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《Snowboard Chronicle:Seven Hearts of Snow》 ――雪を嫌う悪役令嬢、世界を滑る。  作者: 南蛇井


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母の幻影

 断崖を吹き抜ける風が、唐突に質を変えた。

 いつもの軽やかな流れではない。重い。鈍い。

 エリゼの身体を包む空気が、まるで鉛のようにまとわりつく。


 滑走の速度を落とした彼女は、思わず息を呑んだ。

 目の前の世界が、白ではなく――灰に染まっていく。


 風が鳴らない。音が消えた。

 雪の光も届かない。

 ただ、断崖の上を覆う灰色の霧が、ゆっくりと渦を巻いている。


 エリゼは足を止め、《白哭》を支えに霧の中を見渡した。

 胸の奥がざわめく。

 ――ここは、覚えている。

 幼いころ、風の祈祷場へ連れて行かれた夜と同じ匂い。


 そのときだった。

 霧の奥から、かすかな呼吸音が聞こえた。

 風のない空間で、確かに誰かが「息をしている」。


 「……誰?」


 声を出すと、霧が震え、答えるようにさざめいた。

 そして、その中から――懐かしい声が囁いた。


 リュシア(声):「……エリゼ。

  また雪を、連れてきたのね。」


 瞬間、心臓が跳ねた。

 胸の奥が熱くなり、足がわずかに震える。


 「……お母さま?」


 霧がゆっくりと割れた。

 灰色の世界の中に、白い衣の影が浮かび上がる。

 肩までの金髪が風に揺れ、蒼い瞳がこちらを見つめていた。


 彼女の輪郭は淡く光を帯びて――それでいて、あまりにも現実的だった。

 風がその髪を撫でるたび、衣の裾がふわりと舞う。

 手を伸ばせば、触れられそうなほどに。


 それは――エリゼの母、リュシア・ヴァルトハイト。


 数年前に亡くなったはずの母が、いま、灰の霧の中で立っていた。


 エリゼの喉がかすかに鳴る。

 胸の奥から、言葉にならない感情があふれ出そうになる。

 けれど、声に出した瞬間、それが崩れてしまう気がして――

 ただ、静かにその姿を見つめていた。


 風が、母の幻影を撫でた。

 その動きひとつひとつが、痛いほど懐かしかった。


灰の霧の中――その人影は、まるで時を超えて現れたかのように、静かに立っていた。

 白い衣は風にたなびき、足元から舞い上がる灰を拒むように、冷たく澄んだ光を放つ。

 その姿を、エリゼは息を呑んで見上げた。


 「……お母さま……」


 灰の空を背に、幻影のリュシア・ヴァルトハイトがゆっくりと微笑む。

 表情は穏やかでありながら、瞳の奥には凍てつくような決意が宿っていた。

 その背後で、風の紋章が淡く輝く――まるでこの大地そのものが、彼女の意志を象徴しているかのように。


 リュシア(幻影):

 「お前は雪に触れた。その時点で、ヴァルトハイトの娘ではない。」


 その声は、懐かしいのに、痛いほど冷たい。

 風そのものが言葉を帯び、彼女の胸を貫いていくようだった。

 エリゼは唇を開くが、灰の風が声を奪う。


 ――まるで、あの頃と同じだ。

 幼い自分が泣いても、風がすべてをかき消してくれたあの日と。


 「……でも、あの日、雪が泣いてたの。」

 ようやく絞り出した言葉は、震えながら灰に消える。

 エリゼは俯き、しかし目だけは揺らさなかった。

 「あんなに綺麗で、冷たいのに……悲しそうだった。」


 リュシアの瞳が、微かに細められる。

 「雪に心などない。あるのは風の掟――秩序だけ。

  風は正義。雪はその正義を腐らせる。」


 その声に、かすかな哀しみが滲む。

 風を信じすぎた者だけが持つ、壊れそうな祈りの響き。


 エリゼは拳を握った。

 血の気が引くほど冷たい掌に、爪の痛みを感じる。

 (……お母さまは、風の正しさを信じた。

  でも、その秩序の中で、どれだけの涙が消えたんだろう。)


 霧の中で、二人の距離は変わらない。

 けれど、心の境界線だけが――少しずつ、軋み始めていた。

 風が止み、世界が一瞬、息を潜めた。

 灰の霧の中で、リュシアは静かにエリゼへ歩み寄る。

 その姿は、まるで氷の上に映る幻影のように揺らぎながらも、確かに“母”のぬくもりをまとっていた。


 「……エリゼ。」


 その声は、昔、眠る前に聞いた子守唄のように柔らかかった。

 伸ばされた指先が、エリゼの頬へと届く――その瞬間。


 ――風が哭いた。


 突風が断崖を貫き、霧の粒子が弾け飛ぶ。

 リュシアの姿が波紋のように揺れ、形を崩していく。


 リュシア(幻影):

 「お前の雪は、風を壊す。

  その先に待つのは、終わりだけよ……」


 その言葉は、諫めではなく、祈りに似ていた。

 風の掟に縛られた母が、それでも娘を案じるような――儚い声。


 エリゼは、唇を噛みしめて一歩、前へ出る。

 目の前で崩れていく幻を、まっすぐに見上げた。


 「ごめんね、お母さま。」

 その声は、灰の嵐に消えず、まるで風そのものを震わせた。


 「でも私は――風に逆らってでも、進む。

  雪と風、どちらも私の中にあるから。」


 その言葉が断崖に響いた瞬間、地が低く唸りを上げた。

 灰を巻き上げる風が螺旋を描き、母の幻影が光の細片となって砕け散る。

 白い粒子が舞い、まるで雪のようにエリゼの肩へと降り積もる。


 ――風と雪が、初めて交わった瞬間だった。


 次の刹那、彼女の足元に淡い光が走る。

 灰の地表に、古の紋章――《ヴァルトハイトの封印》が浮かび上がる。


 それは、風の掟を守り続けた大地が、

 “異端の娘”の覚悟に応えたかのような震動だった。


 空がうねり、遠雷のような音が響く。

 そして、エリゼの瞳に――初めて、確かな決意の炎が宿った。


 「風よ……見てて。私はもう、赦すために戦う。」


突如、空が唸った。

 次の瞬間、風祈堂の鐘が鳴り響く。

 その音は、断崖の岩肌を伝い、谷全体に低く反響した。


 ――ゴォォォン……ゴォォォン……。


 音が風に乗って広がるたび、灰の霧が震え、空気が重くなる。

 それは、ヴァルトハイト領における最も忌まわしい合図。

 異端者の帰還――その警鐘。


 エリゼは顔を上げた。

 灰霧の彼方、崖の向こうに蒼い旗印が翻っている。

 それは、王国の象徴――蒼翼の紋章。

 その中心に立つ影を、彼女は知っていた。


 王太子リオン。

 かつて婚約を交わし、共に未来を語った青年。

 けれど今、彼の風は――彼女を追うために吹いている。


 遠くで、馬の嘶きが響く。

 鋭い角笛の音が灰を裂き、王国騎兵の列が断崖を駆ける。

 鎧に刻まれた風の紋章が、鈍く光を放っていた。


 エリゼは息を整え、足を地に滑らせる。

 《白哭》を抜くと、刃が風を吸い込み、淡い氷光が走った。

 風が唸り、氷が鳴る。

 ふたつの力が、彼女の掌の中でぶつかり合う。


 「……来るのね。」


 灰の風が彼女の頬を打ち、髪を乱す。

 その感触は、かつての恐怖ではなく――覚悟の火を煽る刺激だった。


 エリゼ(心の声):

 「風が、また私を試す気ね。

  なら――追い越してみせる。」


 刃先が、風の線を描く。

 断崖を囲う風の音が、一瞬、静止した。


 そして――爆ぜるような突風。


 灰と光が交錯し、王国の旗がたなびく中、

 エリゼは《白哭》を構え、再び断崖を駆け出した。


 風が鳴る。灰が舞う。

 “灰風の領地”が、彼女の反逆を見届けようとしていた。

 ――轟音。


 断崖を這うように、風が爆ぜた。

 足元を走る古代の紋章が蒼く脈打ち、空気が歪む。

 風の律が目覚め、断崖の表層がひと筋の滑走路へと変わっていく。


 その軌跡はまるで、空へ続くきざはし

 灰色の世界に、ひとすじの“蒼”が走る。


 エリゼは息を吸い込み、刃《白哭》の柄を握り直した。

 風が彼女の背を押す。

 かつて拒絶された風――それが今、彼女の翼となる。


 そのとき、風を裂いて届いた声があった。


 リオン(遠くから):「エリゼ・ヴァルトハイト! その足を止めろ!

  お前の風は、王国を乱す!」


 彼の声は強く、真っ直ぐで、痛いほど懐かしい。

 エリゼの胸がわずかに震える。

 けれど――振り返らない。


 (……ごめん、リオン。

  でも、もう“従う”だけの風には、なれないの。)


 彼女の視界に、灰が舞い上がる。

 その中で、淡く光る影が一瞬浮かんだ。

 ――母、リュシアの幻影。


 リュシア(幻の残響):「……風を、赦してあげて。」


 その声は、灰よりも静かで、雪よりも柔らかかった。


 瞬間、エリゼの周囲の風が変わる。

 鋭かった流れが、穏やかに、優しく彼女の頬を撫でる。

 灰の粒がほどけ、そこにわずかに蒼の光が差し込んだ。


 ――風が、赦された。


 《白哭》の刃先が淡く輝き、

 氷と風の境界がひとつに溶けていく。


 エリゼは笑った。

 その表情は、風と雪の狭間でようやく見つけた――“自由”そのもの。


 「さあ、行こう。」


 次の瞬間、断崖を切り裂くように、彼女の滑走が始まる。

 灰色の世界を抜け、蒼の風が駆け抜けた。








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