断崖滑走戦
――ヴァルトハイト断崖帯。通称、“風裂峡”。
そこは、風そのものが生きているかのような場所だった。
幾重にも連なる断崖が、まるで巨大な牙のように天を噛み砕き、谷底では絶え間なく風の渦が唸りを上げている。耳を裂くような轟音が、地の底から響き渡る。
岩壁には、古代の風祈堂から流れ出たとされる“風紋”が刻まれていた。
螺旋を描く紋章は、まるで今も呼吸しているかのように淡く光り、その力を媒介に王国の風術士たちは“風障壁”を展開している。
その術式は、逃げる者を拒む檻。風そのものが王国の意志に従う、絶対の防壁。
空は低く、灰色の雲が垂れこめていた。
冷たい霧が視界を奪い、時折、断崖を叩く突風が砂礫を舞い上げる。
風は暴れ、唸り、そして囁く――まるでこの地に足を踏み入れる者すべてを試すかのように。
ここは、王国が“風の律”を刻み、守護の力を宿した聖域。
だが、同時に――その律に逆らう者たちにとっての、逃げ場なき断罪の舞台でもあった。
――断崖に、氷の音が走った。
エリゼは《白哭》を手に、氷で形成された滑走路を縫うように疾走する。
刃先が岩を刻み、散った氷粒が光の尾を引く。まるで風そのものを裂きながら、彼女の身体は崖を滑り抜けていった。
その背後で、灰の霧が渦を巻く。
対するは、王太子リオン。
蒼のマントを翻し、《蒼槍》を構える。
槍の先端に風陣が収束し、唸りを上げるたび、断崖全体の空気が揺れた。
「――この断崖を越えることは誰にもできない!」
リオンの声が、風鳴りを裂く。
「風の律が、王国を護る!」
その言葉に応じるように、周囲の崖面で風術士たちが一斉に印を結んだ。
古い風紋が蒼く光り、突風が形を持つ。
吹き荒れる風は壁となり、谷全体が見えない牢獄に変わる。
まるでこの断崖そのものが、王国の意思に従って息づいているようだった。
だが――エリゼは、止まらない。
《白哭》を構え直し、瞳に決意の炎を宿す。
「……律、ね。」
彼女は低く呟いた。
「でも、律が誰かの涙を閉じ込めるなら――私は壊す!」
次の瞬間、氷が鳴いた。
風の壁に触れたエリゼの滑走路が爆ぜ、霧散しながらも、彼女は跳んだ。
風と氷の境界を越えて――。
――断崖が唸った。
リオンの《蒼槍》が振り抜かれる。
風が裂け、鋭い刃となってエリゼを襲う。
目に見えぬはずの空気が、今は殺気を帯びて形を持っていた。
だが――彼女は止まらない。
瞬時に《白哭》を氷面へ叩きつけ、滑走の角度を変える。
氷の斜面が音もなく隆起し、風刃を弾く。
衝突の衝撃で氷片が爆ぜ、光の粉となって霧の中へ舞い散った。
断崖の全てが、きしみながら震える。
風と氷の層が何度もぶつかり合い、谷がまるで生き物のように呼吸していた。
その上空では、風術士たちの詠唱が響く。
空気が歪み、音が消えた――“無音の嵐”。
それは風圧だけで形作られた牢獄。
空気が拳となって押し寄せ、エリゼの体を潰そうとする。
彼女は歯を食いしばり、重心を低く保つ。
滑走姿勢を崩さず、全身で風の流れを読む。
《白哭》が軋み、まるで悲鳴のように鳴り響く。
> 「風が、道を奪うなら。
> 彼女は、その風ごと追い越す。」
リオンが突撃する。
槍先が閃き、二人の間に真空の刃が生まれた。
目に見えぬ裂け目が空気を裂き、氷壁を切り裂く。
エリゼはほんの一瞬、身体をひねる。
氷片が弾け、彼女の頬をかすめて舞う。
紙一重――その距離は、指先ひとつぶん。
ふたりの視線が交錯する。
灰の霧の中、刹那だけ、互いの瞳に過去が映った。
かつて誓い合った日々の残光が、風の向こうで微かに揺れる。
だが――次の瞬間、風が再び吠えた。
戦いはまだ終わらない。
――断崖の最上層。
空気が悲鳴を上げていた。
音ではない、“風そのものの呻き”が大地を震わせる。
谷を覆う灰霧の奥――そこに、巨大な空間の歪みが口を開けていた。
“空の裂け目”。
風脈が交錯し、世界の呼吸が渦を巻く場所。
落ちれば、ただの一片も残らず吹き飛ぶ。
だが――同時に、風と一体化した者だけが通れる“新たな空の門”でもあった。
リオンが《蒼槍》を構え、声を張り上げる。
「ここで終わりだ、エリゼ! その先は風の墓場だ!」
彼の背後では風術士たちが詠唱を続け、断崖全体に風紋が走る。
大地がうねり、空気が硬質な壁のように密度を増していく。
エリゼは振り返らない。
ただ、白い息を吐きながら前を見据える。
「終わらせない!
風を閉じ込めたままなんて――嫌だから!」
氷壁を蹴る。
《白哭》が逆手に閃き、風を裂くように構えられた。
吹き荒ぶ風流の中で、彼女の瞳が一瞬、何かを捉える。
――“穏やかな層”。
風の奔流の中に、ひとすじの静寂。
それは、かつて母の幻影が残した“赦しの風”。
エリゼ(心の声):
> 「怖くなんかない。
> この風の奥に――まだ見ぬ空がある。」
リオンが叫ぶ。
「エリゼ――ッ!」
その声が届くより早く、彼女は断崖の端を踏み切った。
轟音。
風が爆ぜ、氷の粉が光となって散る。
《白哭》が蒼く脈打ち、刃がまるで“風の羽根”のように展開する。
その瞬間、彼女の姿は風の渦に呑まれ、空へ――消えた。
残されたのは、彼女が通り抜けたあとに残る淡い氷の光跡。
風がその軌跡をなぞり、やがて静かに溶けていく。
リオンはただ、槍を下ろして呟いた。
「……風を、赦したのか。」
谷に、静寂が訪れる。
だがその風は、どこか優しかった。
まるで――彼女の決意を、祝福するかのように。
――風裂峡の最果て。
灰霧が裂け、断崖の空がひらけていく。
風が咆哮をやめ、静寂が訪れた。
リオンは、崖の縁に立っていた。
視線の先――空の彼方へと伸びる一筋の光。
それは、エリゼが跳躍した軌跡。
氷と風が溶け合い、淡い蒼の尾を描いていた。
彼女の姿はもう見えない。
けれど、その光だけが、なお空を貫いている。
リオンは息を呑み、そして静かに槍を下ろす。
風の音が、まるで祈りのように耳を撫でた。
リオン(小声):
> 「……風よ。彼女を導け。」
その瞬間、谷を包んでいた灰の霧がふっと晴れる。
空が、ほんの一瞬だけ蒼に染まった。
冷たいはずの風が、なぜかあたたかい。
――まるで、彼女の想いが吹き抜けていったかのようだった。
リオンはその風の中で、目を閉じる。
心の奥で、なにかが静かにほどけていくのを感じながら。
> 「風が試す。雪が応える。
> その先にあるのは、誰も知らぬ――空の心臓。」
断崖に残るのは、蒼い氷光の軌跡。
それがやがて空の果てに吸い込まれ、ひとつの輝きに変わる。




