2話 ひとつの真実だけで
2.01
「世界は実は5分前に始まったのかもしれない……」
「偽の記憶を植えつけられた状態で……」
だとすると、人の記憶にいったいどれだけの意味があるのだろうか。それでも、僕の世界は今から5分前に確かに始まった。まるで、誰かの読みかけの小説。栞が挟まれたそのページから。
2.02
眼前が白い。背中に重力を感じ、それが天井だと初めて気付く。首を左右に動かしても色彩に変化はない。間近に視線を移す。それでも白い。
「これはシーツか? それに身に着けている衣服も」
ようやく聴覚も活動を開始する。
「軋む音?」
どうやら僕は、病院のベッドで目を覚ましたようだ。
2.03
少しずつ機能を取り戻すつもりだった僕の耳につんざくような騒音が鳴り響いた。知らない女性がベッドの傍らで声を出して泣いているのである。けれど、この女性が自分にとってかけがえのない存在であることだけはすぐに理解できた。そんな彼女が僕を信人と呼ぶのだから僕は信人なのだろう。
2.04
不意にベッドの正面に配置された鏡に映った姿が自分だと気付く。ひどく痩せ細ってはいるが、おおよそ中学生くらいだと推察できた。彼女との年齢差を考えれば。
「お母さん」
口の周りの筋肉を使うのは初めてである。思うように動かなかったがどうやら通じたようだ。
「ママのことが分かるの?」
2.05
僕は4年前、自宅のリビングで気を失っているところを帰宅した彼女に発見され、すぐに救急車で近くの病院に運び込まれたらしい。命に別状はなく、すぐに目を覚ますだろうとの診断で、そのまま一泊入院することになったそうだ。しかし、翌日になっても意識は戻らなかった。
2.06
そこから先は検査、検査の毎日。病院を転々とするも原因は全く解明されず現在に至ったのだという。そして、ついに先日、主治医から最後通告を言い渡されたのだ。もう意識が戻ることはないだろう。万が一目を覚ましたとしても記憶は全て失われているだろうと。
2.07
「ママ、心配かけてごめんなさい。でも、大丈夫だから。僕、全部覚えてるから」
僕は彼女に対する二人称を少しわざとらしく訂正した。この瞬間を逃したら一生この秘密を一人で抱えて生きていくことになると悟ったからだ。しかし、僕の母親と思われる女性がそれに気付くことはなかった。
2.08
おのれが何者であるのか理解できない。不安、恐怖、絶望、様々な感情が僕の内側から襲いかかってくる。しかし、この女性を悲しませてはいけない、幸せになって欲しいという願いだけが魂の奥底に刻まれている。僕はこの日、彼女のイメージする彼女の信人として生きていくことを心に誓った。
2.09
記憶が戻っている振りをするのは僕には難しいことではなかった。なぜなら、人の心の声を聞くという能力を有していたからだ。僕はこの能力をフル活用して、記憶と記憶の隙間を埋めていった。そして、高校に進学するころには、この記憶補正作業が、ほとんどすべての分野で完了していた。
2.10
私立坂の上高校2年、高梨李依は誰よりも早く教室のドアを開ける。毎朝必ずである。当たり前のように窓際の一番後ろの席に座る。1年の時からずっと同じ席である。席替えをしてもクラス替えをしても。そして本を開き、こう願うまでが朝のルーティンである。
「誰も私に話しかけないで……」
2.11
ページをめくる音しか聞こえなかった教室に生徒が一人、また一人と入室する。ドアの開閉、朝の挨拶、椅子と床が擦れる音、ふざけあう笑い声と怒鳴り声、様々な音が混じり合う。ホームルームの時間が近付き活気が騒音へと変わるころ、一人の男子生徒が李依のもとへ近づいてくる。
2.12
「その本面白い? いつも本読んでるよね。読書好きなの?」
「僕も、好きなんだよね――、読書。本っていいよね――、高梨さん」
「んっ? 僕? 岡本! 岡本信人! ね、高梨さん」
「えっ、私!? ありえない……」
「ひどいなぁ――。傷つくわ――。1年生からずっと同じクラスじゃん」
2.13
「何なのこの人、めんどくさい! バカなの! でも、私には関係ないわ」
李依はこみ上げる怒りの感情を押し殺し、今度は冷静にはっきりとこう願って、タイトルも分からない手元の本に視線を戻した。
「岡本君が二度と私に話しかけてきませんように……」
2.14
李依は登校も早いが下校も早い。いつものように、一番乗りで下駄箱に手を突っ込み上履きと靴を交換しようとしたそのときである。指の先に違和感を覚え、覗き込むとそこには、ラブレターと呼ぶには似つかわしくない体裁の無造作にちぎられたノートの切れ端が置かれていた。まるで七夕の短冊のように。
2.15
「話したいことがあります。放課後、校舎の屋上で待ってます。 岡本信人」
「会話がダメなら、手紙ならってこと? でも、結局、話したいって! やっぱりバカなの!」
李依はこれで最後と言わんばかりに強く強くこう願った。
「岡本君が放課後、校舎の屋上に現れませんように……」
2.16
どういうことだろう。李依は気が付くと、教室に向けて引き返していた。下校する生徒たちとすれ違う。教室を一瞥し、急に走り出す彼女。自信がなかったわけではない。ただ、どうしても確かめずにはいられなかったのである。そのまま屋上への階段を駆け上がり、鉄製の重たい扉を勢いよく開け放った。
2.17
「高梨さん、来てくれたんだ」
「えっ、嘘っ!? ありえない……」
その場に呆然と立ち尽くす李依に信人は決定的な一言を浴びせ掛ける。
「願い事、叶わなかったね」
その言葉で完全に戦意を喪失した李依。信人は不敵な笑みを浮かべ、淡々と一方的に語り始めた。
2.18
時間:13年前
場所:自宅
明日は李依が待ちに待った保育園の親子遠足である。天候はというと、梅雨入り前だというのに、すっきりしない空模様が続いていた。
「明日、晴れたらいいのになぁ……」
窓の外はどしゃ降りの雨。しかし、翌朝、見上げた空は雲ひとつない晴天だった。
2.19
時間:9年前
場所:小学校
「リレーの選手になりたいなぁ……」
友達のすみれは足が速い。リレーの選手など一発合格で、いわゆるスポーツ万能というやつである。
「どうしたの? その怪我!?」
「自転車で転んじゃって……骨折だって」
「やった――、これで私がリレーの選手に」
2.20
「願い事がすべて叶ってしまう能力ね、それって本当なの? 偶然じゃないのかな?」
時間:1週間前
場所:高梨李依の部屋
テスト範囲の勉強を終え、部屋の明かりを落としベッドに入る李依。
「テストで100点が取れますように……」
「それは高梨さんがまじめに勉強したからでしょ」
2.21
時間:5時間前
場所:学校の教室
「誰も私に話しかけないで……」
「窓際の一番後ろの席で、いつも本読んでたら誰も話しかけてこないって」
「何なのこの人、めんどくさい! バカなの!」
「岡本君が二度と私に話しかけてきませんように……」
「ひどいな――、でも僕には効かないんだな」
2.22
時間:5分前
場所:学校の昇降口
「会話がダメなら、手紙ならってこと?」
「岡本君が放課後、校舎の屋上に現れませんように……」
「そのくせ心配で様子を見にきてくれたんだ」
「そんな面倒なことしないで、こうお願いすればよかったんじゃない?」
「バカなの! 死ねばいいのに……」
2.23
「それはダメ――――――――!! 絶対にダメ――――――――!!」
李依は悲鳴にも似た鋭い声で信人の言葉を遮った。それは、まるでその言葉が神様に届くことを邪魔するかのように。
「おっと、ごめん。これは少しデリカシーがなかったか。けど、わざとじゃないんだ。それは今初めて聞こえてきたから」
2.24
時間:7年前
場所:自宅
「お父さんなんて死んじゃえばいいのに……」
本気で父親がいなくなればいいなどと考えたわけではない。ずっと一緒にいたかった。ずっと一緒に生きたかった。ただ約束を守ってくれなかった父親が許せなくて、そんな心にもない思いが脳裏をよぎっただけだった。つい。
2.25
「あれ、お父さんは?」
「え、忘れちゃったの。出張でロンドンへ向かったわよ。今ごろは空の上でブレックファーストかしら。約束してた水族館に行けなくなったってお父さんと喧嘩してたじゃない」
「お父さんの嘘つき! もう知らない!」
母親は少し揶揄うように李依の声と口調をまねてみせた。
2.26
液晶テレビが急に報道に切り替わる。
「7時10分、羽田空港発、ロンドン行、ANC127便が東シナ海上空で爆発炎上墜落、乗員乗客の安否は不明」
「繰り返します!」
「ANC127便が東シナ海上空で爆発炎上墜落、乗員乗客の安否は不明」
「私がお父さんを殺したんだ……」
2.27
「多分、それ、君のせいじゃないよ。だって、僕は君に話しかけているし、屋上にも来られたじゃない」
「あなた何者? それってあれよね。人の心が読める的な」
「正確には心の声が聞こえるって感じかな。幼女の高梨さんの声、かわいかったなぁ――」
「いい加減にしないと、願うわよ!」
2.28
「つ――か、それ多分、そういう能力じゃないと思うよ。僕には、君の願い事が聞こえた。そして、その願い事の通りにならないように行動することで簡単に回避できた。つまり、君の力は予知能力に似た力じゃないかな。君が願ったからそうなったんじゃなくて、そうなるから君が願ってたってこと」
2.29
「お父さんが死んだのは私のせいじゃなかったってこと?」
李依は心のうちでそう呟いた。
「その通り!」
「って、勝手に人の心の声を聞くな――!」
反射的にツッコミを入れてしまい顔を赤らめる李依。
「何を考えても筒抜けってことね。気持ちが悪い。あなたとは仲良くなれる気がしないわ」
2.30
信人は構わず話を進める。
「君が願ったから君のお父さんが飛行機事故に見舞われたんじゃない。君のお父さんが飛行機事故に遭う運命だったから君が願ってたってことさ」
「でも、それなら、あらかじめ私がお父さんに伝えていれば、事故は未然に防げたはず。それなら、やっぱり私のせいじゃない」
2.31
「それは、違う。あの頃、君はまだ自分の能力を正確に理解していなかった。いや、たとえ理解していたとして、当時の君に何ができた」
「そんなこと……分からないじゃない……」と言いかけて李依は話すのをやめた。なぜなら、この人には言わなくても伝わるのだから……
2.32
もっと早く自分の能力に気付いていれば、お父さんを救えたのではないかという後悔の念は心に深く刻まれた。しかし、それ以上に、ひとつの真実だけで彼女の心は救われた。
「私がお父さんを呪い殺したわけではなかった……」
「そう、君は悪くない」