《灰風の領地・ヴァルトハイト》
氷涙坂を越えた瞬間、世界が変わった。
白と蒼の静寂は遠のき、代わりに広がったのは荒々しい灰の断崖――。
空は濁った鉛色で、風が絶え間なく岩肌を削っている。雪は舞い降りることを許されず、風に砕かれては粉塵となり、空気の中で灰と混ざり合って消えていく。
岩壁には古びた碑文が無数に刻まれていた。
〈風を讃えよ、雪を拒め〉
――それは、ヴァルトハイト信仰の祈りの言葉。かつてこの地を支えた、風の神への絶対の服従。
谷間を渡る風笛の音が、今も微かに鳴っていた。
それは祈りの残響でもあり、呪いの囁きでもある。
エリゼは、足を踏み出した。
途端に、空気が変わる。
氷涙圏で彼女を抱いた柔らかな風が、ここでは刃のように鋭い。
頬を切るような冷気に、思わず息を詰める。
――拒まれている。
その感覚が、胸の奥で疼いた。
足元の雪は、もはや白くない。灰に染まり、冷たさではなく乾いた痛みを返してくる。
「……ここが、ヴァルトハイト。」
小さく呟いた声が、風に掻き消された。
故郷――それでも、どこか異国のように見える。
エリゼの瞳に、遠い記憶が浮かぶ。
幼いころ、母の前で雪を拾い上げただけで叱られた。
「雪は穢れだ」と言われ、風祈堂に閉じ込められた日のこと。
あのとき泣いても、風がその声を奪っていった。
今、その風がまた頬を撫でる。
懐かしくて、痛くて――まるで、彼女の帰還を拒むように。
彼女は目を細め、風の中に立ち尽くした。
灰色の空が低く垂れこめ、音もなく笛の声だけが鳴り続けている。
かつて祈りを捧げた風の地で、今はただ、風が彼女を試すように吹いていた。
エリゼは足元の雪面に目を落とした。
そこには、風の象徴である古い紋章が刻まれている。鋭い曲線が絡み合い、まるで風そのものが岩を裂いたような形。雪がその隙間に積もり、白と灰が交わる線を描いていた。
彼女はゆっくりと息を吐く。
吐息が淡く白く散り、すぐに灰の風に攫われて消えた。
「……ただいま、なのかな。」
声は、風に触れた途端に掻き消える。
この地の風は、懐かしくもあり、同時に冷たく痛い。
指先を撫でるたび、皮膚の下まで染み込むような拒絶の感触――。
「でも、この風はもう、私を知らない。」
小さく呟いたその瞬間、胸の奥がきしむように痛んだ。
瞼を閉じると、記憶が溢れ出す。
あの日も、雪が降っていた。
幼い彼女は、空から落ちてきた白い結晶を手のひらに受けた。
それは美しかった。ただ、それだけの理由で。
けれど――
「エリゼ!」
母の叫び。
振り向いたとき、その瞳には恐怖が宿っていた。
彼女はエリゼの手を叩き落とし、雪の上に跪かせる。
――“雪は穢れ。風を汚す罪。”
その言葉と共に、冷たい手が背を押し、祈祷場の扉が閉ざされた。
内側には、風の唸りと、泣きじゃくる自分の声。
けれどその声は、どんなに叫んでも風に呑まれて消えていった。
「……風は、誰の祈りを聞いてたんだろうね。」
呟きながら、エリゼは拳を握った。
その掌には、もう雪はない。
けれど、あのとき掴めなかった“何か”の形だけが、今も温かく残っている気がした。
断崖の地、ヴァルトハイト。
灰色の風が吹き荒れるこの領は、かつて“風の律”によって繁栄した場所だった。
しかし、ここでは雪が禁じられている。
理由は、古より伝わる一つの伝承――
“雪は風の死骸。
風を縛り、大地を閉ざす鎖。”
その言葉が、千年のあいだこの地の掟となった。
雪が降る日は、領民たちは空に向かって祈りを捧げる。
そして、灰を撒き散らすのだ。
“風を清めるため”と。
“穢れを溶かすため”と。
無数の祈祷台で火が焚かれ、灰が空へ舞う。
その灰が雪を覆い、やがて雪は地に届く前に消えてゆく。
――それが、この地における「正義」だった。
だが、風だけの世界は枯れていた。
大地は乾き、草花は芽吹かず、雲は音もなく裂ける。
風はただ灰を巻き上げ、空に虚ろな渦を描くだけ。
それでも人々は信じている。
“雪を拒むことこそ秩序。風こそが神。”
彼らにとって、雪を語る者は秩序を乱す異端者。
“祈りを失った者”として、名を奪われ、追放される。
ナレーションが、静かにこの地を包み込む。
――「風が止んだこの地で、雪は罪と呼ばれた。
雪を語る者は、祈りを失う者として追放されたのだ。」
その声は、まるで灰風そのもののように、空に滲んで消えていった。
断崖の縁に立つエリゼの足元で、灰がざらりと音を立てた。
見下ろす先――そこには、かつて彼女が閉じ込められていた“雪祓いの祈祷場”の残骸がある。
瓦礫と化した屋根、折れた祈祷柱、そして今も空へ昇り続ける白い煙。
それは、雪を“祓う”ために焚かれ続けてきた灰の煙だった。
その匂いは、懐かしく、そして苦しいほどに胸を締めつける。
――風が、泣いていたあの日の記憶。
エリゼは目を細め、ゆっくりと息を吐いた。
「……あの日、あの風が……泣いていたように思えたの。」
彼女の呟きに応えるように、風がざわめく。
断崖の岩肌を舐め、灰を巻き上げながら、荒々しく頬を打つ。
冷たくはない――けれど、痛いほどに突き刺さる風だった。
その流れの奥に、微かな声が混じる。
風に溶け、形を持たぬ、懐かしい響き。
――「戻れ、エリゼ。」
その一言に、胸の奥が軋む。
それは戒めか、願いか、それとも――母の声なのか。
エリゼは唇を噛み、視線を上げた。
断崖の向こう、灰色の空が低く垂れ込めている。
どこかで、風がうめくように鳴った。
まるでこの地そのものが、彼女の帰還を拒んでいるように。
エリゼが顔を上げた瞬間、灰色の世界にわずかな動きが生まれた。
断崖の向こう――重たい雲の切れ間に、王国の紋章旗が翻っている。
灰の風を切り裂き、ひときわ鋭く輝くその紋章。
中央に立つひとりの青年の姿が、彼女の視界を貫いた。
リオン・ヴァルトハイト。
かつての婚約者にして、“風を統べる王太子”。
そして、今のこの領を支配する“風律”の象徴。
その眼差しは、冷ややかに、けれどどこかで揺れていた。
彼女がかつて見た、優しい少年の面影は、風の彼方にかき消されている。
灰色の空が鳴った。
遠くから、角笛の音が風を裂いて響く。
やがて、崩れた風祈堂の鐘が共鳴するように鳴り、領全体がざわめきを上げた。
――異端の娘が帰ってきた。
その空気が、皮膚を刺すほどに張り詰めていく。
風の律法に背き、雪を赦した娘。
彼女の帰還は、この地にとって“穢れ”そのもの。
ナレーションが静かに重なる。
「雪を赦した娘が、風の国へ帰るとき。
その風は、祝福か――裁きか。」
エリゼは静かに右手を上げ、《白哭》の柄に触れる。
冷たい感触。けれどその刃は、微かに震えていた。
風がざわめく。
彼女の髪を撫で、雪の名残をさらうように流れていく。
――まるで、風そのものが、これから訪れる戦いを知っているかのように。
突風が、断崖の空気を裂いた。
灰が宙に舞い、視界がかき乱される。
その瞬間――風の中に、淡い光が立ち上がった。
灰と光が混ざり合い、ひとりの女の影を形づくる。
その姿は、かつてエリゼの幼き日を見守った母――リュシア。
けれど、その眼差しは、温もりではなく戒めの冷たさを湛えていた。
リュシア(幻影):「雪を赦した娘に、風の道は開かれぬ。」
その声が空気を震わせ、断崖そのものが共鳴する。
岩肌に刻まれた古き風の紋章が光を帯び、封印の輪が再び脈打ち始めた。
まるで、この地が“異端の帰還”を拒んでいるかのように。
風が唸り、エリゼの髪を乱暴に煽る。
灰が頬に当たるたび、幼い記憶が痛みを伴って蘇った。
あの祈祷場の冷気。
閉ざされた扉の前で、母の声をただ遠くに聞いていた夜。
だが――その震えは、もう怯えではない。
エリゼ(心の声):
「私はもう、あの頃の私じゃない。
雪も、風も、どちらも私の中にある。」
彼女の瞳に、決意の光が宿る。
幻影が風に溶けていく中、空の彼方で風祈堂の鐘が三度鳴り響いた。
――それは、“裁きの風”が解かれる合図。
断崖が震え、風が渦を巻く。
彼女の足元から立ち上る灰が、まるで彼女を試すように舞い上がった。
だがエリゼは、一歩も退かない。
白き刃《白哭》を握りしめ、その身を風に晒す。
次の瞬間、世界が動く。
風が牙を剥き、過去と現在がぶつかり合う。
そして――“断崖の試練”が、始まった。
エリゼは、灰嵐の中で静かに息を吸い込んだ。
胸の奥に、冷たくも確かな鼓動が響く。
そして――風のざわめきを断ち切るように、《白哭》を抜いた。
金属の澄んだ音が、灰色の空に響き渡る。
その刃先が空気を裂き、淡い氷光を放った。
氷のきらめきは風の粒と混ざり合い、白と灰が螺旋を描いて彼女の周囲に巻きつく。
それはまるで、彼女自身が“風の核”になったかのようだった。
遠く――。
断崖の向こうから、角笛が轟く。
王国の騎兵たちが列を成し、灰を蹴立てながら迫ってくる。
翻る旗印には、蒼の双翼――王太子リオンの紋章。
かつて誓い合った絆の象徴が、今は追討の印として風を切っていた。
その光景を前に、エリゼは微かに目を細める。
灰の風が頬を打つ。
それでも彼女の瞳は揺るがなかった。
エリゼ(低く、風に抗うように):
「……風が道を奪うなら。
私は、風ごと追い越す。」
次の瞬間――彼女は断崖を蹴り出した。
足元の岩が砕け、灰と光が爆ぜる。
《白哭》が軌跡を描き、風を裂き、氷の刃が滑走の軌道を刻む。
灰と風が交錯し、世界が一瞬、無音に沈む。
そして――エリゼの身体が、風そのものと化すように崖下へと滑り出した。
空気が裂け、光が尾を引く。
その姿はまるで、風の呪縛を断ち切る白い彗星。




