共鳴 ― “涙と雪の融合”
――風が、止んだ。
坂を登りきったその瞬間、世界のすべてが息を潜めた。
音が消え、白だけが残る。
エリゼの吐息が薄く散り、空へと溶けていく。凍てついた空は、硝子のように透き通っていた。
彼女は滑走の勢いを抑えながら、足を止める。
胸の鼓動が、自分以外の唯一の音。
《白哭》の刃が雪を踏みしめるたび、微かに光が跳ねた。
――そのとき。
上空の光の帳がゆっくりと裂けた。
氷の羽が、ひとひら、またひとひらと降り注ぐ。
その中心から、白銀の影が現れる。
光の中を滑るように、彼女は降りてきた。
雪の精霊――フィリア。
彼女の足元に雪の花が咲き、蒼い光が輪を描く。
「……終わった、のね。」
フィリアの声は、まるで凍りついた風の囁き。
その声音には怒りも勝利もなく、ただ深い静寂だけがあった。
エリゼは荒い息を整え、まっすぐに彼女を見上げた。
「いいえ。まだ……この雪の意味を、知らないの。」
その言葉に、フィリアの瞳がわずかに揺れる。
氷の世界に、わずかな温度が生まれたような気がした。
ふたりの視線が交わる。
そこに剣はなく、敵意もない。
ただ、“確かめ合う”ような、静かな緊張が漂っていた。
風は、まだ息をしていない。
けれど――雪が、わずかに鳴いた。
――静寂を破ったのは、たった一滴の音だった。
頬を伝い落ちたそれは、まるで氷が解けるように柔らかく、光を孕んでいた。
雪精の王、氷涙の姫フィリアが涙を流すなど、本来ありえない。
彼女の涙は凍てついた祈りであり、決して温もりを持たぬはずのもの。
だが――。
その雫が雪面に触れた瞬間、世界が淡く脈打った。
氷の結晶が呼吸をはじめ、坂の上に細波のような光が走る。
「……どうして、その涙、温かいの?」
フィリアが小さく呟いた。声は震え、吐息は白い花となって散る。
エリゼはそっと頬に手を当てた。
自分の指先が濡れているのを感じる。
「わからない。でも……雪が泣いてる気がして。」
その言葉に、空気が揺れた。
エリゼの頬を伝う雫が、フィリアの涙と空中で交わる。
光が弾け、氷面に小さな渦を描く。
渦はやがて形を持ち、淡い蒼の光を灯しながら――“心臓”をかたどって脈動を始めた。
雪が、生きている。
氷が、呼吸している。
そして二人の涙が、その鼓動の音を生み出していた。
風が戻ってくる。
まるで祝福するように、柔らかく二人を包み込んだ。
――鼓動が、聞こえた。
氷面の下。
深く、遠く、まるで大地そのものが心臓を持ったかのように。
低く、確かな音が、世界の底から響いてくる。
氷の層が透き通り、内部の光がゆっくりと脈を打った。
淡く青いその輝きは、冷たさではなく、あたたかさを孕んでいた。
それは、氷精たちの祈りが結晶したもの――
この地に眠る最初の心臓、《第一層・雪涙》だった。
風が息を吹き返す。
雪片が舞い、光を纏いながら空へと昇る。
それは涙の代わりに空へ捧げられる、無数の祈りの欠片。
「雪が冷たくないと知ったとき、
彼女の心は、はじめて風とひとつになった。」
精霊たちの声が、風の中からささやく。
「……あたたかい……」
「これが、涙……」
「雪が、呼吸している……」
その声は、かつての敵意とはまるで違っていた。
静かで、柔らかく、まるで祈りのよう。
周囲の氷壁が音もなく溶けていく。
流れ出した光が天へと昇り、青白い柱となって空を貫いた。
雪の大地そのものが、ふたりの涙に応えている――そう思えた。
エリゼはそっと目を閉じ、風に身を委ねた。
冷たさが、痛みではなく、やさしさとして頬を撫でる。
その瞬間、彼女の胸の奥で、何かが静かにほどけた。
――雪と風、そして心。
それらが、いまひとつに溶け合っていた。
光に包まれた氷面の上、
フィリアはしばらく何も言わずに立ち尽くしていた。
雪の輝きがその頬を照らし、青い瞳の奥に柔らかな揺らめきが生まれる。
――もう、裁きの表情ではなかった。
彼女はゆっくりと微笑む。まるで長い夢の終わりに辿り着いたように。
「……あなたの風、確かに祈ってたのね。」
その声は風に溶け、雪の粒と混ざり合う。
エリゼは微かに息を吐き、頷いた。
「うん。雪も、きっと同じ風の中にいたんだ。」
彼女の瞳に映るのは、もう敵でも試練でもない。
ただ、同じ祈りを分かち合う者の姿だった。
ふたりの背後――
氷精たちが光の粒となって舞い上がる。
そのひとつひとつが雪片のように煌めき、
空高く昇りながら蒼い光に溶けていく。
「それは赦しの風。
争いのあとにだけ吹く、再生の息吹。」
やがて、空から舞い戻る光の粉がふたりの肩に降り積もった。
冷たいはずの雪が、不思議とあたたかい。
それは精霊たちの“赦しの雪”――
痛みも憎しみも包み込むような、静かな祝福だった。
フィリアは空を見上げながら、囁く。
「……雪は、泣いてたのね。」
エリゼも同じ空を見つめ、そっと笑った。
「でも、いまは笑ってる。」
雪が風に乗り、ふたりの間を通り抜ける。
それはもう、冷たくなかった。
氷涙坂が、まるで大地そのものが息をしているかのように脈を打った。
蒼と白の光が交互に走り、氷の層が柔らかく波打つ。
――それは生きている。
この坂が、雪が、風が、祈りの記憶を宿して脈動している。
エリゼは《白哭》を雪面に立て、静かに目を閉じる。
風が彼女の髪を撫で、雪が頬に触れる。
どちらも、かつて彼女にとって“冷たいもの”だった。
けれど今は――あたたかい。
「風が祈りを運び、雪が涙を受け止める。
その循環こそが、命の始まりだった。」
氷面の上に立つふたり。
フィリアはゆっくりとエリゼに歩み寄り、
その視線に、もはや隔たりはなかった。
彼女の指先が、雪を掬い上げる。
その雪は光を孕み、やがて空へと昇っていく。
風とともに、白い螺旋を描きながら。
エリゼの瞳が開く。
その中には、風の色と雪の光――ふたつの世界が溶け合っていた。
「憎しみの果てで見つけたのは、終わりではなく始まり。
祈りと風と雪が、いまひとつになる。」
画面がゆっくりとフェードアウトしていく。
最後に映るのは、ふたりの涙が光の雫となり、氷面の“心臓”へと吸い込まれていく光景。
淡い鼓動の音が、静かに響く。
――その脈動が、次なる章へと続く。
《RE:DEFINE - HORIZON MIX -》




