「東洋一」のその後
◆明日に架ける橋
現住所(徳島県三好市)の近くにはかつて「東洋一」と謳われた観光名所があった。
一つは、三好橋である。一九二七年(昭和二)の完成当時、吊り橋としては東洋一とされた。
四国三郎・吉野川の中流域、南北の流れが東に向きを変える手前に架けられた。長さ二四〇メートルあまり、幅約六メートルながら、渡し舟で渡河し、増水した川で事故が絶えなかった地域住民にとっては、待望久しい橋だった。
◆往時には観光コース
橋は今流にいえば、観光資源にもなった。観光バスはもちろん、国鉄(現JR)三繩駅にも近く、見物客でにぎわった。
東洋一の座がいつまで続いたかは不明だ。それどころではなくなったのである。一九八七年(昭和六二)命綱であるメインケーブルの破損が発見された。急きょ、アーチ橋への架け替え工事が進められ、翌々年、現在の姿となった。
それにしても、川は怖い。
西日本豪雨(二〇一八年)の際、何か役に立てることがあればと、対岸の避難所へボランティアを申し出た。三好橋の下では激流が渦巻いていた。足がすくんだ。その帰り、あれほど三好橋を長く感じたことはなかった。
◆紅葉と名水で売り出し
もう一つの東洋一は「龍ケ岳」である。
吉野川の支流・祖谷川のさらに支流・松尾川の中流部にある。約六〇〇メートルの断崖が二キロ余にわたって続く。ここの紅葉の見事さが、その大絶壁と共に、東洋一とされた。
それだけではない。後年、龍ケ岳の対岸に湧き出る水が名水とされ、遠く県外からも水を汲みに来るほどになった。
龍ケ岳のことは時おり聞かされて育った。松尾川と祖谷川の合流地点に設けられた学校を卒業した割には、馴染みがなかった。通学路は険しい山肌を拓いて抜かれ、常に谷底に転がり落ちる危険と背中合わせだった。秋には周囲の山々が、目の覚めるような赤や黄色に紅葉した。わざわざ龍ヶ岳まで出向く必要はなかったのだ。
◆謎は解けた
長い都会生活の果てにUターンし、故郷の魅力再発見も兼ねて、妻と例の名水を汲みに行った。
香川ナンバーの先客がいて、軽トラの荷台いっぱい大きなポリタンクを積んでいた。ずいぶん待たされた。眼前の断崖絶壁を見ていても、大した感動はなかった。
その理由が最近、判明した。
「昔は見事な紅葉だったのよ。それを、パルプ(製紙原料)にするために、木を伐り出したんだから」
と語る婦人は、龍ケ岳の上流にある集落で育った。地元の人は眉をひそめていたのだ。
「木をいっぱい積んだトラックが、ひっきりなしに通ってたよ」
と、仕事で往来していた老人は呆れた口調だった。
◆人工と自然
伐採は、筆者が中学を卒業して、故郷を離れた後のことだ。龍ヶ岳の紅葉はそれまで、東洋一の座にあったことは、間違いない。
橋などの建造物は劣化を免れない。加えて、後から後から凌駕するものが作られ、やがては見向きもされなくなる運命にある。
それでも、三好橋には人とクルマが行き交っている。栄光の座から陥落はしても、当地では現役。なくてはならない存在だ。
しかし、自然は別物である。
龍ヶ岳は、太古からの時の流れが造形したものだ。下手に手を加えなければ、オンリー1として、感動を与え続けたはず。なんとも、償い難い罪を犯してきたものだ。
(注:画像は生成AIによる。龍ヶ岳とは無関係)




