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《Snowboard Chronicle:Seven Hearts of Snow》 ――雪を嫌う悪役令嬢、世界を滑る。  作者: 南蛇井


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プロローグ/白祈の空に灰が降る

 冬の正午。

 空はまるで鈍く曇った鏡のようだった。

 雲の奥で光が息を潜め、灰をまぜた雪――〈灰雪スモークスノウ〉が、

 音もなく落ちてくる。


 一粒一粒が、冷たく、重い。

 落ちた瞬間、白い石畳に黒い痕を残していく。

 それはまるで、世界が少しずつ腐っていく印だった。


 王国アルヴェルドの首都・白祈広場。

 かつて「雪神リュミナ」への感謝祭が行われた聖なる場所は、

 今や罪人を裁く断罪の舞台となっていた。


 広場の中心、

 白い大理石の柱の上に、ひとりの少女が立っている。

 両腕を縛られ、黒衣に身を包み、雪の中で静かに俯く。


 名を、エリゼ・ヴァルトハイト。

 “雪を嫌う令嬢”と呼ばれた、王国でも奇異な娘。

 その身に下るのは――〈雪神への冒涜〉という罪。


 風はない。

 灰雪だけが、まるで落下をやめられない魂のように、

 彼女の肩へ、頬へ、静かに降り積もっていく。


「白の中の、ただ一滴の黒。

 灰雪が舞うたび、少女の肩を焼くように汚していく。」


 群衆は彼女を取り囲んでいた。

 雪の民、貴族、兵士、聖職者。

 けれど、誰も雪を見上げようとはしない。

 まるで雪そのものが、神の怒りであり、目にしてはならぬ穢れであるかのように。


 息を潜めた広場に、

 遠くの鐘楼が低く三度、鳴り響いた。


 ――ゴォン。ゴォン。ゴォン。


 白祈教堂の鐘。

 それは「罪の鐘」と呼ばれていた。

 鳴った瞬間、すべての希望が止まり、

 人は雪に祈り、誰かが雪に埋もれる。


 少女は、顔を上げた。

 鈍色の空を見上げるその瞳は、凍りついた湖のように澄んでいた。

 そこに恐れはなく、ただ――静かな諦観だけがあった。


「……きれいね。灰が混ざると、雪も少し、人間らしく見える。」


 唇がわずかに動く。

 誰もその言葉を聞いてはいない。

 ただ、雪だけが彼女の呟きを受け止め、

 ゆっくりと、彼女の周囲で渦を描いた。


 やがて、吹かぬはずの風が、ほんの少しだけ揺れる。

 その一筋の空気のざわめきが――

 止まった世界のどこかに、確かに“動き”を刻んでいた。


鐘が鳴り終わると同時に、

 広場にいた千を超える声が、ひとつの波になって押し寄せた。


「雪を汚した女だ!」

「神の足跡を滑った!」

「滑る者は、落ちる者!」


 怒号。祈り。呪詛。歓喜。

 それらが混ざり、白い雪原の上で黒い渦を描く。


 足音が響く。

 靴が雪を踏むたび、乾いた「ザクッ」という音が空気を切り裂く。

 それはもはや言葉ではなく、

 “恐怖”そのもののリズムだった。


 ――彼らは雪を恐れている。


 けれど、その恐怖を「信仰」と呼ぶために、

 誰かを焚かなければならない。

 その“誰か”が今日、たまたま彼女だった。


 エリゼは、ただ静かにそれを見ていた。

 群衆の波を。

 雪を避けるように傘を広げ、白い息を震わせる彼らを。


 やがて、音が遠のく。

 人々の叫びが、霧の奥へ沈んでいくようにフェードアウトしていく。


 カメラはゆっくりと引いていく。

 そして、ただ一粒の灰雪が、

 彼女の頬に触れた瞬間――世界は、静止した。


 冷たさが、時の針を止める。

 彼女は目を閉じ、微かに唇を動かした。


「……冷たい。昔より、ずっと。」


 雪の国は、灰に汚れた。

 信仰は形骸となり、純白は恐怖の象徴になった。


 けれど――この冷たさの奥に、

 まだ確かに、“風”が生きている気がした。


 彼女の頬に残った雪片が、

 ほんの一瞬、光ったように見えた。


 世界は白と灰のモノクローム。

 群衆は影のように揺れ、

 彼女だけが、確かな輪郭を持って立っていた。


 まるで、世界で唯一“動こうとする者”であるかのように。

 静寂を切り裂くように、

 白衣の祭司が前に進み出た。


 雪に沈む白祈広場の中央。

 祭司の足跡だけが、鮮やかに残っていく。

 まるで世界で唯一、“雪を踏むことを許された者”のように。


 彼は古びた巻物を開き、

 声を張り上げた。

 その声は鈍色の空の下、鐘のように重く響く。


「この者、エリゼ・ヴァルトハイト。

 王家の血を汚し、禁滑の教えを破り、

 雪神リュミナの聖域に滑走を試みた罪により――断罪する!」


 その瞬間、

 背後の雪神像が、灰雪を被って鈍く光った。

 女神の顔は雪に覆われ、表情は見えない。

 ただ、その冷たい沈黙が、すべての言葉を肯定しているようだった。


 群衆の中から、ひとつの白い石が飛んだ。

 それが、彼女の足元に当たり、砕ける。

 砕けた欠片が灰を散らし、冷たい風に乗って舞い上がる。


「雪を汚した悪女を焚け!」


 それを皮切りに、

 次々と石が飛び交った。

 けれど、エリゼは一歩も動かない。

 痛みも恐怖も、どこか遠くの音のようだった。


 彼女はゆっくりと顔を上げる。

 灰雪の空の向こうに、

 太陽とも月ともつかぬ光輪が、ぼんやりと浮かんでいた。


 それはまるで――

 “世界の呼吸”が止まった証のように。


 息を吸う。

 雪の匂いがする。

 灰と氷の混ざった、乾いた匂い。


「……世界は止まっている。」


 彼女のモノローグが、風に溶ける。


「誰も、雪の上を歩こうとしない。

 雪は滑るもの――だから、怖い。

 でも、それだけ?」


 群衆の喧騒が遠のき、

 鐘の音も、祭司の声も、すべてが雪に吸い込まれていく。



 ただ、灰雪だけが、ゆっくりと降り続けていた。


 その落ちる速度だけが、

 この世界で唯一、時間の存在を証明していた。




時間が、止まっていた。


 灰雪の粒が、空中で浮かんでいる。

 群衆の表情も、祭司の口も、すべてが凍りついたように静止していた。


 その中で、ただひとつ――

 エリゼの瞳だけが、ゆっくりと動いた。


 カメラが彼女の顔にズームしていく。

 瞳の奥で、雪の粒が“逆流”する。

 上へ――まるで時間が巻き戻されるように、白が黒を突き抜けて舞い上がる。


「怖かった。

 雪を見ると、心が止まる気がした。

 でも今は――」


 唇が、微かに笑う。


「止まっているのは、世界の方だとわかる。」


 その瞬間――音が、戻った。


 最初は、かすかな風の音。

 続いて、雪が擦れる細やかな囁き。

 そして、ひとすじの髪が、頬をかすめて舞い上がる。


 風が、彼女を見つけたのだ。


 エリゼの黒衣が揺れ、

 灰雪の粒が、彼女のまわりで螺旋を描く。


 まるで世界が、彼女の“呼吸”に合わせて動き出したように。


 群衆は息を呑んだ。

 誰もがその異変を目撃していながら、誰も動けなかった。


 風は、囁くように告げる。

 ――まだ、終わっていない。


 エリゼは瞳を細め、空を見上げる。

 灰雪の向こう、遠くに光輪が揺らめいた。


 それはまるで、

 彼女に“滑れ”と囁く、見えない何かの合図だった。

教会塔の上で、鐘の鎚がゆっくりと持ち上がる。

 雪を被った鉄の表面が、鈍く光を返す。


 ――そして。


 最初の一打が、空を裂いた。


 ゴォン――。


 重く、深く、沈むような音。

 その響きが広場全体を包み込んだ瞬間――


 世界は、止まった。


 雪の粒が、空中で静止する。

 群衆の瞳も、怒号の口も、祭司の手も、すべてが動かない。

 風も息も、音も。

 まるで、世界そのものが“停止”という命令を受け入れたように。


 ただ一人、エリゼだけが、

 髪を揺らしていた。


 風が、彼女だけを選んで通り抜けていく。

 黒い髪の糸が、ゆるやかに舞い上がり、静止した雪をかすめた。

 その軌跡が、白と灰の空に細い軌道を描く。


「あぁ……また風が、呼んでる。」


 彼女が小さく呟いた。

 声は誰にも届かない。

 届く必要もなかった。


 ――世界は無音。


 鐘の余韻すら、雪に吸い込まれた。

 音という概念が、存在しない空間。


 そこで、ただひとつ。

 彼女の胸の奥から、低い鼓動が響いた。


 ドクン――。


 止まった時の中で、唯一、動いている“音”。

 それが、世界の静止を破る最初の合図だった。


「その瞬間、雪は止まり、心が動き始めた。」


 灰雪が、ゆっくりと、再び落ち始める。

 ひと粒、またひと粒――。

 重力が帰還し、空気が震え、

 止まっていた世界が、再び呼吸を取り戻す。

――灰雪が、舞っていた。


 風が再び世界を撫でると、

 止まっていた雪片たちがゆっくりと落下を始めた。


 カメラが、ゆっくりと上昇する。

 視点は地上から離れ、広場全体を俯瞰していく。


 白祈広場。

 その中心に立つ黒衣の少女。

 周囲を取り囲む群衆は、灰の中の彫像のように凍りついている。


 空から見下ろすと、

 灰雪はひとつの“渦”を描いて降っていた。

 螺旋状に回りながら、広場、断罪台、教会塔を飲み込み、

 ゆっくりと、世界の輪郭を溶かしていく。


 その奥――

 地面の雪面が、かすかに光を帯び始めた。


 氷が鳴る。

 低く、鈍い音。

 それは“氷の悲鳴”とも、“何かが目を覚ます音”ともとれる。


 ――《白哭はっこく》の共鳴前兆。


 雪面の光は次第に広がり、

 まるで心臓の鼓動のように、淡く脈動を始めた。


「その日、世界の雪が――わずかに、動いた。」


 ナレーションのような声が、

 風の中に溶けて消える。


 カメラがさらに上昇。

 灰色の空と白い地平がゆっくりと混ざり合い、

 視界は完全な“無色”へと溶けていく。


 ――そして、暗転。


 遠くで、誰かの馬蹄音が鳴った。

 銀を叩くようなその音が、

 次の物語の幕を、静かに叩き始めていた。





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