試練 ― “氷涙の坂”
光がゆっくりと収束していく。
眩い閃光の中、エリゼの身体がふっと浮かび、次の瞬間――足元に硬い感触が戻った。
そこは、蒼と白だけで満たされた世界だった。
視界のすべてが凍りついた硝子のようで、風の音さえも透き通って聞こえる。
遥か先に、天へと続くように傾斜した巨大な坂がある。
それが“氷涙坂”。
息を吐くと、白い霧が一瞬で凍り、きらきらと砕け散った。
風が泣いている。
まるで、この地そのものが生きているように。
「ここは雪精たちの祈りが形を成した坂。
誰の足跡も許さない、絶対零度の試練。」
足元の氷が、かすかに脈動しているのがわかる。
それに呼応するように、《白哭》が淡い光を放った。
刃のように鋭いそのボードが、まるで呼吸をしているかのように微かに揺れる。
――雪の声が、聴こえる。
エリゼはそっと膝をつき、掌で氷面をなぞった。
冷たさが皮膚を貫き、心臓の奥にまで届く。
けれど、その痛みは不思議と懐かしい。
「……ここが、雪の心臓――。」
彼女の呟きに応えるように、氷原の奥で微かな光が瞬いた。
その光はまるで“目”のように開き、静かにエリゼを見つめ返していた。
一歩、足を踏み出した瞬間――世界が牙を剥いた。
轟音とともに、坂の上から逆風が吹きつける。
それはただの風ではなかった。
細かい氷の粒が鞭のように肌を打ち、頬を裂き、息を奪っていく。
視界は白に染まり、前も後ろも分からなくなる。
「ここで立てぬ者は、雪に拒まれた者。
風に認められぬ者は、祈りに触れることさえ許されない。」
風の流れの中から、無数の声が聞こえた。
氷精たちの囁き――それはまるで、心の奥を刺す刃のようだった。
氷精たちの声:
「戻れ……」
「雪を拒んだ者……」
「風を汚した者……」
エリゼは唇を噛み、前傾姿勢のまま《白哭》を押し出す。
だが、ボードが悲鳴を上げるように軋み、滑り出した途端に逆風が叩きつけた。
進もうとするたびに、身体が押し戻される。
氷の壁に跳ね返され、息が詰まる。
――まるで、雪そのものが彼女を拒んでいる。
その瞬間、頭の中に閃光のような記憶が走った。
雪に奪われた人。
凍てついた夜、耳を裂いた悲鳴。
あのとき、自分が吐き捨てた言葉。
――「もう、雪なんて見たくない。」
心の奥で何かが軋み、ボードと共鳴して震えた。
《白哭》の表面に、淡いひびが走る。
それでも、彼女は立ち上がる。
風はなお、叫んでいた。
彼女を拒み、試し、そして――見ていた。
風の轟きの中に、澄んだ声が混じった。
それはどこかで聞いた旋律――氷の歌の響き。
だが今は、祈りではなく“裁き”として降り注ぐ。
フィリア:
「雪を拒む心で、この坂を登れるものか!」
声は天上から降り、氷そのものを震わせた。
渓谷全体が彼女の意志と同調し、白銀の世界が咆哮する。
逆風はさらに荒れ狂い、氷の粒が刃のように渦を巻く。
エリゼは思わず身を屈める。
腕を覆う布が裂け、冷気が皮膚に突き刺さる。
立ち止まれば――たちまち凍りつく。
「風は、彼女の敵ではない。
だが、心が凍れば、風は永遠に遠ざかる。」
彼女は顔を上げた。
その瞳には恐れよりも、確かな炎が宿っている。
エリゼ(息を荒げながら):
「……雪に嫌われても、構わない。
でも――止まるのは、もっと嫌。」
唇から漏れた息が、白い祈りのように空へ舞い上がる。
凍てつく風の中で、その一瞬だけ、光が脈打った。
フィリア(遠くで、かすかに):
「……なぜ……その目は、凍らないの……?」
氷の観測者が呟いたその言葉は、
祈りにも似た、ほんの微かな戸惑いを孕んでいた。
風の流れが一瞬、止まった。
白銀の坂の上に、もう一人の自分が立っていた。
影ではない。幻でもない。
氷が形を取り――“過去のエリゼ”が、彼女を見つめていた。
その瞳は、痛いほど澄んでいる。
けれどその奥にあるのは、確かな拒絶だった。
幻影のエリゼ:
「雪は奪うだけ。
笑う人も、約束も、全部凍らせていった。
……なのに、どうしてまだ滑れるの?」
声は鋭く、風よりも冷たい。
それは他人の問いではない。
彼女自身がずっと心の奥で押し殺してきた“叫び”だった。
エリゼ(かすかに微笑んで):
「……わかってる。
憎んでる。でも、止まりたくないの。」
幻影は静かに首を振る。
その仕草には、哀れみと嘲りが混じる。
幻影のエリゼ:
「じゃあ、凍えなさい。
雪を赦すこともできず、風にも届かず――ここで消えるの。」
氷の幻影が手を伸ばし、彼女の胸に触れた瞬間――
心臓がきしむように冷えた。
世界の音が遠のき、呼吸さえも白く止まりかける。
「憎しみは氷。
それは風の敵ではなく、ただの影。
けれど、その影を抱いたままでも――
彼女は、風を選んだ。」
エリゼは拳を握り、胸に触れた氷を砕くように叫んだ。
エリゼ:
「雪を嫌いなままでいい!
でも、それでも――前に進む!!」
その瞬間、氷の幻影がひび割れ、
風が一気に吹き抜けた。
氷涙坂の上に、再び“風の道”が開かれていく。
氷の風が泣く。
けれど――それは、もはや拒絶の音ではなかった。
エリゼは静かに立ち上がる。
足元の氷が、彼女の決意を受け止めるように微かに鳴いた。
《白哭》を雪面に当て、息を整える。
ひとつ、深く――空気を吸い込む。
エリゼ(心の声):
「……行こう。
雪を赦すために。
風と、一つになるために。」
次の瞬間、《白哭》が光を放つ。
氷を蹴り、雪を割り、彼女の身体が坂を翔け出した。
足元で氷が砕け、音の粒が宙へ舞い上がる。
風が髪を掠め、頬を打つ。
それは痛みではなく――生きている証。
速度が増すにつれ、世界の色が混ざり合っていく。
蒼、白、透明、そして淡い虹。
それらが一つの線となって、彼女の軌跡を描いた。
「彼女は滑る。
雪を赦すために。
風とひとつになるために。」
幻影たちが次々と溶けていく。
過去の自分たちが、風の中に散り、雪と共に消えていく。
そのたびに、胸の奥で凍っていた悲しみがほどけていった。
頬を伝うのは、あたたかな滴。
――その涙は、凍らなかった。
光が坂を満たし、風が歌い始める。
それは氷涙圏が初めて放つ“歓喜”の旋律だった。
雪も風も、今だけは、彼女と共に――滑っていた。
世界が、音を取り戻した。
坂の頂で、まばゆい光が炸裂する。
氷面が震え、無数の結晶が共鳴するように歌い出した。
それは悲鳴ではなく――歓声だった。
風がやさしく渦を巻き、精霊たちの声がその中で響く。
氷精たちの声:
「……泣いた。あたたかい涙……」
「凍らない……風の涙だ……」
エリゼは、息を切らしながら空を見上げた。
蒼と白の狭間、透き通る光の中に――フィリアがいた。
その氷の羽がわずかに震え、彼女の瞳が驚愕に揺れる。
フィリア(小声で):
「……凍らない、涙……?」
エリゼの頬を伝う雫が、ゆっくりと落ちる。
それは冷たくもなく、熱くもなく――ただ、やさしかった。
氷面に触れた瞬間、波紋のような光が走る。
氷涙坂全体が脈動し、心臓の鼓動のように明滅する。
雪が光を帯び、渓谷全体が息づいた。
それは、長い眠りから覚めるような“再生”の鼓動。
「雪は祈りを取り戻した。
その鍵は、凍らない涙。
そして――ひとりの滑走者の心だった。」
フィリアの頬にも、一粒の雫が流れた。
それが氷の羽を伝い、光となって散る。
雪の中に、初めて“あたたかさ”が宿った。
風が、静かに止まった。
世界から音が消え、ただ雪の光だけが息づいている。
エリゼは滑走の余韻を残したまま、氷涙坂の頂で立ち尽くしていた。
息を吸い込み、ゆっくりと空を仰ぐ。
凍てついた蒼空に、無数の光の粒が舞い上がっていく。
それは氷精たちの祈りの欠片――彼女の涙に応えるように、空へと還っていった。
エリゼ:
「……雪は、泣いてたんだね。」
彼女の声は、風よりも静かで、けれど確かに届いた。
「彼女は知った。
雪は拒絶ではなく、祈りの形。
風は破壊ではなく、赦しの道。
どちらも、同じ空を見上げていた。」
ゆるやかに、空が再び凍りはじめる。
青白い光が渓谷全体に満ち、雪の粒が呼吸するように輝いた。
エリゼはその光の中で、ほんの少しだけ笑う。
――風と雪。
祈りと罪。
その境界で、彼女はようやく“ひとつの答え”に触れた。
カメラがゆっくりと引いていく。
氷涙坂の上で佇むエリゼの姿が、次第に小さくなる。
遠く、光の鼓動が雪原を包み込む。
最後に、白一色の光が世界を満たす。
そして――暗転。
ただ一筋の風の音が残り、
それが、祈りの余韻となって消えていった。




