けていた。
《スカイグライド》。
彼女の風翼が最大展開し、氷片を散らしながら空を裂く。
ひと蹴りごとに空気が鳴り、蒼の粒子が尾を引いた。
その軌跡は、真っすぐな光線ではない。
まるで、祈るように緩やかに曲線を描きながら――
空へ、空へと伸びていく。
風と氷が交わり、彼女の通った後には淡く揺らめく“風の道”が残る。
それは儚くも確かな、命の流れそのものだった。
ナレーション(静かな声が世界に響く):
> 「風は拒まぬ。
> 彼女が赦したのだから。
> そして、風はまた新たな空へ――流れ出す。」
その言葉と共に、風裂峡全体が震えた。
リオンたちが立つ断崖の上では、王国の術士たちが息を呑む。
風陣が次々と反応し、古の紋章が空気に浮かび上がっていく。
そして、彼らの視界の先――
エリゼが雲層を突き抜けた。
瞬間、蒼白の閃光が世界を満たした。
雲の上に、巨大な紋章が浮かび上がる。
それは、氷涙坂で母が見せた“風の心臓”と同じ形。
《風の心臓・雪風》。
その紋章が一度、ゆっくりと鼓動する。
ドクン――。
風が世界中で震えた。
リオンの頬を撫でる風が、北へ向かって流れ始める。
同時に、王国全土の風術陣が光を放ち、ひとつの方向へ共鳴した。
北風が還る。
長き冬を覆っていた“停滞の風”が、ようやく流れ出したのだ。
リオン(呟くように):
「……始まったんだな。風律再生が。」
蒼い空に、まだ小さく見えるひとつの影。
翼の残光をまといながら、
エリゼは新たな風の時代を告げるように――遥か彼方へと消えていった。
その軌跡は、いつまでも空に残っていた。
まるで、祈りのような“風の道”として。
――蒼が、消えていく。
轟いていた風の音も、眩しすぎた光も、すべてが静まった。
風裂峡を覆っていた蒼光は、やがて薄れ、淡い風紋だけを残していく。
峡谷の底には、一本の“風の道”が光の残滓として揺れていた。
それは消えそうで、けれど決して途切れない。
まるで、誰かが空へ還った証――祈りの形のように。
リオンはその場に膝をついた。
砕けた結界陣の欠片が風に散り、彼の肩に触れる。
指先に微かに残る、暖かな風の感触。
それは冷たくも、痛くもなかった。
まるで、エリゼがそっとそこに触れているかのように。
リオン(かすかに笑みを浮かべて):
> 「……ありがとう、エリゼ。」
声が風に乗り、峡谷を越えていく。
その音は、誰に届くでもなく、しかし確かに世界に溶けていった。
蒼の空に、一羽の白い羽が舞う。
それは氷の羽か、あるいは風の欠片か――
ゆらりと漂い、やがて消えた。
ナレーション(静寂に響くように):
> 「雪が涙で祈ったように、
> 風は流れで赦す。
> その循環は――いま、新たな命を得た。」
風裂峡に再び、穏やかな風が吹き抜けた。
それはもう、かつての暴風ではない。
命を運ぶ、優しい流れ。
そして、その風の中には確かに――
エリゼの笑い声のような、微かな響きがあった。




