“氷涙の祈り”
氷涙坂の頂――
風が止み、静寂が降りた。
雪と風が穏やかに溶け合い、世界そのものが呼吸を忘れたかのようだった。
氷面の奥から、かすかな鼓動が伝わってくる。
それは先ほどまでの戦いの名残――氷の心臓《雪涙》の脈動。
淡い光が波紋のように広がり、蒼い氷壁をゆらめかせていた。
その中心に、エリゼとフィリアが立っていた。
ふたりの間に、もはや敵意はない。
吹雪の刃を交わしたあの頃の緊張は、今はただ、静かな祈りのようなものに変わっていた。
エリゼの瞳に映るフィリアは、氷の女王ではなかった。
雪を支配する者ではなく――雪を護ろうとする者の顔。
そして、フィリアの瞳に映るエリゼもまた、雪を拒んだ少女ではなく、雪を赦した風の使い手。
頭上では、薄いオーロラが流れていた。
その光が夜の名残を溶かし、氷の世界に柔らかな蒼を差し込む。
――世界が、息をしている。
エリゼは小さく息をついた。
白い吐息が空に消えていく。
その瞬間、彼女は思った。
あの吹雪の夜も、きっと雪は泣いていたのだと。
そしてその涙が、今、ようやく風に届いたのだと。
フィリアは、静かに微笑んだ。
その笑みはこれまでのような冷ややかな威圧ではなく、雪が陽に溶けるような、柔らかい温度を帯びていた。
彼女は胸の前で両手を組み、羽ばたくように氷の羽を散らす。
その光の粒が空に浮かび、雪と風の間を緩やかに舞っていく。
「あなたの滑走、きっと誰かを救う。」
フィリアの声は、氷よりも澄んでいた。
「雪を憎んだあなたが、雪を赦したように――
いつか、誰かも風を信じられる日が来るでしょう。」
その言葉は、まるで祝福のようだった。
エリゼは一瞬、息を呑み、それから小さく笑う。
「……救う、なんて。私は、ただ滑っていただけだよ。」
彼女の視線が足元のボード――《白哭》へと向かう。
雪面に立てかけられたそれは、まるで生き物のように淡い光を脈打たせていた。
ブレードの側面に浮かび上がるのは、複雑な紋様。
雪涙の紋――氷精たちの祈りと風の記憶が重なった証。
エリゼは手を伸ばし、その紋に触れた。
指先から伝わる脈動は、彼女自身の鼓動と同じリズムで震えている。
雪と風が、もう対立してはいない。ひとつの想いとして響き合っていた。
「……やっと、泣けるようになった気がする。」
エリゼは目を伏せ、微笑んだ。
「雪の上で、誰かを想いながら。」
彼女の頬を伝う涙が、雪面に落ちた。
その雫は凍ることなく、蒼い光となって《白哭》の刃へ吸い込まれていく。
やがて風が吹いた。
赦しの風――
雪と涙と祈りを乗せて、空の彼方へと流れていった。
フィリアは静かにその光景を見つめていた。
雪の結晶が風に乗って舞い、空の光を受けて溶けていく――
それはまるで、氷と風がようやく互いを赦し合ったような瞬間だった。
やがて、彼女は右手をそっと差し出す。
その掌の上に、ひとひらの氷の欠片が浮かび上がる。
欠片は淡い蒼を放ちながら、ゆっくりと羽の形を取っていった。
「雪は、あなたを見ている。」
フィリアの声は風のように柔らかく、しかし確かな響きを持っていた。
「風は、あなたを導く。
この空の果てに――“蒼天の境界”がある。」
その言葉に、エリゼは一瞬だけ目を見開いた。
胸の奥で、何かが熱く脈打つ。
それは恐れでも、悲しみでもない。
ただ、確かな“生の鼓動”だった。
彼女はフィリアの手に浮かぶ光の羽を見つめ、
短い沈黙ののち、ふっと笑みをこぼした。
「……だったら、もっと綺麗に滑らなきゃね。」
白い息が零れる。
それが風に溶け、音もなく渓谷を駆け抜けた。
エリゼは《白哭》を手に取る。
その刃のようなボードを、雪面へ軽く叩きつけた。
――キィンッ。
氷が共鳴するような音が響き、
雪面全体に光の波紋が広がっていく。
波紋はやがて螺旋を描き、
次なる空へと続く“道”のように呼吸を始めた。
風が、応えるように吹き抜ける。
その中でエリゼの髪が翻り、瞳に決意の光が宿る。
新しい旅の始まりを告げる風――
それは、雪の祈りと同じ温度を持っていた。
氷の渓谷に、静かな風が吹き抜けていた。
吹雪は止み、空は透明な蒼へと還っていく。
遠くから見れば――
世界の頂に、ふたりの小さな影が並んでいた。
ひとりは白き滑走者、もうひとりは雪の王。
その周囲を、光を孕んだ雪の粒がゆるやかに舞い上がる。
渓谷全体が呼吸している。
雪と風とが、まるで言葉を交わすように溶け合っていた。
やがて、雲の切れ間から差し込む一筋の光。
その先――遥かな空の彼方に、“蒼天の境界”が淡く輝いている。
まるで新しい世界が、ふたりを待っているかのように。
ナレーションが、静かに重なる。
「祈りは風となり、涙は雪となる。
そして、再びひとつの世界を描く。
――これは、まだ始まりにすぎない。」
フィリアはふと微笑み、エリゼの方へ目を向ける。
言葉はない。けれどその瞳には、確かな想いが宿っていた。
次の瞬間、彼女の身体が淡い光に包まれる。
氷の羽が広がり、光の粉となって空へ溶けていく。
――雪に還る祈り。
それは、静かで温かな別れだった。
残されたエリゼは、少しだけ寂しげに空を見上げ、
それから穏やかに笑った。
「……行くね、フィリア。」
彼女は《白哭》を雪面に置き、ゆっくりと身を傾ける。
風が応えるように吹き上がり、氷の粒がきらめく。
その背を押すのは、かつて拒んだはずの雪の風。
――そして、滑り出す。
カメラが引く。
蒼い氷谷を越えていく小さな影。
風の流れの中で、その姿は一筋の軌跡となり、
やがて“蒼天の境界”へと溶けていった。
最後に残るのは、世界を包む蒼の光と、
静かに流れ始める旋律――
《RE:DEFINE - HORIZON MIX -》
光がゆっくりとフェードアウトし、
画面が黒に沈む。
そして、ひとつの言葉だけが残る。
――「風と雪は、再び祈りを紡ぐ。」




