追走の王太子
断崖の谷間に、灰と風が渦を巻いていた。
その中心、風祈堂の崩れた尖塔を背に、王国の騎兵たちが陣を敷いている。
旗印は蒼の双翼――王太子リオンの紋章。
先頭に立つ青年のマントが風を裂く。
リオン・ヴァルトハイト。
蒼の眼が、かつて愛した少女の足跡を捉えていた。
「陣を組め。風術士、第一陣――展開開始。」
彼の低い号令が響いた瞬間、十数人の術士が両手を掲げる。
複雑な紋陣が空中に浮かび上がり、断崖全体に波紋のような風の振動が走る。
空気が圧縮され、風がうなりを上げた。
やがて――見えない壁が形を取る。
空気そのものが硬化し、断崖の中腹に“透明な嵐”が立ちはだかる。
それは王国の誇る結界術、《風壁陣》――
風の律に背く者を押し返すための、秩序の象徴。
「――風は秩序の盾。」
リオンの声は低く、しかし断固としていた。
「王国を乱す者には、立ち止まる場所などない。」
灰の霧の向こうで、ひとつの影が動く。
断崖を照らすわずかな光の中で、少女が姿を現した。
白銀の髪が風を裂き、手には氷刃《白哭》。
エリゼ・ヴァルトハイト。
かつて王都を追われ、今なお“雪を赦した異端”と呼ばれる娘。
風が彼女の頬を打つ。
だが、その瞳には怯えも迷いもなかった。
エリゼは足元を見下ろす。
そこに、光の粒がふわりと舞い降りる。
雪でも灰でもない――氷の呼吸。
その粒が集まり、彼女の前に一本の道を描く。
淡く輝く、氷の滑走路。
彼女は小さく笑った。
風に逆らうのではない、風を“超えて”進むための道。
エリゼ(心の声):
――立ち止まる場所なんて、いらない。
私は……風の先へ、行く。
風と氷がぶつかり合う前兆のように、断崖の空気が震える。
王太子の槍が輝きを増し、少女の刃が白く脈動する。
その瞬間――
風壁が轟音を立て、戦いの幕が開かれた。
――氷刃《白哭》が地を叩く音が、断崖の底にまで響きわたった。
瞬間、氷の花弁が炸裂し、無数の霜の粒が宙を舞う。
エリゼはその反動を背に受けて、断崖を滑り出した。
足元に生まれる氷のブレードが岩肌を切り裂き、蒼白の火花を散らす。
彼女の滑走はまるで、空そのものを駆け抜けていくようだった。
風がうねる。灰の霧が裂け、王太子リオンの蒼槍が閃光を放つ。
彼は崖上に立ち、風を掌で掴むように構え――
「――《ランス・ヴァルグ》、第一律動!」
大気が爆ぜた。
槍の先端から放たれた突風が、弾丸のように断崖を撃ち抜く。
風そのものを圧縮した“風弾”が、氷の滑走路を粉砕した。
轟音。
足元の道が崩れ落ちる――それでも、エリゼの姿勢は乱れない。
彼女は一瞬、風の流れを読む。
耳ではなく、肌で、呼吸で、心で。
次の瞬間、身体をひるがえし、崩れた斜面を蹴った。
そのまま――空へ。
断崖を裂く風が、彼女の髪を持ち上げる。
氷の粒が尾を引き、青白い軌跡が空に描かれた。
跳躍。旋回。
彼女は風の弾道をなぞるように宙を舞い、別の氷斜面へと着地する。
その一連の動きは、まるで風と踊る舞踏のようだった。
「まだその技を捨てていなかったのか!」
リオンの怒声が、風壁を越えて響く。
エリゼは振り返りざまに笑う。
その瞳は、かつて王都で彼と剣を交えた頃と同じ、自由の色をしていた。
「――あなたに教わったのよ!」
「何を……?」
「“風を読む”ってこと!」
次の瞬間、氷と風が激しく衝突した。
空間がきしみ、音が弾け、灰の霧が爆風で吹き飛ぶ。
風と氷。
秩序と反逆。
そして――かつて愛を語り合った二つの心。
そのすべてが、この断崖の上でせめぎ合っていた。
風が砕け、氷が唸る。
断崖の戦場で、リオンは《蒼槍》を構えたまま、ほんの一瞬、呼吸を止めた。
目の前のエリゼが、風と氷を纏って駆け抜けていく。
その姿が――どこか、遠い日の面影と重なって見えた。
――雪が降っていた。
幼き日の王都の外れ。
吹雪の夜、白の中で迷った少女を、少年は見つけた。
寒さで震える彼女に、少年は自分のマントを掛けて言った。
「もし風が道を奪っても、俺が必ず導く。」
エリゼは小さな手でマントを握りながら、かすかに首を傾げた。
「……その風が、泣いていたら?」
「泣く風などいない。」
少年――リオンは即座に答えた。
「風は進むものだ。止まれば、それは風じゃない。」
少女は少し寂しそうに笑い、雪の降る空を見上げた。
その表情の意味を、彼は当時、知らなかった。
――今、断崖の上で。
風の唸りが、まるであの日の雪の音のように聞こえる。
リオンの手が震えた。
胸の奥が、痛いほどに締めつけられる。
彼は知ってしまった。
“泣く風”は、確かに存在したのだと。
その涙を信じた少女が、いま――自分の槍に立ち向かっている。
「……エリゼ。」
呟きは、風に溶けて消えた。
空気が裂けた。
リオンが《蒼槍》を構えた瞬間、周囲の風が一点に吸い寄せられる。
断崖の谷が低く唸り、風が刃と化す。
次の瞬間――彼は地を蹴った。
「――ッ!」
蒼槍が奔る。真空の刃が生じ、灰の空気を切り裂いてエリゼへと突き進む。
彼女は寸前で《白哭》を地に突き立て、氷の壁を呼び出した。
だが、風がそれを粉砕する。
氷が破片となって散り、音もなく霧散した瞬間、衝撃波が断崖を震わせた。
エリゼの体が、宙に投げ出される。
落下――そう思われた刹那、
《白哭》の刃が風を掴んだ。
風が彼女を抱き留める。
氷の刃の周囲に、淡い蒼光の粒が浮かび上がる。
それは、羽根のような形をしていた。
「……まさか、風と同調しているのか……!?」
リオンの声が震える。
王家の風術士ですら、風を完全に制御することはできない。
風は律であり、誰にも従わぬ“自由”そのもの。
だが――エリゼはその風に寄り添っていた。
「風は敵じゃない。」
エリゼの声が、静かに響く。
その瞳は、過去を見ていない。いま、この瞬間の風を見ていた。
「あなたたちが、風を檻に閉じ込めたの。」
《白哭》が共鳴する。氷の刃に光が集まり、彼女の背に展開する。
氷片がひとつ、またひとつ、風に乗って舞い上がり――
やがて羽ばたくような形を取る。
それは“氷の翼”であり、同時に“風の証”。
リオンの瞳が見開かれる。
その光景は、まるで神話の一幕。
雪を赦した娘が、風に抱かれて舞い上がる――。
「……風翼……」
彼が呟いた名は、古き伝承の言葉。
“風と共に在る者”を意味する、禁忌の称号だった。
風が唸り、断崖が鳴る。
彼女は再び、空を駆ける。
リオンは槍を構え直し、その背を追った。
――風と氷、ふたつの律が交わる戦いが、いま始まる。
空が――鳴いた。
風と氷がぶつかり合った瞬間、世界の律がわずかに軋んだ。
《白哭》の刃が共鳴し、内部の結晶核が脈動する。
エリゼの胸に響く鼓動と、刃の鼓動が重なる。
――ドクン。
空気が蒼に染まる。
風が形を持ち、氷が呼吸を始めた。
その刹那、彼女の中で“二つ目の心臓”が目を覚ます。
《白哭》第二共鳴――《雪風》、覚醒。
ブレードが高く澄んだ音を放ち、
断崖全体に波紋のような風圧が広がっていく。
灰色の世界が一瞬、蒼白の光で満たされた。
「――いくよ。」
エリゼが囁いた。
足元に生まれた氷の滑走路が、空へと伸びる。
彼女は風を踏み、跳ぶ。
次の瞬間、風が翼の形を取り、彼女の身体を支えた。
それはもはや“滑走”ではなかった。
風そのものを踏みしめるように、彼女は宙を駆ける。
氷の粒が尾を引き、蒼い軌跡が空に描かれていく。
「――スカイグライド、起動。」
エリゼの声と共に、風が轟音を立てて弾けた。
滑走が飛翔へと変わり、彼女の姿は風の流れに溶け込んでいく。
下方で、リオンがその光景を見上げていた。
風を従えるはずの王太子の目が、驚愕と――どこか痛みを含んだ色を宿す。
「風を……越えた……!?」
彼の呟きに、上空のエリゼが微笑む。
氷の羽根がひとひら、彼の頬を撫でて散った。
「いいえ――風と、融け合ったの。」
その声は風に乗り、彼の胸を貫く。
断崖の上で、彼女はただ一人、蒼空の道を駆け抜けた。
リオンの槍が力なく下がる。
その瞳に宿るのは、敗北の色ではない。
敬意と――取り戻せぬ過去への、静かな哀しみ。
風が止み、空がひとすじの青を取り戻す。
――“雪を赦した娘”は、いま風の境界を越えた。
風が、静まった。
先ほどまで咆哮していた断崖の風が、いまは穏やかな吐息となって谷を撫でていた。
砕け散った風壁の残滓が光の粒となって漂い、灰の空を淡く照らす。
リオンは《蒼槍》をゆっくりと下ろした。
槍身に刻まれた風紋が消え、彼の手の中でただの金属の重みへと戻っていく。
その瞳は、遠く――蒼い空を駆ける一筋の光を追っていた。
それは、エリゼ。
彼女の滑走はもはや地のものではない。
風と溶け合い、自由そのもののように空を駆け抜けていた。
「……行くのか、エリゼ。」
リオンの声は、風に紛れて誰にも届かない。
ただその胸の奥に、彼女の言葉が響いていた。
――「私は、風を赦す。だから、あなたも――」
その優しい残響が、灰色だった彼の世界にひとすじの色を落とす。
リオンはゆっくりと目を閉じた。
風が頬を撫で、蒼いマントをわずかに揺らす。
その風は、もう冷たくはなかった。
「……赦す、か。」
呟きが零れ、彼の唇にかすかな微笑が浮かぶ。
その微笑は、敗北ではなく――決意の始まり。
風が再び、彼の背に吹いた。
その流れはまるで、エリゼが残していった道標のように、彼を前へと押し出していく。
「わかったよ、エリゼ。
お前が風を赦すなら――俺は、その風を守る。」
リオンは蒼槍を胸に掲げた。
砕けた風壁の欠片が彼の周囲に集い、ひとつの旋律を奏でる。
それは、彼と彼女の決別を包み込む“静かな誓い”だった。
谷を渡る風が、ゆっくりと形を変えていく。
灰ではなく、淡い青の流れに――。
やがて空の彼方、エリゼの光が霞の向こうに溶けていく。
その姿が完全に見えなくなるまで、リオンは微動だにしなかった。
彼の耳に、最後の風の囁きが届く。
――「風は、まだ終わらない。」
リオンは顔を上げる。
その瞳に、再び王太子としての光が宿っていた。
そして、彼もまた歩き出す。
次の風を、彼なりの答えで迎えるために。
空を裂く一閃――それは、風の形をした光だった。
エリゼは、断崖の果てを蹴り出す。
《白哭》の刃が風を掴み、氷片の翼がその背に広がる。
灰の世界を突き抜け、蒼の天を目指して――彼女は翔けた。
風が、彼女を追う。
雪が、彼女を導く。
重なり合うその軌跡が、空に一筋の光を描く。
それはまるで、世界の境界を越える祈りのように。
谷底に残る風術士たちは息を呑み、リオンはただその光を見上げた。
彼女の飛翔が、誰よりも美しい“誓い”であることを、彼だけは知っていた。
雲を突き抜けた瞬間、蒼の光が弾ける。
エリゼの《白哭》が淡く脈動し、第二の心臓――《雪風》が完全に覚醒する。
風と氷が一つに溶け合い、世界の色が変わる。
灰ではなく、透きとおる青。
その青は、まるで新しい空の始まりを告げるかのようだった。
> 「風が追う。雪が導く。
> その交わりが、空の誓いを紡ぐ。」
エリゼの影が小さくなっていく。
空の果て、淡く光る蒼天の境界へ――。
――そして、世界は再び動き出した。




